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空虚な正義の仮面 - あるネット批判者の告白
先日、長年の友人から驚くべき話を聞きました。彼はインターネット上で長年、匿名の政治批判者として活動してきたのですが、ついにその行動の無意味さに気づいたというのです。
彼の告白は、私にも大きな気づきをもたらしました。ここで、その内容を共有したいと思います。
幼少期の傲慢さ
彼の話によれば、この行動パターンは小学生の頃から始まっていたそうです。5年生の時、学級委員長選挙で敗れた彼は、当選したクラスメイトを徹底的に批判するようになりました。
「あいつは約束を守らない」「あいつは先生にごまをするだけだ」などと、根拠のない中傷を級友の前で繰り返していたのです。その時の彼は、自分の言葉の力に酔いしれていました。
批判することで、自分が特別な存在だと感じていたのでしょう。
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ネット上での「正義の味方」
大人になり、インターネットという匿名の場を得た彼の習性はさらにエスカレートしました。特に政治家への批判は過激を極めていたようです。
「あの政治家は国民の声を聞いていない」
「この政策は失敗する」
「彼らは自分の利益しか考えていない」
「過去、不正の疑惑があった」
こういったコメントを毎日のように投稿していたそうです。
そのたびに、彼は自分が正義の味方として社会に貢献しているかのように感じていました。批判をすることで、自分が賢く、正義感に溢れた人間だと思い込んでいたのです。
自己陶酔の果てに
ある日、彼はふと自分の投稿履歴を見返しました。
そこには「正義の味方」を演じる自分の姿がありました。
批判の言葉を並べ立てる様子は、まるで現代の思想家のようだったといいます。しかし、その瞬間、彼は奇妙な感覚に襲われました。
彼の批判は、本当に社会のためだったのでしょうか?それとも、ただ自分の存在感を誇示するためだけだったのでしょうか?
政治家たちを批判する彼の言葉は鋭く、時に皮肉が効いていました。その才気溢れる表現に、彼自身が自己陶酔していたことを認めざるを得なかったのです。しかし、その裏で、実際に何か行動を起こしたことがあったでしょうか?
選挙に行ったことがあったか?
地域の政治集会に参加したことがあったか?
政策提言を書いたことがあったか?
地域社会に貢献したことがあるか?
答えは、全てノーだったと彼は言います。これまでの長い人生で、他人の役に立ったことは全くなかったようです。
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仮面の下の空虚
この事実に気づいた時、彼は激しい虚しさを感じました。彼が被っていた「正義の味方」の仮面の下には、何も残っていなかったのです。
批判は簡単でした。キーボードを叩くだけで、自分が何か大きなことを成し遂げたような錯覚に陥れましたが、実際には何も変えていなかった。何も生み出していなかったのです。
冷静に自分の書き込みを見返すと、建設的な意見は一つもありませんでした。批判ばかりで、具体的な解決策を提示したことは一度もなかったのです。政治家の人格を攻撃することはあっても、政策の中身を真剣に考えたことはなかったのだと、彼は気づきました。
最後に
今、彼は鏡に映る自分の姿に戦慄しているという。そこに映るのは、「正義の味方」の仮面を被った、空虚な批判者の姿だ。
彼は静かにつぶやいた。
「このままでは、心の安らぎは得られないだろう」
その言葉には、深い後悔と自責の念が滲んでいた。ネット上の無責任な批判が、自らの魂を重くしてしまったという痛烈な自覚。それは、世代の違いを超えて、私の心にも重く響いた。
私たちは、ネット上で何を求め、何を発信しているのだろうか。そして、その行為は私たちの魂をどこに導くのだろうか。善行を積むでもなく、ただ他者を批判するだけの日々は、はたして私たちを安らぎの地へと導いてくれるのだろうか。
2024年8月29日 ナルシストの隣人