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『ひめごと』Vol.2/Vol.3 #文学フリマで買った本

 ずっと気になっていてなかなか手に入れられなかった本。「百合俳句」と呼ばれる女性同士の恋愛模様にフォーカスした俳句のアンソロジーだ。連作・作品評・一句評・俳句Q&Aという充実のラインナップとなっている。
 連作の感想を交えながら一句鑑賞を綴っておく。わたしの虚妄が暴走していた場合はどうか生あたたかい目でご覧いただければと思う。


『ひめごと』Vol.2

恋多きひとにふられて芝桜  森舞華「恋愛譚」

 連作を編むときはストーリーを持たせていると語る森さんの作品『恋愛譚』は、まさにひとつのラブストーリーが展開されている。漫画のページをめくるドキドキ感を、一句一句読み進めていく中で感じることができる。
 この句は、はっきりと「ふられて」とあるが、告白をしたかどうかは前後からは推測できない。しかし、失恋というのはかなしいかな、告白の有無を問わないのだ。作中視点は「恋多きひと」に恋をしてしまい、ふられてしまったのだ。視線は自然と下を向く。ふと目についた芝桜がきれいなピンク色をしている。これが後に出て来る句<「青がすき」「あたしはピンク」日傘さす>にも薄っすらと作用しており、ずっと好きな人のことを思い浮かべているのだと思わせられる。
 この物語は失恋を引きずることなくいじらしく続いており、ヒリヒリとした関係を遠目から見守っていたいと思わせられる作品だった。
 余談だが、この「恋多きひと」は明るくてモテるタイプの人ではないかと思う。一方、そんな人を好きになった作中視点は、「青がすき」な落ち着いた人なのではないだろうか。対照的なふたりだからこそ、激しい展開もなく、憧れで終わることもできず……という悶えが生まれる。

だいたいは本能のせい夏蕨  雨霧あめ「魔法少女の憂鬱♡」

 魔法少女と聞くと脳裏に「魔法少女まどか☆マギカ」が出てくるタイプの人間だが、それは置いておくとして。作品の舞台は京都。左京区、京都タワー、祇園祭などわかりやすくポップでキャッチーだ。さすがは魔法少女。足取りが軽い。
 この句は、百合俳句としてだけでなくすなおに好きな句でもあり選んだ。「だいたいは本能のせい」と言い切るところが潔く、ぶっきらぼうに言いっぱなしにしながらも「夏蕨」という生活に根付いた物が受け止める。非日常ではなく日常を生きている句だと感じた。本能に従う情熱的な少女を思い浮かべながら、その眩しさに目を細めずにはいられない。
 作者コメント(と表現していいのだろうか。エッセイ部分とも言うか)で、「秋の美少女を探しています」とあった。余計なお世話を承知で、ここでわたしの好きな秋の美少女を紹介しておく。紅葉を見上げて写真を撮る瞬間。写真ならいつでも撮るだろうと思われるだろうが、秋のすこし肌寒くなってきた頃、色づく紅葉を見て「きれい」と笑いながらスマホを構える姿……かわいい。こっちが「あんたがね」と言いたくなる瞬間を思う今日この頃。以上、ご紹介まで。

夏服を着崩してスクーターの君  松本てふこ「映画『ソウルメイト/七月と安生』『ソウルメイト』を観た」

 映画を視聴したことがないため、映画作品についてはなにもわからないが、連作からわかるのは、ふたりの少女の心模様である。前書きに「鎮江のふたり」「済州島のふたり」とあり、それぞれの映画にちなんだ連作になっていることがわかる。
 この句は、スクーターに乗って颯爽とした雰囲気の「君」を眩しく思っている光景と読んだ。眩しいという文字は出てこないが、「夏服を着崩して」という表現から、放課後かサボタージュの青春性を感じられる。作中視点もその青春性に心を奪われているのではないだろうか。おそらくやんちゃなほうのヒロインが乗っている。
 最初の鑑賞でも書いたが、やはりバディ(コンビ、相方、言い方はなんでもいい)は対照的なほうが目につくし、心に残るものだ。それだけ物語性があるからでもあるし、衝突を避けられないからでもある。この作品のふたりは、時に衝突しながら成長していくのだろう。最後は誰にとってのハッピーエンドなのか。なんだかそんなことを考えてしまう。

たぶんねって言い合える距離水澄んで  音無早矢「ボタン」

 音無さんの作者コメントで、作品との関わり方について書かれている。これはわたしも常々考えていることで、どうしても「消費行動」を避けられない場面が出てくる。そうした中で、わたしはどうすれば「消費」ではない姿勢(行動)を取れるか、と日々模索している。音無さんはコメントの最後に“「ただ読む」だけではなく、「作品と対話する」という姿勢が求められているのかもしれません。”と語っている。これからも自分なりに模索していきたい。
 引用の句は、会話の途中を切り取ったものである。つまり、前になにかしらの言葉があり、それに対する「たぶんね」ということになる。いろんな言葉が思い浮かぶが、わたしは「わたしのこと好きなの?」と冗談めかして言われたのではないかと想像した。それに「たぶんね」と返せる距離というのは、もどかしくも美しい関係性ではないだろうか。美しいと思えるのも「水澄んで」という季語で締めくくられているからで、おどろおどろしい関係ではないことがわかり安堵する。
 連作を通してやさしくやわらかな印象があり、作中のふたりがいつまでも些細なことで笑い合いながら暮らしていてほしいと願うばかりだ。

『ひめごと』Vol.3

裸にて嘘思ひきりつきあふも  松本てふこ『鏡』

 「またもや映画」とコメントのタイトルにあるように、またもや映画詠。映画に疎いわたしが読むのは申し訳ない気がするが、むしろ開き直って読めるというもの。今回もミリしらで読ませていただく。
 上五から「裸にて」とあけすけな表現があるが、続く「嘘思ひきりつきあふ」となかなか情熱的な展開が待っている。実際はひっそりと吐きあっているかもしれないが、行動は大胆である。しかし最後に「も」とある。「つきあふも」だ。「つきあつて」ではない。最後の最後に煮え切らない。「も」とはなんなのか。「も」からなにがあったのか。とても気になるし、想像を掻き立てられる。
 嘘をつきあっても、結局本当のことがわかってしまうのか。それとも、嘘もなにもかもどうでもよくなってしまうのか。ここは他の人の意見が聞きたい。「も」の思わせぶりに翻弄されてしまった。

冬めいて幼馴染の距離のまま  音無早矢『大人になる』

 タイトル「大人になる」にある意味でぴったりだと感じた。はっきりと失恋しているとは思わないが、ヒリヒリとした感覚が冬に向かっていく中で濃くなっていく。ヒリヒリとしながらも、悲観的になりすぎないのはこの作中主体の軽やかさがあるからだろう。
 軽やかさを感じるのは、作中に出てくる動詞によるものだろう。「揺れて」「咲いて」「泣いて」「振って」「剥いて」「覚えて」と「て」で終わるものが多い。「て」という発音が軽く聞こえるし、口調としてもやわらかくかわいい。読み進めていくうちに作中主体のふわりとした軽やかさが愛おしく感じられる。

道徳を失つて抱く柘榴かな  森舞華「この重さ」

 くだものにまつわる句が並ぶ作品。なかには「缶詰」や「フルーツドロップス」も出てくるが、瑞々しい果実にはない存在感がある。
 その中でこの柘榴の句は背徳的な心情を感じる。「道徳を失つて」とあるが、実際のところ具体的な道徳性というものは見えてこない。飽くまでも作中主体が失ったものが道徳的なものである、ということだろう。柘榴の実は果実の中でも可食部が少ない。ジュースにしたり、ジャムにしたりと加工して味わうことも少なくない。素直に果実として楽しむことが難しいというところも、「道徳を失つて」という複雑な心情に合っている。
 そしてこの「抱く」であるが、まずは文字通り柘榴を抱いていると読むことができる。一方で、柘榴がなにかの例えである場合、相手の女性として読むこともできないだろうか。すると、「道徳を失つて」という言葉の意味がぐっとこちらに近づく。まるで背徳感を共有するかのように、秘密を知ってしまったような気分になるのだ。

野良猫に名前をつけて秋うらら  水草いもり「Blooming」

 タイトルの「Blooming」がぴったりな明るく甘い作品。甘いと言ってもべたべたしているのではなく、ふたりがじゃれあって、まるでこの句の野良猫のような気ままで自由なものを感じる。恋愛にまつわる感傷はどちらかと言えば薄く、おだやかな気分でふたりを見つめることができる作品だ。
 この句は野良猫に名前をつけるだけの話だが、そこがかわいい。他にも寄り道をわざとしてみたり、起き抜けのジャージでアイスを買ったりと、日常の何気ないことが並んでいる。わたしはこの日常の何気なさこそ最高のしあわせではないかと思っている。この作品に並ぶ句は、その日常の中にあってふたりが思わずシャッターを押したくなるような、ふたりにとっては心に残っている日常なのだ。だから野良猫に名前をつけたことも、特別なことだった。「秋うらら」というさわやかな季語で締めくくられているのも、このささやかな日常を大事にしている表れだろう。

幸せの一番底にある寝落ち  日比谷虚俊「Sweet; Eternal; Invisible;」

 日比谷さんの作品はどうやらバーチャルライバーを詠んでいるらしい、ということが作者コメントからわかったので調べてみた。なるほど、こんな世界があったのか。というのが素直な感想である。名前まで読み込まれているふたりのことを横に置いておくのは気が引けるので、薄っすらと感じつつ読むことにする。
 引用の句は、「寝落ち」という一見残念な行動が「幸せの一番底」という表現によって救済され、心地よい眠りであることと共にしあわせの瞬間になっている。バーチャルライバーという立場であれば寝落ちはまずいのではないかと思うが、このふたりはコラボ相手でもあったとのことだから大事には至らなかったのかもしれない。好きな相手と散々おしゃべりをしたあと、うつらうつらとしているのもまた穏やかな心地だろうと察する。
 この作品は川柳で構成されている。俳句では季語に託すとよく言われるが、川柳ではストレートな表現が多いように感じる。そこが日比谷さんがこのふたり(crossick)に抱いている感情を表現するのに適していたのだと思う。新鮮な気持ちで読むことができておもしろかった。

 以上、『ひめごと』Vol.2/Vol.3の感想でした。連作を読むことがまだ難しく、ふわっとした表現やぬるっとした解釈しかできていなかったかもしれません。でも、『ひめごと』を読んだときめきを残しておきたい! と思ったので、ここに残しておきます。あとで読み返したら恥ずかしくなって消したくなるんだろうな、と思いつつ、恥を承知で出しちゃいます。わたしは忘れっぽいので、感動は残さないといけないのです。
 すてきな作品を掲載いただいた執筆者のみなさまに多大なる感謝を。
 それではここまでお付き合いいただきありがとうございました! また続刊が刊行されますように!

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相田 えぬ
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