見出し画像

西川火尖『凧、ハウリング、百葉箱、』

 三人展「凧、ハウリング、百葉箱、」の開催時期に運悪く風邪をひいて(しかも拗らせて救急搬送されて)しまいまして。行けずじまいでとても残念に思っていたところ、火尖さんのご厚意で句集『凧、ハウリング、百葉箱、』と『綿菓子日記』を入手いたしました。感謝の意と共に感想を綴っておきたいと思います。火尖さん、ありがとうございます。

表題句について

 表題句というのは、表紙を捲って最初にある三句のことです。わたしはこの句がこの句集の表題句だと思っています。と言うのも、タイトルの『凧、ハウリング、百葉箱、』がそれぞれに含まれているからです。

殺戮の時代に凧を揚げてをり

 「殺戮」という強い語句を用いたこの句は、わたしたちの日常生活が「殺戮の時代」であると訴えています。同時に、凧を揚げるという穏やかな光景とのコントラストは、光/影、明/暗だけの濃淡ではなく、作中主体の複雑な心模様でもあるように感じます。

息づきのもう山百合のハウリング

 音楽機器(マイクやスピーカーなど)の調整の際に「キーン」「ブーン」という音が出ることをハウリングと言い、機械同士が音を拾い合うことで起きる現象です。この山百合は一輪ではなく、群れて咲いているのかもしれません。お互いが共鳴し合うのではなくハウる。偶然で、他意のないことかもしれないけれど、(人によっては)不快で不安定な音を生み出してしまう。

みなみかぜ声の百葉箱が欲し

 小学校の裏庭の隅に百葉箱がありました。温度計と湿度計が入っているその箱の中を、わたしは覗いたことがありません。
 「声の百葉箱」というのは、声の温度や湿度を知りたいということでしょうか。南風を「みなみかぜ」と表記することで、音がひとつひとつはっきり聞こえてくる感覚があり、それが「百葉箱」の役割を担っている気がして、意味が響き合っていると感じました。

暮らしの中の俳句

 わたしは常々、「俳句のある暮らし」「暮らしの中の俳句」について考えます。俳句の存在は人それぞれだと思いますが、わたしにとってはこのふたつの考え方が主になっていると思います。
 この句集の冒頭に、このようなメッセージがあります。

いい作品を作る、いい作品を読む、
その一点だけを目指していては掬いきれない何かが、
詩歌にはあると信じています。

句集『凧、ハウリング、百葉箱、』2頁

 いい作品を作ること、いい作品を読むこと。そのこと自体はなにも悪いことではないのです。大事なのは「その一点だけを目指すこと」で零れるものがあるということです。すべてを掬おうということではなく、掬いきれないものがあると知っていてもなお、掬おうとすることが大事なのだと思います。

 句集の中には、反戦や平和についての句も出てきます。それは、日々の暮らしの句の中にさりげなく、でもはっきりと並んでいます。7ページ、8ページと色濃く出ている句(「寒卵民は平和を笑ひ棄て」「反戦と言ふ顔撮られ冬帽子」「追悼の午後半日は凧を揚げ」)が並びますが、ふっとしばらく日常の句が続きます。
 穏やかな日常は冒頭の表題句の上に成り立っている。地続きである。そういうメッセージが句を読み続けているうちに浮かんでくるようです。わたしの考える「暮らしの中の俳句」というのは、ただ日常を描くことだけではなく、今ある日常がどういうものなのかということを掬いとることでもあると感じています。
 そうして、句集をあたりまえのように読むこと、味わうこと、なにかを感じとることもまた、「俳句のある暮らし」であると考えています。

日々を描く

 句集の中で強い言葉を用いない、生活(と言ってもどれも生活の一部ですが、特に生活感のある、という意味)について描かれた句が多数あり、とても好きなのですこし引用します。

先に目覚めてキッチンで吹く石鹸玉
夏痩の妻が少年ジャンプ読む
秋の日の拍手になつて剥がれてゆく
君は素手でトマトを潰し始めけり
泊まるかと聞かれてゐない缶ビール

 「日常」というのは実に幅の広い言葉で、人によって見ているものが違うので、人の数だけ日常があると思います。36ページから最後にかけての句は、メッセージにあった「掬いきれない何か」を掬おうとする姿勢だと感じました。
 最後にある句「春風や刺繍の如く地に生きる」には、火尖さんのなんらかの決意(覚悟?)のようなものを感じて、とても背筋が伸びました。

 以上、句集『凧、ハウリング、百葉箱、』の感想でした。
 最後までお付き合いいただきありがとうございました。

よろしければサポートお願いします! サポート代は句集購入費として使わせていただきます!