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秋の日のヴィオロンと良寛の紅葉:一枚の葉に込められた思い

先日、あるブログ記事でポール・ヴェルレーヌの「秋の日のヴィオロン」について興味深い解釈を読みました。

この記事では、この詩に登場する「ヴィオロン」がフランス語の原詩では複数形であることや、ヴィオロンのため息が実際のヴァイオリンの音ではなく、秋風のメタファーだという解釈があることが紹介されていました。また、「そこかしこ定めなく飛び散らう落ち葉」が、複数の葉が無秩序に散らばっている様子を表しているという解釈もあり、非常に参考になるものでした。

その記事を読んで、私は自分の解釈がどうだったかを思い返しました。実は、私が最初にこの詩を読んだとき、イメージしていたのは一枚の葉でした。この一枚の葉が風に揺れながら、ひらひらと地面に落ちていく様子を思い浮かべたのです。

その理由は、良寛の辞世の句にあります。良寛は「裏を見せ 表を見せて 散るもみぢ」という句を残しました。この一枚の紅葉が裏と表を見せながら舞い落ちる様子は、彼自身の人生を象徴しており、酸いも甘いも経験した人間が、やがて静かにその命を終える姿に重なります。この解釈が私にとって非常に強烈であったため、「秋の日のヴィオロン」に登場する落ち葉も、どうしても一枚の葉として感じられたのです。

その後、誰か知らん人が書いたあるブログ記事かなにかで読んだエピソードがこの解釈をさらに強固にしました。30歳くらいで仕事を辞め、バイクで日本一周を目指したものの、事故に遭い、実家に戻って引きこもっていた男性の話です。彼はある日暇を持て余し、「秋の日のヴィオロン」の詩をチラシの裏に書き残して置いたら、あとでそれを母親が見て泣いたという話です。この話を読んで、私はますます一枚の葉が人生を象徴するイメージを強く抱くようになりました。彼の不安定な人生とふがいなさが、その一枚の落ち葉に重なるように感じられたからです。

ただ、その記事で紹介されていた「ヴィオロン複数形」であることや、「秋風のメタファー」という視点には新たな発見がありました。ヴェルレーヌの詩に登場する複数のバイオリンの音が、秋風そのものを象徴しているという解釈は、確かに詩全体の物寂しさ無常感を一層深めるものです。さらに、「そこかしこ定めなく飛び散らう落ち葉」が複数の葉を示している解釈も、人生全体の無秩序さや、人々の運命が風に吹かれて漂う様子を描いているようで、非常に興味深いものでした。

それでも私にとって、この詩の落ち葉はやはり一枚なのです。一枚の葉が、ひらりひらりと大きく揺れながら、右に左に定めなく漂い、最終的には地面に落ちていく。これは、一人の人間が送る不安定な人生を象徴しており、揺れ動く運命に翻弄されつつも、やがて終わりを迎える姿を描いているように思えます。良寛の紅葉、そしてバイクの人のエピソードが、私のこの解釈をより一層強めてくれました。

解釈は人それぞれですが、私にとって「秋の日のヴィオロン」は一枚の落ち葉が人生を象徴する詩です。ヴェルレーヌの詩の中に込められた儚さと美しさが、この一枚の葉に重なり、何度読み返しても胸を打つのです。

最後に、冒頭にあげた記事の人の以下の解釈は全くその通りだと思います。

上田敏の「落葉」は、ヴェルレーヌの詩の「翻訳」を超えて、もう日本人のものになっている。これまで多くの日本人に愛唱されてきたのだから、日本人のものと言ってもいいのだ。みんなヴェルレーヌの原詩を知らずに、独立した詩としてこんなにも長い間、味わってきたのだから。

https://note.com/yojiroo/n/n5bae8f0ca504


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