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『HSPブームの功罪を問う』を読む

「──HSPは、あくまで相対的に感受性(という性格)が高い人たちに貼られるラベルです。DSM-5に記載される精神疾患や発達障害のように、「診断」を目的としたラベルではありません」

飯村周平『HSPブームの功罪を問う』,岩波書店,p44

 みなさんは、「HSP」という言葉を聞いたことがありますか?

 この問いにたいしては、おそらく多くの人が「ある」と答えると思います。また中には、私こそがそのHSPの当事者である、という方もいるかもしれません。

 では、「HSP」がいったい何を説明する概念なのか、正確に説明できる人はいるでしょうか。単に「Highly Sensitive Person」の略であるとか、そういう話ではないです。


 どうでしょう。難しいですよね。そこで今回は久しぶりに、「総合的な探求の時間」というこのマガジンの名に立ち返って、「HSP」って一体なんだろう、なぜ「HSP」と名乗りたがる人がいるんだろうという疑問について、一緒に考えてみたいと思います。

※筆者(Suzuki)は専門的な医学的知識を持ちません。その点ご注意ください。

<主要参考図書>


 本書『HSPブームの功罪を問う』によれば、「HSP」という言葉は、エレイン・アーロン氏という臨床心理学者が書いた自己啓発本(1996年発行、和訳書は『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。」)と、同著者が翌年に発表した論文にルーツを持つものだそうです。

 その論文の中でアーロン夫妻は、現在 学術的には「感覚処理感受性」(いわゆる「HSP気質」)と呼ばれる心理的概念を測定する心理尺度を作成し、それを「HSP尺度」と名づけました。

 この研究の評価すべき点は、「敏感さ(感受性の高さ)」という曖昧なものを、ある尺度に基づいて定性的に表せるようにしたこと、もう一つは、ネガティブなイメージを持つ「敏感さ(感受性の高さ)」を、中立的に捉え直したことであるといいます。

「外向的」という性格特性にメリットとデメリットの両方があるように、「敏感さ」も環境によって「弱み」にも「強み」にもなり得る、ということを示しました。


 ここで注意しておきたいのは、HSPは「性格の個人差を記述するために概念化された心理的特性」(p74)であるということです。「外向性」「誠実性」「調和性」「開放性」「神経質的傾向という5つの特性によって性格の傾向を表す「ビックファイブ」のようなものです。


 また、この分野の研究者の目的は、「感覚処理感受性の個人差が、その他の心理学的な変数とどのように関連するのかを明らかにする」(p43~44)ことであり、「ある個人がHSPであるかどうか」を「診断」するための研究は行なっていないそうです。

 以上から、「HSP」は「DSM-5」という診断の手引がある発達障害や精神疾患とは明確に区別されます。そして、同分野の研究者である飯村氏は、今後も「HSP」がDSMに記載されることはない、つまり疾患や障害に扱われることはないと考えているみたいです。


 ではなぜ、個人で「HSP」を名乗ったり、「診断」を下したりすようなことが起きるのでしょうか。

 一つは、「HSP」という概念が、私たちの抱える漠然とした「生きづらさ」を説明してくれるように思えるからです。自分の不定愁訴や原因不明の不調に名前がつくことによって安心する、自己理解が進む、ということは往々にしてあることだと思います。そのラベルによって同じように苦しんでいる仲間を見つけることもできるでしょう。

 もう一つは、「敏感さ(感受性の高さ)」を「繊細さ」と言い換えてみた時の、その言葉の持つ魔性の魅力です。「感受性」というのはあくまで、環境からの被影響性を示すニュートラルな概念であり、感受性が高いから良い/悪い、反対に、感受性が低いから良い/悪いといった価値判断と結びつくものではありませんが、例えば「繊細さん」などと言ってみると、なんとなくそれだけで、特別であるかのようなニュアンスを孕むと思います。


 ところで昔、精神科医の春日武彦氏がこんなことを書いていたのを思い出します。「人間にとっての精神のアキレス腱は所詮『こだわり・プライド・被害者意識』の三つに過ぎない」(春日武彦『不幸になりたがる人たち 自虐指向と破滅願望』,文春新書,p67)という話です。

 
「被害者意識」は時に「特権」を求めます。それは「物語」と呼んでもいいものです。宗教的な寓話(多くは苦難を乗り越えるストーリー)からも分かる通り、人は自分の人生に「物語」を求めます。


 何か苦しいことがあった時には、誰しもがそこに「意味」を見出そうとします。本当はその「苦難」に意味などないと分かっていても、まっさらな現実をそのままに見るのはあまりに辛いからです。人間は苦難よりも、苦難に意味が無いことを恐れるのですね。

 「HSP」の場合、「苦難」とは「生きづらさ」のことであり、その「生きづらさ」が希求する物語とは「繊細さには『呪い』と『祝福』の2つの側面がある」(『HSPブームの功罪を問う』,p3)という筋書きから始まるストーリーです。

 しかし、こういった自己特別視が行き過ぎるのは考えものです。「特別な私たち」と「それ以外の彼ら」という区分けは、他者に対するナチュラルな軽侮の視線と、排他的な思想を導くからです。「HSPブーム」において私が危惧していることの重心も、まさにこの点にあります。

✱ ✱ ✱


   ある概念を知ったことによって、自己理解・自己了解が進む。それは悪いことではありません。そこからさらに踏み込み、自分の特性と「生きづらさ」の原因を分析していって、医療や福祉にアクセスする。あるいは、医療的アプローチを受ける。それも良いことだと思います。

  しかし、「HSP」という概念を持ってして、「わたしは○○な人間なのだ」という硬直的な決めつけを行う。勝手なものさしで他者を「診断」する。これは危険なことです。  「敏感さ(感受性の高さ≒繊細さ)」というのは、あくまで人間の持つ多くの特性や気質のうちの一つにすぎません。自分をカテゴライズして矮小化することは、他人の存在も同じようにして単純化することに繋がりかねません。

  みんなとは少し違う自分に、特別な名前を欲しがる気持ちはよく分かります。でも、安易に「何か説明した気になれる言葉」に飛びかかるのはとても危ういのです。いま流行りの様々な性格診断もそれは同じです。

 似たような話は他のnote記事の中でも何度もしていますが、自分にとってタイムリーに、すごく興味深い本があったので、こういった問題について今一度取り上げてみました。興味を持ってくれた方は、紹介した本もぜひ読んでみてください。それでは失礼します。

〈参照〉




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