映画『神は見返りを求める』:見てしまう良質な不快感
不快な映画だ。
しかし、見なければ良かった、とはならない。
映画『神は見返りを求める』は、𠮷田恵輔監督の妙技と、躍動するムロツヨシ・岸井ゆきのの個性が生む良質な不快感に、気持ち良いぐらいモヤっとするエンターテインメントである。
ムロツヨシ演じる田母神は、偶然の出会いから、売れないユーチューバーゆりちゃんの動画作りを手伝うことになる。
前半では二人が動画作りを通して距離を縮めていく微笑ましい様子が、軽いラブコメとして描かれていく。
しかし、ゆりちゃんが一気に人気ユーチューバーとなった後半では話が一変。
華々しいユーチューバーの世界に仲間入りし田母神を邪険に扱い始めるゆりちゃんと、それに反発してこれまでの好意の見返りを求める田母神との罵り合いが、YouTubeを舞台に繰り広げられる。
ただただ醜い。
作中、田母神はゆりちゃんのことを「クソだな!」と言うが、明らかに誰もがどこかしらクソである。
もし、田母神とゆりちゃんのどちらかだけが酷い人間だったとすれば、復讐劇のような単純にスッキリする話になっていただろう。
しかし、次々と露見する登場人物の醜さと哀れさが、まるでシーソーのようにバランスを取り、作品をひたすら苦々しくモヤッとする話として成立させている。
売れっ子になってユーチューバーたちのパーティーに参加するゆりちゃんも、鼻息荒くゆりちゃんを追い回す田母神も、不快だ。
それにしても、不快なのに見てしまうというのは、一体どういうことなのだろうか?
考えを巡らせていると、何人かの画家が頭に浮かんだ。
カラヴァッジョ、クラーナハ、笹山直規・・・いずれも、人の死体を描いた作品で知られる画家だ。
当然ながら、人の死体なんて見たいものではない。
しかし、彼らが死体を描いた絵画は、どうにも目を引きつけられる作品となっている。
つまり彼らは、そのままでは目を背けたくなるような不快な対象を、見てしまうものへと変えるのである。
アートの力によって。
例えばカラヴァッジョの明暗、クラーナハの女性の妖艶さ・衣服の華麗さ、笹山の少女の透明感といった描写は、死体の不快さとコントラストをなし、1枚の作品を作り上げる。
そうして作品は、全体として、元の不快な対象には無かった魅力を放ち、その魅力に引きつけられた鑑賞者は、作品を通して不快な対象と対面することになる。
このアートの力は、『神は見返りを求める』が持つ力とも通底するものに違いない。
絵画の例のように、前半のラブコメのゆるい雰囲気、ユーチューバーというキャッチーな素材、そして確立したムロツヨシのキャラクターといった要素が、不快さとコントラストをなす。
そうして、本作は映画という方法で、現実世界では見ることがはばかられる人の「えぐ味」とでも言うべき醜い人間性を、見てしまうエンターテインメントへと変える。
ラブコメ、ユーチューバー、ムロツヨシ・・・だったはずなのに、いつの間にかわたしたちは、見てしまう良質な不快さに変換された人間の醜さを通して、現実世界のリアルな醜さと向き合い、考え直すことを促されるのだ。
さて、作品を見てしばらく経つと、次はどんな不快を感じられるだろうか?と、なんだか期待してしまう自分に気付いた。
もしあなたもそう思ったならば、あなたは既に𠮷田恵輔作品の虜だ。
山下 港(やました みなと) YAMASHITA Minato
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