『服が爆散する病』第二話
「おっはよー! ってその隈どしたの?」
朝。
いつもの学校までの道を歩く蓮を見かけた麗奈は声をかける。
しかし、その幼馴染である蓮の顔、目の下にはこれまで見たことのないような濃い隈が張り付いていた。
「おはよう、麗奈。昨日はちょっと深く考え事をしてしまってな」
蓮はやややつれた頬を擦りながら、言葉を返す。
「蓮がそんなになるなんて、一体何があったの?」
「いや、大したことじゃないんだ。ただ、これからの生き方をどうすべきかを考えていたというか、なんというか」
「いや、重い! 高校生なんだからもっと気楽に生きようよ」
バンバンと麗奈は蓮の背中を叩く。
「はは。すまないな。どうにも無駄に深く考えてしまう年齢になってしまったみたいだ」
「なんだそりゃ」
言って、蓮は麗奈に微妙に嘘をつかざるを得ないことに申し訳なさを覚える。
(嘘は言っていない)
(嘘は言っていないけど、原因が俺の中のエロスと転校生の関係だなんて言えないよな)
(だが、一晩考えて方向性も見えてきた)
(きっと今日は大丈夫だ)
そのまま麗奈と喋りつつ、学校に着いた蓮。
下駄箱に入ると、早速件の転校生と遭遇する。
「あ、蓮君、麗奈ちゃん、おはよう」
蓮と麗奈を視界にいれた美里はすぐに二人に駆け寄ってきた。
転校二日目ということもあり、不安な色を浮かべていた美里。
微かにその顔に明るさが灯る。
「おはよ、美里ちゃん」
麗奈は転校生が再びの不安にならないよう、最大限の笑顔を好意を乗せて挨拶を返す。
そんな麗奈の思いやりに美里の敏感に反応し、自然と笑顔になる。
「おはよう、美里」
そして、蓮も続いて挨拶をする。
「お、おはよ?」
美里はそんな蓮の顔を不思議そうにまじまじと見つめる。
「ん? 俺の顔に何かついてるか?」
「ううん、でもなんだか……」
すっと、美里は顔を蓮に近づけていく。
すると、そこに割って入るように、麗奈が声を発する。
「あー、ごめん。蓮さ、昨日いかがわしいこと考えて徹夜気味らしいんだよね。昨日と違って顔が酷いことは気にしないで挙げて」
「あ、そういうことだったんだね」
麗奈の話を聞いて、美里は頷きつつ蓮から距離を取る。
「人が真剣に悩んだ末の顔を酷いとは」
「あはは。ごめんごめん」
麗奈はカラカラと笑い、美里も遠慮がちに笑う。
(完璧だ)
蓮は心の中でガッツポーズをする。
彼の着込んだ肌着は一枚たりとも、繊維の一本も裂けていない。
そう、彼が一晩かけて編み出した作戦は『美里と視線を合わせない』ということだった。
さらに正確に言えば、視線を合わせはするが、自身の瞳のピントをズらし、彼女の存在とその後ろに見えるエロスを意図的に視界に入れないようにするという方策であった。
(これで俺も服が散らないし、美里を蔑ろにしなくて済む)
蓮はこれからの自身、そして転校生の未来の安寧を確信し、大きく安堵する。
☆
授業が始まると同時に、蓮はふわっと漂ってくる匂いに懐かしさを覚えた。
これまでこの教室内では嗅いだことのない匂い。
一瞬、麗奈がシャンプーを変えたのかと考えたが、麗奈が特定のブランドにこだわっていることを思い出す。
ふっと、匂いの先を辿るように、蓮は隣に視線を向ける。
(この匂い、美里のか)
視界にぼんやりと存在する美里。
その美里から発せられる懐かしい匂い。
その懐かしさに引っ張られるように、蓮は大きく深呼吸をする。
しかし、それが間違いだったと気づくのに、そう時間はかからなかった。
匂いが彼の肺深くに入り込み、そして、その匂いの持つ情報が脳に辿り着いた瞬間、七瀬先生の顔とあのボディラインが一気に押し寄せてきたのである。
匂いは記憶を司る。
蓮は視覚にばかり気を取られていたが、匂いも記憶を引き起こすトリガーとなり得るのだ。
もちろん、蓮がそのことを知らなかったわけではない。
しかし、徹夜して対策を考えた彼の脳は、その見えない脅威にまで注意を払うことを怠ってしまったのである。
視覚的な、昨日の彼女のファーストインプレッションが強烈だったこともその要因として挙げられた。
(このシャンプーの香り、七瀬先生と一緒だ)
咄嗟に鼻を覆う蓮。
だが、時すでに遅し。
着込みに着込んだ肌着が全て裂けてしまっていた。
あまりの恐怖に全身から噴き出す汗。
不幸中の幸いだったのは、彼が念には念を入れて肌着を通常の倍、十枚着込んでいたことだろう。
もしこれが五枚であったなら。
蓮は想像して恐ろしくなった。
(とりあえずは助かったが、ここからは口呼吸でしのぐしかないか)
ただ、慣れない口呼吸。
徐々に呼吸は浅くなり、酸素不足により、彼の思考は散漫になる。
それでも何とか持ちこたえた放課後。
帰り支度を済ませ、廊下をゆっくりと歩く蓮。
「なんとか、なるものだな」
やっといつもの呼吸といつもの視野と酸素を確保することのできた蓮。
ややふらつきながらも、その足取りは喜びに満ちていた。
しかし、今日という日がそう簡単に終わるはずもなく。
「おわっ!」
急に図書室の扉が開き、右手を掴まれたかと思うと、そのまま中に引きずり込まれてしまった。
「ななな、なんだ?」
慌てふためく蓮。
その彼の傍で美里が悲しそうな顔でたたずんでいた。
「み、美里!? どうしたんだ? こんなところで?」
しかし美里は答えない。
顔も下を向き、髪に隠れているため感情が読めない。
その代わりに、ずいっ体を近づけてくる。
「……っ!」
蓮は後ずさりする。
美里は蓮に近づき続け、とうとう蓮の背中は書架へと設置する。
「ど、どうしんだ美里? 何かわからないことでもあるのか? それならそうと言ってくれれば……」
「……て!」
「ん?」
「ちゃんと私を見て!」
顔をあげた美里の瞳からは大粒の涙が零れていた。
咄嗟に蓮はピントをぼかす。
「どうして私を見て話してくれないの? 他のクラスメイトのことはきちんと見て話しているのに!」
「いや、なんのことだ? 俺も君をちゃんと見て……」
「ピント、ぼかしてるよね?」
「え?」
「今だってそう。私が蓮君を見ると、蓮君は私を見るふりして、見ないようにしてる。もし私のことが嫌いならそう言ってほしい」
さっと視線を逸らし、美里から距離を取る蓮。
「いや、そういうわけじゃないんだ」
「じゃあ、どういうつもりなの?」
蓮は美里から逃げ、美里は蓮を追う。
同じ書架の周りをくるくると。
このままじゃ埒が明かない。
そう考えた蓮はちょうど美里と書架を挟みあう形で向かい合った。
(よし、これなら本に邪魔されてそれほど彼女の顔も見えない)
「ごめん。実は俺、人見知りでさ、出会ったばかりの人と目を合わせるのうまくできないんだ」
「そうなの?」
「ああ、そうなんだよ。でもすごいな、美里は。このことに気づいたのは君が初めてだ」
「そっか。嫌われていたわけじゃなかったんだ。よかった」
美里は安堵したのか、溜まっていた涙をそっと拭い笑顔となる。
「でも……」
と、美里の手が本を押しのけて書架から伸びてくる。
どさどさと数冊の本が落ちていく。
そして、そのまま美里は蓮の両頬を抑え、視線を無理やりに合わせてきた。
「ちゃんと見てほしい」
美里の声と手は震えていた。
(それはそうか)
蓮は自身の行いを後悔する。
(転校してきて間もないのに、クラスの中心である俺からちゃんと見てもらえないのは怖かったよな)
(俺は自分の保身ばかりを考えて、彼女の事をちゃんと見れていなかったんだ)
(申し訳ないことをした)
(俺の全裸がなんだ)
(美里の心の方がよっぽど大事だ)
蓮は覚悟を決めて美里にピントを合わせる。
そして、逃げられない視線の絡み合いの中、蓮の脳内にはエロスが溢れかえる。
もちろん、言語化するが、それでも追いつかないエロスの波が彼を追い詰めていく。
そして、コンマ数秒後、彼の制服は爆ぜた。
(終わったな)
(転校してきたばかりの子の前で全裸)
(これまで必死に築き上げてきた自分とさようなら)
(明日からは転校生の前で全裸マンとして罵られて生きていくのだろう)
(だが、それでいい)
(これで彼女の心が救われるのであれば)
しかし、全裸となったにも関わらず、美里は特段驚く様子を見せない。
「ふふっ。やっと私を見てくれた。ごめんね。わがまま言っちゃって」
「ああ、いや、俺の方こそごめん」
蓮は美里と話しつつ、恐る恐る視線を落とす。
すると、なんということでしょう。
彼の制服は下半身だけ爆散し、上半身部分は無事だったのです。
そう、神は彼を見捨ててなどはいなかった。
彼の下半身は丸出しにはなりはしたものの、書架に詰め込まれた本によって美里からはそれが見えていない。
(一体なぜ?)
蓮はこの状況に戸惑う。
しかし、そこに明確な答えを見出すことができないまま、会話だけが続く。
「無理やりで、ごめんね。でも、これからもこうしてちゃんと見てくれると嬉しいな」
「も、もちろんだ」
「ふふ、優しんだね」
「いや、そんなことは、ないさ。ただ、自分より美里のことが大事というだけだ」
その後も、いくつか言葉を交わし、美里は「じゃあ、また来週ね」と言って、美里は蓮の頬から手を離し、照れくさそうに図書室を出て行った。
残された蓮はただただ力が抜け、へたり込んでしまった。
「助かった……けど、来週からどうしよう」
美里との約束。
きちんと美里を見るということが彼の肩に重くのしかかってきた。
夕日に差し込み始めた図書室内で、下半身の制服を失った蓮は暫く動くことができなかった。