「春の蝶たち」
昼下り。
カミロはキッチンから拝借した残り物のアレパコンケソを食べながら、ベンチに座り中庭で遊ぶアントニオとミラベルを眺めていた。再建後のカシータは内側まで以前の家とそっくりで、一度壊れて作り直されたなんて、再建される様子を見ていなければ信じられないくらいだ。
二人はさっきから鬼ごっこをしているようだが、ジャガーのパルセとオオハシのピコも加わり、二人と二匹で大はしゃぎしている。
「ッキャー!」
嬉しそうに叫んで逃げるアントニオ。
「痛っ! もうピコ! 髪を引っ張るのはナシでしょ!?」
アントニオを捕まえかけたミラベルを阻止しようと、ピコが彼女の髪を引っ張ったのだ。
「ピコ、それはダメ!」
アントニオがたしなめる。
悪戯好きの鳥に腹を立てながらもミラベルの顔には笑みが広がっていて、以前より自然体で伸び伸びと楽しむ弟と従妹の姿を見て、アレパを頬張るカミロの頬も思わず緩む。
吹き抜けの中庭には春の柔らかい陽ざしが降り注ぎ、戯れる二人の笑い声と足音が漆喰の壁に心地よくこだまする。どこからか入り込んできた蝶が、ミラベル達の周りをヒラヒラと気ままに飛んでいる...。何て平和な昼下り。この僕が何の悪ふざけも悪戯もする気が起きないほど、素晴らしく退屈でまどろんだ時間....
そんなどこかわざとらしいモノローグが頭に浮かびかけていた時、アレパを口に運ぶカミロの手がふと止まった。アントニオとミラベルは今しがた鬼ごっこを中断し、花瓶の花にとまった蝶をしげしげと見つめている。
「これはね、オオルリアゲハっていうの。珍しい蝶なんだよ」
「へぇ、すごく綺麗な羽だねえ」
そんな弟と従妹の何気ないやり取りを聞いていたカミロの頭に、いつの間にかある過去の日の記憶が呼び起こされていた。あれは確か弟がギフトを貰うよりも前...。ちょうど今日のような春の日だったか―
2ーーー
アントニオはカミロと一緒にエンカントの町を歩いていた。太陽は半ば西に傾き、淡いオレンジ色の光が小さな家々と町を行き交う人々を優しく照らしている。兄の手を3歳の小さな手でしっかりと握り、二人で緩やかな坂道を上って行く。
「夕飯はアボカド料理なのにアボカドが足りないんだとよ。そいつは大変だ、な?」
独り言にも似た兄の声を聞きながら、アントニオは別の音にも耳を澄ましていた。荷物を運ぶロバの鼻息と蹄の音、どこかで吠えている犬の声、遠くから聞こえる鳥たちの鳴き声... 空を見上げると、別の鳥の一群が美しい隊列をなして飛んでいく。山の巣へ帰るのだろうか。
人々の生活音に混ざり、あちこちから聞こえて来る生き物たちの音。好奇心のままに、絶えず色々な方角へと向けられるアントニオの幼い小さな頭。顔に優しく触れるそよ風は、春の花の甘い香りだ。ある一軒の家の前を通り過ぎたとき、何かキラリと光る物がアントニオの目を捉えた。すぐに通り過ぎて見えなくなってしまったが、二人はそれから程なくして野菜を扱う店主の家に到着した。
「おじさーん、アボカド6つちょうだい」
「おうカミロ。使いか?」
兄と店主のやり取りを聞きながら、アントニオは今見たばかりの物が気になっていた。あのキラキラした光は何だったんだろう?
「そうだカミロ、俺の代わりにちょっと取ってくれんか?
どうも腰が痛くてな」
店主がそう言って、店の奥にある棚の上方を指差す。
「おっけーい任せて」
カミロは店主の頼みを快く承諾して、パッとエンカント一背の高い人物に変身すると店の中へ入っていった。店先に一人残されたアントニオは、振り返ってさっき兄と来た道をじっと見つめる。
「おじさん、コレ?」
「あー違う違う、その右のな...」
やり取りを続ける兄と店主を一度だけちらっと振り返ると、アントニオは歩き始めた。
3ーーー
幸い、探していた家は思っていたよりもすぐに見つかった。家を取り囲む塀の端から玄関を覗くと、ドアの前の小さな階段の上にそれはあった。瓶だ。よくフリエッタ叔母さんが薬草を入れているような、大きくもなく小さくもない瓶が玄関前にぽつんと置かれている。夕日を反射して、瓶はチカチカと眩しい光をアントニオの方へ投げかけていた。
アントニオは辺りを見回して誰もいないのを確認すると、そろそろと瓶に近づいた。遠くからは光の反射で見えなかったが、中で何かが動いている。さらに近づいてみると...
「蝶だ!」
そう小さく叫び駆け寄ると、鼻先がガラスに触れるほどの近さで瓶の中の蝶を見つめ出す。綺麗な青い羽の蝶が、瓶の上から下へ、下から上へと忙しなく飛び回っていた。蝶は何度か同じ動きを繰り返しては暫く止まり、また同じ動きを繰り返す。止まっている時、青色の羽が太陽の光に照らされて美しいグリーンに変わるのが見えた。始めは蝶の美しさに見惚れていたアントニオだったが、その表情は次第に曇っていった。
瓶の中は、狭そうだ。蝶が羽をばたつかせるたびに、コンコン、コンコン、と羽がガラスにぶつかる音がする。それにさっきからずっと同じ動きを繰り返してばかり。もしこの蝶が外に出ることができたらどうなるだろう?自由に飛び回る他の蝶たちのように、この蝶も飛ぶだろうか?
アントニオは瓶を持ち上げて小さな手で蓋を回そうとしてみたが、幼い彼の手よりも大きい蓋はビクともしない。少し考えて、固い瓶の蓋を歯を使って開けようとして母に咎められる兄の姿を思い出した。
「待っててね」
そう蝶に話しかけると、今度はしゃがみ込んで瓶を両脚の間に挟み、両手で力いっぱい蓋を捻ってみる。これがダメだったらカミロの真似をするしかない。眉間にしわを寄せ力いっぱい捻ると、カコッという軽い音と共に瓶の蓋が緩んだ。
小さな達成感を味わいながらゆっくりと蓋を外す。少しの間蝶は瓶の中でじっとしていたが、自分を閉じ込めていた蓋がないとわかると青い羽を広げ飛び立った。瓶を覗き込むアントニオの豊かな前髪をかすめて空中に飛び出し、不規則な曲線を描きながらヒラヒラと飛び回る。瓶の中にいるよりこっちの方がずっといい。蝶は暫く周囲を飛び回ると、やがて春の明るい夕方の空へと飛び去っていった。アントニオは喜びに顔をほころばせ、だんだんと小さくなるその後ろ姿を見送った。
その時だった。
「あーーーっ!!」
突然、背後から大きな叫び声がした。
4ーーー
「あーーーっ!!」
耳をつんざくような叫び声に驚いて振り返ると、そこには一人の男の子が立っていた。アントニオよりも2つか3つ年上だろうか。帽子をかぶり片手には棒付きの網を持っている。その少年は驚きを絵に描いたような顔をして、その見開かれた大きな目はアントニオの腕の中の瓶に釘付けになっていた。
ずかずかと大股で近寄ってくる。目の前まで来ると勢い任せに腕から瓶をひったくられ、アントニオは思わず前によろめいた。
「逃がしたの!?」
空っぽになった瓶を見つめ叫ぶように尋ねる。突然の出来事に驚くあまり反応できずにいると、瓶に向けられていた少年の顔がキッ!と強くアントニオの方へ向けられた。その目は怒りの色に染まり、眉は吊り上がっている。
「瓶を開けたの!?」
少年は詰め寄りながら再び声を張り上げる。少し年上とは言ってもその背丈の違いは明白で、3歳の子供を怯えさせるにはあまりにも充分だった。身を低くしながらアントニオは小さく頷いた。
「何で...信じられない!!」
アントニオが頷くのを見て、彼は瓶を抱えたまま天を仰ぎ、強い感情を抑えつけるように声にならない声を出して地団駄を踏むと、網を地面に思い切り投げつけた。バシッ!木が地面を打つ音が辺りに響く。
「...!!」
その激しい反応にアントニオは思わず目をギュッと瞑り、小さな体を更に小さく縮こませた。恐怖で足がすくみ、全身に緊張が走る。
ぼくが蝶を外に出したから怒ってるんだ。あれはいけないことだったんだ、だからこんなに怒ってるんだ。誰かに怒られるなんて思わなかった。どうしよう...どうしよう....怖い.....!
強く閉じた瞼の裏に、オレンジ色の空を嬉しそうに羽ばたく青い蝶の姿が浮かんだ。
5ーーー
―あの日は、夕飯用の具材が足りなくなったとかで買い出しを頼まれたんだ。ママが "アントニオが恥ずかしがってあまり町に出ようとしないから、一緒にお使いに連れて行ってあげて"と言うから手を繋いで一緒に行ったんだっけ。アントニオは小さい頃から...まぁ今も小さいけど...とても大人しい子だったから、あの店からこつ然といなくなったときはびっくりしたな―
腰を悪くした店主のおじさんに、フリエッタ叔母さんに明日来てくれるよう伝えておくよと言い残しカミロは店を出た。棚の上の物を取るついでに他にも色々頼まれてしまい、思ったより時間がかかってしまった。
「ごめんごめん、待っただろ...」
アボカドの入った袋を抱えて店を出ると、そこにいたはずのアントニオがいない。左右を見渡し店の中も振り返ったがその姿はどこにも見えなかった。
「アントニオ?」
大きな声で名前を呼ぶ。道行く人がチラッとこちらを見るが、弟の返事はない。
「アントニオ!」
もう一度大きな声で呼び、カミロは急いで来た道を戻りながらアントニオを探し始めた。
4分の1ほど道を折り返しもしかすると弟は反対の方向に行ってしまったのかと思案していると、どこからか子供の張り上げるような声が聞こえた。声がした方角に歩いていくと、また同じ声がさっきよりも大きく聞こえてきた。
ある家の前まで来たとき、塀越しにアントニオのくりくりとした髪の毛が見えた。良かった見つかった。塀を回り込み玄関先に顔を覗かせる。
「お〜いたいた、アントニオ」
ほっと安堵の溜息をついて名前を呼びながら近づくと、さっきは植木の影になって見えなかったらしい。アントニオのすぐ近くに別の男の子がいる事に気がついた。あの声はこの子だったのか。彼は突然現れたカミロを振り返ったが、その表情は険しくはっきりとした怒気を含んでいて、その側でアントニオが目をまん丸にしてカミロを見つめていた。穏やかとは言えない雰囲気だ。
アントニオはカミロを見るやいなや急いで駆け寄り、体の後ろに隠れてしまった。小さな両手でポンチョの端をギュッと強く握りしめる。まさか、苛められたのか?
「何かあったの?」
と少年に尋ねるが、その声は少し硬く冷たい。片手が無意識のうちに動き自分の後ろにいるアントニオを庇っていた。
「その子が僕の蝶を逃がしちゃったんだ!」
彼は顔を歪ませ、悔しそうな声で吐き捨てるように言った。蝶? カミロは少年の手に握られた瓶と地面に投げ捨てるように落ちている虫取り網を見て、全てを理解した。少年は空っぽの瓶を両手で強く握りしめ、唇をわなわなと震わせている。
「す、すごく珍しい蝶だったのに.....ずっと探してたのに....!」
そう絞り出すように言った途端、その目から涙が溢れ出した。今まで怒りで忘れていた悲しみが突然襲ってきたのか、大粒の涙が次から次へ頬を伝い、瓶の中にこぼれ落ちる。
「わ...」
カミロは思わず姿勢を低くして少年の方へ近づいた。よく雨を降らせる母親の相手をしているからだろうか、涙を見ると咄嗟に何かしなければと思ってしまう。一方のアントニオはポンチョの影から驚きと困惑に満ちた表情でしゃっくりをあげて泣き続ける少年を見つめていた。
弱ったな...。アントニオが町の子供とトラブルを起こすなんて初めての事で、カミロは半分混乱しながら髪を掻きあげた。こういう時はどうすればいいんだ?暫く二人を見比べた後、しゃがみ込んでアントニオに視線を合わせ、できるだけ落ち着いた声で尋ねる。
「アントニオ、本当に蝶を逃がしたのか?」
アントニオは少しの間俯いて黙っていたが、一瞬ちらっと少年の方を見やると、悲しそうな顔で小さく頷いた。
「...何で逃がしたの?」
返事を待ったが、アントニオは何も言わなかった。よっぽどショックを受けたのか、カミロと目も合わせようとしない。小さく溜息をつくと、静かに少年の方に向き直り言葉を選んで話しかけた。
「悪かったな...。弟はまだ小さくて、蝶が君の大切なものだってわからなかったんだ。代わりにオレが謝るから、その...許してやってくれないかな...。ごめん」
涙に濡れた顔を伺いながらそう尋ねたが、少年は小さくしゃっくりをあげ続けるだけで答えてはくれなかった。
どうすれば泣き止み許してくれるだろうかと思いながら何度か謝罪を繰り返す。太陽が山々の間に姿を隠し、空がだんだんと薄暗くなる。今ごろ家族は兄弟の帰りを待っているだろうが、このままこの少年放って帰るわけにもいかない。そうこうしているうちに、留守にしていた少年の母親が帰宅した。
それからは話が早く進んだ。事情を説明すると、母親は涙の跡を頬に残したまま黙りこくる息子の肩に手を添えながら逆にアントニオとカミロを気遣って謝り、すまなさそうに帰宅を促してくれた。
安堵の気持ちと後ろめたい気持ちを半分づつ味わいながら、手を繋ぎ帰路を歩く。空は既に群小色に染まり、春とはいえ陽が沈んだ後の空気はまだひんやりとしていた。
「きっと許してくれるって。な?アントニオ」
励ましの言葉をかけてみたが、アントニオは黙ったままだ。
「二人とも遅いぞ! 腹が減りすぎてバナナを10本も食べた! ほら見ろこの腹!」
父親の姿に変身しておどけて見せたが、アントニオはちらっと見るだけで笑ってはくれなかった。
―ごめんなアントニオ。あの時オレが店の前でお前から目を離さなければ良かったんだ。もっとちゃんと見ていれば良かった。蝶を逃がしたのも、きっと閉じ込められて可哀相だと思ったんだな。あの時弟が逃がした蝶は、結局どうなったんだろう―
「タッチ」
突然どこからともなく聞き慣れた声がして、カミロはハッと我に返った。色とりどりの刺繍で彩られた青緑色のスカートが目の前で揺れている。
「どうしたの?ぼうっとして」
笑いを含んだ声に顔を上げると、同い年の従妹がかじりかけのアレパを持ったまま座っている自分を見下ろしていた。そのすぐ後ろではパルセの背に乗ったアントニオがきょとんとした顔でこちらを見つめている。
「いや、ちょっと考え事...」
「考え事?...ブフッ」
目の前で吹き出したミラベルを、カミロはもの言いたげな目で見つめた。あらかたこの自分が"考え事"をしてるなんて可笑しいとでも思っているのだろう。
「何だよ」
とカミロが言う。
「いいえ別に?ただカミロが考え込んでるなんて珍しいな〜って思っただけ。でも必要なら私が話を聞くよ」
丸い眼鏡越しにまっすぐこちらを見据えて、明るい顔でミラベルが言う。アントニオはその後ろから少し心配そうな顔でカミロを見ていた。
カミロは少し考えると、
「そうなんだ、実は最近変身が上手く行かなくてさ...ほら見てよこの手」
そう言って片手をミラベルの方へ差し出した。
「手?どこか変なの?」
ミラベルが覗き込む。
「タッチ」
隙あり、とばかりにカミロはミラベルの眼鏡を下から指で弾き、残っていたアレパを口に押し込む。立ち上がって弟の頭をクシャクシャと撫でると、先に立って駆け出した。
「ミアベウはまらまらだなぁ、ほらアントニオ、逃げるぞ!」
「アハハ!」
アントニオは嬉しそうに笑うとパルセの背に乗ったまま走り出す。アントニオの頭に乗っていたピコがカラフルな羽を広げて飛び立った。
「あーハイハイ見事に騙されったってわけね。覚悟しなさい!」
そう言ってミラベルも走り出した。
春の中庭に子どもたちの笑い声がこだまする。
―End―
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