吉川宏志『叡電のほとり』を読む
ふらんす堂の短歌日記シリーズの2023年版。日付とともに一日一首と短文が付されている。歌と短文のほどよい距離感が、本シリーズにおける著者の腕の見せ所のひとつであるが、ここでは歌のみを見てゆく。
一月一日
新年のなかに二つの「ん」の音の朝の陽のさす道を踏みゆく
八月九日
いくたびを撃たれたりしか蒼天にほそく撓(しな)いて避雷針立つ
十二月三十日
薄日さす公園に来つ一羽ずつ鳥消ゆるごと今年の終わる
歌にはすべて日付があるため、特別な日にはその日を詠んだ歌が随所にみられる。
一首目、上句が序詞になっている。三句「ん・のおとの」ということばの言いにくさが、朝のあかるい道をゆっくりと、一歩ずつ踏みしめて歩く速度をあらわしている。新年における述志の歌であるが、そこに「男っぽさ」は微塵もない。
二首目、広島、長崎に落とされた原爆により多くの人がなくなり、生き残った人も病への恐怖、さらには周囲からの差別に苦しめられた。一首は被爆者への思いを避雷針に託し、痛切である。
三首目、元旦の歌では朝の陽がさしていたが、ここでは曇り空を通したあわいひかりである。一年が終わろうとしている。あたりは徐々に静かになってゆく。ゆく年を思いつつ、ひとりたたずんでいる。
三月一日
白梅の群れ咲く枝を鳥もまた人もくぐりぬ高さ違(たが)えて
三月十六日
晴れの日の花屋は前にせり出せり錆びた台車にプリムラの咲く
九月二十五日
人ならば濡れるほかなき荒草(あらくさ)のすきまを縫いてしじみ蝶とぶ
歌集の基調をなすのは、歌集タイトルにもみられるように、著者の住む京都の景を詠んだ歌の数々である。鳥、花、虫など、季節とともにうつりかわる京都の町の小さな風景を、優れた観察力、描写力、洞察力でうたってゆく。数多の秀歌がちりばめられている。
一月二十一日
ごぼ天をはみだす牛蒡嚙みながら若き日のわが失言を聞く
三月二十九日
おびえつつ生きるは同じ 鶺鴒(せきれい)の水を踏みつつ水を離るる
十二月十七日
おどろくとは目を覚ますこと 車窓(まど)よぎる冬ゆうやみの町におどろく
歌集中には家族(妻、息子、娘、両親、妹)の歌も多くみられる。多くの人々とふれあい、関わりつつ暮らしているのだ。そのなかで、個人としての「われ」も生きてゆく。牛蒡を噛み、水を踏み、ゆうやみにおどろきながら。