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「普通」を諦める勇気

普通を"諦める"勇気と、普通を"手放す"勇気は少し違うと私は思う。

中学3年で受験生でありながら不登校になってから今まで、私は普通(ここでは毎日学校に通うこと)を"手放した"だけだった。
自分の意思とは関係なく、手放さざるを得ない状況だった。普通ではなくなってしまったけど、「またいつか普通に戻れる」と心から信じていた。それを夢見て毎日を踏ん張って生きていた。

医療保護入院から退院してきて、かなり調子が良くて、通信制大学に行く予定だったのを急遽、共通テストを受けて全日の大学に行きたいと言い出したときは、「これで私も普通になれる」「私にも大学通えそう」と信じていたし、そのくらい元気だったし、希望に満ち溢れていた。

今思えば、躁状態だったなと思う。
双極性障害の診断は出ていないが、先生に「双極性障害かうつ病か微妙なところ」と言われていて、でも、たしかに躁状態はあるから、上手くコントロールするように言われている。
躁状態特有の万能感から、「私は健康になった」「私も大学に通える」と思い込み、周りを巻き込んで受験すると言い出し、受験勉強を本格的に始めようとしていた。

受験勉強のために、通信制サポート校での授業数を増やすことになって、1日3時間の授業になったのをきっかけに躁状態は終わってしまった。実際1日3時間の授業を受けてみたあと、私は絶望していた。
「早く家に帰りたい」「泣きそう」「もう学校行きたくない」というような感じだった。
うつ状態に入り、母親とも話し合って、「やっぱり通信制大学にして、体調回復するのを優先にしよう」という結論になった。

私が、母親のこの提案に同意したのは、母親には言えてない、ある気持ちがあったからだった。
それは、「興味のあることを勉強しながら、書くことを真剣にやってみたい」というものだった。
両立させるには、大学に通学することについては妥協しなければいけないと思った。

でも、この決断は私にとって容易なものではなかった。
私はまだ「いつか普通に戻りたい」と思っていたし、その時期として、大学生になるタイミングがいいと希望を持っていた。何より、私が4歳で受験勉強を始めて、勉強以外のもの全てを捨てて勉強だけに注力してきたのは、関西の旧帝大に行くためであったから、その目標を諦めてしまうということは、私の過去の死に物狂いの努力が水の泡になってしまうようで、とても怖かった。

頭の中で色んな思考がぐるぐるしているときは日記を書いて整理していた。整理しながら、過去の私の選択についても考えた。

小学校受験をしたこと。
不登校になったこと。
高校退学して通信に転校したこと。
どれも、後悔はしているけど、やり直せるとしても、私は同じ道を選ぶだろうなと思った。
本音は、「これでよかった」なんだと気づいた。
大学のことも、選択を後悔する時もあるかもしれないけど、最終的には「これでよかった」と、どんな選択をしても、私は思えるんじゃないかと思った。

それと同時に、「今更普通に戻っても仕方ない」とも思った。
全日制高校は中退してしまったし、精神疾患持ってるし、閉鎖病棟に医療保護入院もしてしまったし、お世辞にも普通とは言い難い道を進んできた私が、普通に戻ったところで得られるメリットはあまり思いつかなかった。
私にとっては、普通に戻ることよりも、私の経験を無駄にしない道に進むことの方が重要で、普通に戻って、普通に大学行って、企業に入社してしまったら、私の経験は誰のためにもならないのではないかと思うと、普通にこだわることが随分阿呆らしく思えてしまった。

ヨルシカの「歩く」という楽曲にこんな歌詞がある。

どうせならって思うよ
もう随分遠くにきた
何も知らないふりは終わりにしよう

ヨルシカ 「歩く」

まさに、私の気持ちはこれで、ここまで来てしまったのなら、とことん普通とは違う道を、堂々と、胸張って歩けるようになることも、アリなんじゃないかと思った。

でも、やっぱり時にはこの決断が正しかったのか、不安になってしまう私がいるし、普通を諦めきれない私もまだ残っているけど、
「もういいかな」って、そろそろ諦めがつきそうなところまできたと思う。病気のことも含めて。少し寂しいな。少しは強くなれてるといいな。前に進んでるのかな。
もう少しで、完全に「普通」を諦められそうだよ。
長かったな、すごく。


 最後まで読んでいただきありがとうございました🙇🏻‍♀️ ̖́-
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