第1話 強盗と花束

詩的な小説を書きたいと心底思いました。
書きました。


 私の全ては私の中にある。だがそれを掘り起こすのに、外の力を必要とする。
 例えばあなたのような。



 金が足りない。どころか無い。あなたへの花束までも。
 だから私は、そのためになんでもしてやる気でいた。あなたが望まぬまでも、それは私にとって然したることではない。あなたを愛していることが、私を罪から覆いかぶさってくれることは無い。また逆に、あなたが私を愛していることが、私を美しいままで居させることも無いだろう。
 思いがどうだろう。言葉がどうだろう。私の胸を彩るあなたの言葉とわたしの言葉が、私の知恵や力を増してくれるわけではないことは知っていた。知っていたのだ。
 だが私は、飽きるくらいに疎ましい即物的な世界と人に、この足を取られている。まるで泥濘に沈み込むように。
 正確に言うなら、腕を掴まれているだけなのだが。
「……君……」
 その人は、私が花屋を出て数歩往来を歩いたところで、私の心臓の音を辿るように静かに、私の後ろにひっそりと居た。それでいて、私の腕を掴んで離しはしない。
 私のその人の瞳を見た。憎かったのではない。最初は確かに恐れだった。けれど今私に在るのは……言うなれば、愛だった。愛でしかない。
 その人は、険しかった優しげな目をフッと和らげて、あっと驚いたように私の腕を離した。それからすぐ、申し訳なさそうに眉尻を下げ、「……ごめん……」とか細く言う。
 それが、私には分からない。キョトンと彼を見ている目は、きっと誰よりも世界を知らない。彼は静かに項垂れると、悲しそうにアスファルトを見て口を開いた。
「……着いてきてくれる? 僕が払うから」
「えっ」
「このままだと店に悪い……君にも、あまり良くないだろう」
 店に悪いのは分かるが、私に悪いはよく分からない。あるいは私が悪いならもっと理解できる。
 彼は幸薄そうな微笑みを浮かべると、疲れた足取りで私の先を歩いた。彼はもう、私の腕を掴まないし、振り返りもしない。
 ――ここで、逃げない気持ちが無かったと言えば、嘘になる。逃げようと言う思考は確かに存在した。まだ名前さえ名乗っていないのだから、ここで走り去ってしまえば、永久に彼とは邂逅しない。

 だからだろうか?

 私は結果として逃げなかったし、母親の買い物について行った子供みたいに、彼の斜め後ろを歩いた。ようやく俯瞰できた彼の背中は随分大きく高く、身長はきっと百八十を超えている。空を貫く塔のようでありながら、どこか折れそうな儚さは神秘的で、目を逸らせない神性がある気がした。男にしては長い髪は柔らかそう肩に着地し、もしかしたら中性的な女性なのではと疑うほど艶やかなグレージュだ。細かく手入れしていなければ、こうはならないだろう。それが、彼の物静かな佇みとはどこか離れている気がして、引っ掛かりを覚えなくもない。確かに全体として優雅で洗練された風体なのだが、彼が外見を気にする人間だとは、なんとなく思えないのだ。不思議なことに、私はそう確信さえしていた。
 店を出たばかりだった私たちが、店に戻るのに数歩もあれば充分だ。そう言えば私は、同じ場所に居たはずの彼に全く気が付いてもいなかった。こんなに大きな人が居れば視界の端でも分かりそうなものだが、それだけ私は、自分のことしか見えていなかった。あるいは、あなただけ。
「あのー……すみません」
 彼が、自信無さげな声で店の奥のアルバイトに声を掛ける。カウンターの奥に見えている部屋には花のポッドが数多く並び、まだつぼみの花が影の中でみすぼらしく流水を浴びている。年若いが陰気な店員が、一瞬怪訝そうに私たちを見た。長い前髪の奥の瞳が、私の手の中の花束を見つける。やはり怪訝そうに、アルバイトはエプロンを少し正してカウンターまで歩いて来た。
「気づかずすみません。お買い求めですか?」
「はい……」
 横に並んでいる彼が、私に視線をやる。私は黙って花束をカウンターに置く。
 眩いばかりの赤いガーベラだ。今更だし自分事だが、どうして私は、こんなにも派手で目立つ花を選んだのだろう? 花屋に並んだ花ならば、名前が分からなくても価値があるのに。
 店員と彼の一連の作業が、盗んだ花に正当性を持たせる。花の本質は変わっていないのに、まるで清廉なものに生まれ変わったみたいに、そのガーベラは純粋に私の手の中に納まった。
「お似合いですよ」
 店員が、下手なお世辞を言う。
「……ありがとうございます」
 乾いた口が、重苦しい礼を口ずさんだ。鳥のさえずりより馬鹿げている。だが後悔は出来ない。
 この赤い花が、何かの徴みたいで。
「行こう」
 彼は一言だけ言うと、黙って店を出た。

 ぬるい空気が頬を撫でる。彼はテナントビルの並ぶ寂れた通りを抜けるまで一言も口を利かなかった。私もだ。
 彼が口を開いたのは、通りを抜けて信号を渡り終わった瞬間だった。
「ごめんね」
 私はその意味を図りかねる。彼の思考を理解するには、私はまだ時間が浅すぎる。
「……どうして」
「君に期待させてしまっているから」
「期待?」
 彼の憂いた横顔が、苦悶に歪む。
「僕には、君を助けるだけの力は無い」
「……そうですか」
「がっかりしたでしょ」
 彼が微笑んで私を見る。彼の表情には、慢性的な疲労が見て取れた。まるで何かを信じる続けることに、失望を禁じえない人みたいだ。私より、ずっと可哀想だとも思える。
「私が、誰かに助けてもらおうとばかりする人間に見えますか」
「……そういう意味では……だけど、こういうのは良くないと思うんだ」
 思ってるんだ、と彼は言い直す。多少の代わり映えもしない言い換えだから、私の目は遠くを彷徨うように前を進んだ。彼の微笑みが露と消えたのを、見ていたくも無かったのかもしれない。
「だけど君を、今すぐ見捨てる気も無いんだよ」
 ふと彼が呟く。何故だか泣きそうなので、私はもっと彼が可哀想になる。随分と不憫な人なんだろう。
「別に見捨ててもらって構いませんよ」
「そうじゃない……友達が、居るんだ。その人を頼ろうと思う」
 突然な話だ。繊細な彼は、私に了承を取るそぶりも見せず、遠くを見定めている。
「……あの、そこまでしてもらわなくても」
「違うよ」
 彼は遮るように言った。
「これは自己救済なんだ」
 その言葉で、私は自分の抱えている疑念の氷塊を覚える。彼が苦しい人間なのは、たった十数分の今で分かった。彼が救いたいのは私ではなく、私を通した彼自身なのだ。ある意味では、私は彼の道具に成り下がる。そのことを隠さないから、彼はおそらく、非常に誠実である。
 ならば、と思った。ならば――良い。
「なるほど……じゃあ、行きましょう」
「うん、行こう」
 私たちは相変わらず並び立って歩いた。彼は涙ぐんだ目を、青葉の清々しさみたいに前だけ向けていた。ややあって、彼はにんまりと口の端をあげた。
「僕の友達、僕とは正反対なんだ」
「正反対と言うと?」
 私の頭は力強くてゾウみたいな人間を思い浮かべていた。要するにずんぐりむっくりの重量級である。プロレスとかやっているかもしれない。
 彼はそんな私の妄想を見抜いたように、私を見て薄く微笑んでいた。
「観ればわかるよ……けど、一言忠告させて」
「……どうぞ」
 彼は、愛しい子供を思い浮かべるように、ほんのりと首を傾げて言う。
「もし僕たちが口げんかをしてしまったとしても、それは表面においてだけなんだ。だから、信じて待って欲しい……彼が何を言うかは、僕には予想がつくから」
 曖昧な忠告だ。だがそれは、きっと安心を促している。
 私は小さく頷く。見上げるような彼は、眠たそうにアスファルトの蜃気楼に目を細め、それからはずっと上を見上げて歩いた。花が夜空に咲いている。

(つづく)

いいなと思ったら応援しよう!