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代官山アドレス
「海風を感じる度に、あの日のことを思い出してしまうわ。」
ニューヨークから帰国した後のリーマンショック時に投げ売りを買った代官山アドレスを売却し、逗子に建てた二世帯住宅のバルコニーで、私はぼんやりと海を見つめていた。カタール航空のCAとして働いている娘のシンガポール人医師との結婚を機に、新しい生活を始めようと決めたあの日、実家が漁師で夫が元魚屋とは言え、まさか自分が50歳を過ぎてこんな風に海と深く関わるとは思ってもみなかった。
逗子での暮らしは、想像をはるかに超えるものだった。地元の若い女性漁師との出会いが、私の人生を大きく変えた。磯焼けに悩む海を再生するため、ワカメの養殖を始めたのだ。最初は、ただ海を眺めながら穏やかな日々を送りたいと思っていただけだったけれど、彼女の熱意に感化され、私もこのプロジェクトに参加することにした。
ワカメの養殖は想像以上に大変だった。海藻の選定、海水の管理、そして何より、自然相手の仕事なので、天候に左右されることも多かった。それでも、少しずつ成果が見え始め、収穫の喜びは格別だった。特に、サザエの稚貝を放流した海で、春には大量のサザエが獲れた時は、本当に感動した。
「このサザエ、ただ焼くだけじゃもったいないわね。」
そう呟いた私の言葉に、彼女は目を輝かせた。
「そうだね。せっかくの海の幸なんだから、もっとみんなに楽しんでもらえるような料理にしたいね。」
そこから、私はサザエを使った新しい料理の開発に没頭した。フランスで過ごしたCA時代の経験が活かされ、サザエのブルギニヨンやサザエバターなど、斬新なメニューが次々と誕生した。
逗子の漁協の協力のもと、私の作った料理は地元の人々だけでなく、観光客にも大人気となり、たちまち逗子名物となった。予想外の展開に、私はすっかり商売の虜になっていた。
「こんなにも楽しい仕事があったなんて、思ってもみなかったわ。」
海を見ながら、私は自嘲気味に笑った。
しかし、この成功に満足している場合ではなかった。私は、もっと多くの人々に私の料理を味わってもらいたいという強い願望を抱いていた。
「そうだ、東京に戻ろう。」
ある日、突然閃いた。逗子で得た経験と成功を活かして、今度は東京で勝負してみようと思ったのだ。
早速、都内のタワマン探しを開始した。以前住んでいた代官山アドレスとはまた違った、新しい生活を求めて、私は最新の設備が整ったパークコート赤坂ザタワー30階に引っ越すことにした。
パークコート赤坂ザタワーの一室には、逗子で培った経験を活かしたキッチンを設けた。大きな窓からは、東京の夜景が一望できる。この場所で、私は再び新しい挑戦を始めるつもりだ。
逗子での生活は、私にとって忘れられない貴重な経験となった。海との出会い、そして地元の人々との交流。それらすべてが、今の私を形作っている。
東京という新たな舞台で、私は再び夢を追いかける。逗子で生まれたサザエ料理を、世界中の食卓へ届けたい。そして、多くの人々に笑顔と感動を与え続けたい。
「逗子で学んだことを胸に、これからも精一杯生きていくわ。」
私は窓の外に広がる夜景を眺めながら、そう心に誓った。
東京での生活は、想像以上に忙しかった。新しいレストランを開くための準備は、思った以上に時間がかかり、資金も必要だった。しかし、逗子で得た成功を信じて、私は諦めずに邁進した。
そして、ついに念願のレストランを乃木坂にオープンした。逗子で生まれたサザエ料理を中心に、様々な海の幸を使った創作料理を提供する。娘もCAを辞め、レストランを手伝ってくれることになった。
オープン当初は、場所柄、客足は伸び悩んだ。しかし、SNSでの口コミや、グルメ系YouTuber、シンガポールの旅行ガイドサイトに取り上げられるなど、インバウンドを中心に少しずつ評判が広がり始めた。
ある日、店に一組の夫婦が訪れた。その夫婦は、以前逗子に住んでいたという。
「この味、どこかで食べたことがあると思ったら、逗子のあのレストランの味だ!」
夫婦は目を輝かせて言った。
逗子で培った味が、東京でも認められた瞬間だった。私は、自分の決断が正しかったことを確信した。
その後も、私のレストランは順調に成長を続け、多くの人々に愛される店となった。そして、私は再び新しい挑戦を始める。今度は、世界に向けて日本の食文化を発信したい。
代官山アドレスで始まった私の物語は、まだまだ続く。