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芝浦アイランドケープタワー
この話は全てフィクションで現実とは何ら関係ありません。
東京という巨大な都市の中で、僕の人生は幾度となく変化してきた。田園都市線青葉台の戸建で育ち、桐蔭学園から慶應大学を卒業した僕は、社会の荒波へと漕ぎ出し、巨大組織NECの中で一つの歯車として淡々と日々を過ごしていた。
そんなある日、今は無くなってしまった田町駅前のおでん屋で、たまたま大学の後輩と再会した。彼女は東芝広報部員として華々しいキャリアを積み上げていた。何回か偶然の出会いが重なって、そのうちに僕たちは恋に落ち、結婚。西太子堂の小さなマンションで二人だけの穏やかな生活を始めた。まもなくして妻が妊娠し、男の子が生まれた。
父母は青葉台の戸建に住んでいたが、2005年に自営業の父は亡くなり、母が一人で住むことになった。僕たちに子供が生まれたこともあり、青葉台で一緒に住まないかと妻に提案したが、彼女は絶対に嫌だと言う。妻はSMAPの大ファンで、その時芝浦アイランドのTVCMを見て、ここに住めるなら同居でもいいよ、どうせ昼いないし、と言った。しかしあまりに高額、子供の教育費や勤務先の経営状況を考えると住宅ローン8000万円は厳しいということで、青葉台の母親に相談した。母は青葉台の家を売っても良いと言い、大きい部屋なら同居して孫の面倒をみてくれるとのことで芝浦アイランドケープタワーの44階、100平方メートルのマンションを9000万円で購入し、4000万円の住宅ローンを組んだ。
息子は、公立の小中から慶應義塾高校に合格、無事慶應大学からアクセンチュアへとグローバルに羽ばたいていった。住宅ローンと私立高校、大学の学費は決して楽ではなかったが、妻も働き続けてくれたので、とりあえず無事に返済を続けられた。
息子が結婚する際、江田に家を建てたいので資金を一部出して欲しいと頼んできた。理由は、彼女がセンター南出身SFC卒業で、子供を彼女の両親が住む横浜にある慶應横浜初等部に入れたいと考えているからだという。その頃、僕は既にNECを退職し、渋谷のIT企業に転職していた。妻も早めのリストラを機会に外資系企業に転職し、二人とも渋谷や恵比寿に通勤する日々を送り、田町にオフィスは無かった。母はコロナ禍で体を患い、既に施設に入っている。
息子の頼みを聞き、僕たちは芝浦アイランドケープタワーの売却を決意した。ケープタワーは都会の煌めきを象徴する場所だったが、時代の流れとともにライフスタイルも変化していた。周囲に中国人の所有する部屋が増えてきて、エレベーターなどでも中国語を聞くことが多くなってきたのもその理由の一つだった。ケープタワーは2億円を遥かに超える高値で売却され、その売却益でローンは完済し、江田駅からも初等部からもほど近く、つかず離れずの場所に、1億円以上する戸建てを二軒購入した。江田では近辺に住む小中高の友人たちが暖かく迎え入れてくれた。お前、2倍以上になって帰ってきたな。
息子は、結婚後、すぐに転職、今は夫婦でインドに住んでおり、家は定期借家に出している。期間が最短の3年であり大した家賃にならないが、そのうちに子供も生まれ、帰国してここに戻ってくると信じている。
僕の人生はまるで一つの物語のように常に変化し続けている。ケープタワーでの生活は忘れられない華やかな章だった。そして、全てをケープタワーが与えてくれた。江田での新たな生活はまた別の物語の始まりを告げている。