宮崎夏次系、『あなたはブンちゃんの恋』、ソシュール、ラカン、そして救済
はじめに
多少のネタバレを含みますが宮崎夏次系の『あなたはブンちゃんの恋』について語りたいと思います。人文学の文献を交えながら進めていきます。苦手な方は飛ばしながらでも構いませんので、読んでいただけるとありがたいです。
※漫画のコマは全て宮崎夏次系情報 (@natsujikeinfo) / Xからの引用になる。
あらすじ
まずはじめにあらすじについて。
幼馴染のブンちゃんと三船さん、シモジの三人の話だ。しかし、シモジは既に亡くなっている。幼い頃にプールに溺れて死ぬのだが、シモジがプレゼントしたブンちゃんの熊のパスケースに取り憑いてしまう。
シモジはブンちゃんのことが好きだ。しかしブンちゃんは三船さんのことが好きで、三船さんはシモジのことが好きだ。いわゆる三角関係というやつだ。
物語自体はシモジが亡くなって時が経ち、ブンちゃんと三船さんが20代前半くらいになった頃から始まる(物語では年齢は明記されていない)。恋愛漫画のセオリー的な関係ではあるが、一人は死人であり、悪霊になっているところが特異な点である。それが物語を駆動する要素となる。
過剰な愛情
何をもってしてその愛を過剰と断定するのかは気持ちの問題かもしれない。
ブンちゃんは三船さんとの恋において異常とも言える行動を多くする。ほんとに数え切れないくらいにある。しかしそれは仕方のないことなのだ。なぜなら、ブンちゃんの行動全ての原因は三船さんにあるのだから。
これほど好きだという気持ちを的確に表した言葉はないだろう。ブンちゃんは三船さんという人を通してしか自分を見ることができないのだ。
ブンちゃんだけでなく他の登場人物も強烈な思いを抱えている。好きな相手を思うあまりに容赦なく傷つけようとすることも多い。どれも一方通行の思いばかりだからすれ違うしかないのだ。
みんながそれぞれ鏡の前で踊っているような気もする。一言で言えばみんなどこか変なのだ。調子はずれでとにかく突拍子もないことをしてしまう。
しかし、そこが愛おしくてたまらない。
呪いの言葉 ソシュールとラカン
登場人物は様々な呪いの言葉をお互いに投げかけ合う。それはもちろん読者も免れないことである。むしろ読者こそが全ての言葉を浴びる被害者となるだろう。心してかかるべきである。
人間は言葉により思考する。人間は言葉に規定される。
ソシュールによれば、物が先にあって名前がつけられたのではなく、先に名前があってからこそ事物が生起するというのだ。神様が指をさして、これは豚でこれは鉛筆である、と決めたわけではない。物事を認識するためには言葉がまず必要なのだ。名前があるからこそ初めて事物を理解することができる。
例えば虹の色は日本で七色であるが、他の国ではそうではなかったりする。虹の色は多くのグラデーションにより構成されており、どこで区切るかでそれがいくつの色でできているのかという認識が違ってくる。
呪いの言葉をかけられた人は、たとえそれまでの自分がそうでなかったとしても、言われたことにより、その言葉通りの人間になってしまうことがある。それは言葉を与えられたことにより、認識の枠組みが作られてしまうからだ。認識の枠組みは得てして他者から与えられるものである。
余談であるが、巷で話題のmbti性格診断は呪いの言葉以外の何物でもない。
欲望とは他者の欲望であると言ったのはラカンである。これは肝に銘じるべき金言だ。
もっとも呪いの言葉をかける相手とは、やはり親であろう。
ラカンが提唱した「鏡像段階」という言葉がある。人は幼いころは、まだ一つの自我として自分を認識しない。ただバラバラの感覚だけがある。しかし成長するにつれて、鏡に映った自分を一つの人格として理解し、自我を確立させる。ここで言う鏡とは他者のことである。そして幼児期における最大の他者は多くの人にとっては親である。親が子を一人の人間として接することにより、子は自らの統一的な感覚を手にすることができるのだ。自我とはもともとあるものではなくて、他者からの認識により生まれるということだ。
ブンちゃんをはじめとした多くの登場人物は、鏡像段階を上手く通過することができなかったと考えられる。事実彼らの親は子に対して暴力的であったり、理想的なものを押し付けたりする。流行の言葉で言えば「毒親」と言えるだろう。
親の言葉通りに生きようとすれば、窮屈な自我が生まれる。しかし、親に反抗したとしても、得てして不安定な自我になる。自我の統一的な感覚は、制限を受けながらも、程よく柔軟であることが理想的だ。ただそれは理想でしかなく、ほとんどの場合はどちらかに偏りができて、精神的な苦しみを生み出す。
やはり一度身についた自我は大人になってからでは簡単に変わることはない。
解放、留まること
自我の確立に失敗した人はどうすれば救われるのだろうか。バラバラな感覚をつなぎとめるために生まれた過剰な愛をどう扱えばいいのだろうか。
その一つの答えをブンちゃんは私たちに提示してくれている。
それは、もはや開き直って変わらないことを選択するということだ。
恋も呪いのうちの一つである。人は恋した人を通して自分を知っていく。言葉により思考を行うように、関わる人間は自分の大部分を規定する。それを否定することは苦しい。
ブンちゃんは何度も三船さんから離れようともがく。上のコマで背を向けている男の人と付き合おうとするのだけれど、結局上手くいかなくて鋭い言葉を投げられている。「現実に手を打つ」とはブンちゃんにとっては三船さんを諦めて他の人と一緒になるということだ。そんなことができないのは本人が一番よくわかっているはずだ。
それなら、三船さんが振り向いてくれるかといえば、結局そうはならない。
最後にブンちゃんは三船さんの前で踊りながら、泣いて笑って「三船さんが大好き」と言う。無論その恋は報われず、そこで物語は終わる。
この結末はバッドエンドだろうか。いや、違う。紆余曲折しながらも、最後には三船さんが好きであるという事実をしっかりと肯定できた点においては、救われない終わりではない。変わらずに馬鹿になって、鏡の前で踊り続けることは決して不幸なことではないのだ。たとえそれが地獄だとしても、あなたと生きる地獄なら幸せなのではないか。バラバラな感覚を繋ぎとめるための生存戦略なのだ。それが鏡像段階において失敗した者ができる救済なのではないだろうか。
さいごに
宮崎夏次系の作品は変であり続けることの讃歌に溢れている。他者とのアイデンティティとの違いに苦しみながらどうやって折り合いをつけていくのか、ときに残酷なやり方で解決されたりする。しかし優しい終わりなんて嘘だと私は思う。多数派的な感覚に陥ることが救済だなんて決して思いたくなんかない。それならば地獄の中で踊り狂う方が幾分ましだとか考えたりする。
彼女の他の作品についても書きたかったのだがこの記事では割愛させてもらう。いずれひとりでに書き始めると思うのだが、取り上げてほしい作品があれば遠慮なくコメントしてください。気軽に感想や質問をしていただけると嬉しいです!
宮崎夏次系の新連載が始まったので是非読んでみてください。
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