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ベジになった旦那さん。
「うちの旦那さんベジなんさ」
この言い方だと自分の中でもちょっと楽だ。
決してベジタリアン.ヴィーガンといったストイック系な男になったわけではない。そっちのベジではない。
遷延性意識障害(せんえんせいいしきしょうがい)=通称ベジ
植物人間という言葉の方がお馴染みである。
「なぁ俺と結婚して。」
酔いつぶれて寝ている同僚二人を目の前に、何を言ってるのか分からなすぎて
何回か聞き直してしまった。
「は?えっと…酔ってはります?」
「いや、本気やで」
当時旦那36歳 私21歳
私達のはじまりはこの夜からだ。
高校卒業して小さい頃からの夢だったパティシエになるために田舎を出て、京の都に降り立った。働きながら学校へ行けるというシステムのある専門学校へ入学し、ホテルで働きながら学校へ通った。
あの頃の私は袋から開けたての高野豆腐のように、吸い込める経験は何でも吸い込もうとしていた。
嫌な思いも、怖い思いもたくさんしたけど
色んな出会いにも恵まれて充実した日々を送っていたなぁと、20年以上経った今でもそう思える。
そんな中、とあるレストランの立ち上げでパティシエとして声を掛けて貰った。声を掛けて貰ったものの、もう一つの目標であった
フランスへ行くためのお金も貯り、ホテルを辞める日も決まって、準備が整ったところだった。
「オープニングからフランス出発前まで頑張って貰って、又帰って来てくれたらいいよ。」とレストランオーナーから言われた。
出発ギリギリまでフランスでの生活資金を稼ぎたいと思っていた私にとっては(帰って来てからの職探しにも困らないし)悪い話ではないか、とあっさりお受けした。
この選択が私の人生ターニングポイントというやつかもしれない。
いや…もうちょっと前
高校の時、大阪か京都か迷っていた時に
「京都にしない(しなさい)。」
「京都に行けば世界が見れる。」と
母から飛び出した名言で京都を選択した事も大きいポイントかもしれない。
一つ言える事はどちらの選択にも
後悔はない。
話を戻すと、この新規オープンのレストランのシェフだったのが私の旦那だ。
色んなところから集められた、はじめましての人達と、一から店の立ち上げ準備をする事はワクワクドキドキした 。
オープンから一ヶ月をほぼ休みなしでスタッフ皆で駆け抜け、いよいよ明日は初めての定休日という夜。
営業終了後キッチンスタッフでシェフ馴染みのバーへ飲み行く事になった。
とっくに深夜0時も過ぎ、正確には何時頃だったかすら覚えていない。
疲れと酔いでソファー席で熟睡している2人の同僚を目の前に
突如あの言葉が発せられた。
今思えば、
いやいや、そんなんないってー!
とツッコミたくなるような上司と部下、
年の差恋愛マンガのような設定。
あー、この人はコレが口説き文句か?
と15歳年上男性の言動に若干ひいてる反面、まぁこんな機会ないし、お付き合いしてみてもいいか(フランス行ってる間に消滅するかもしれんし)ぐらいの感覚でいたのは確かだ。
バーから出ると外はもう薄っら明るくなっていて、一人暮らしのマンションへ帰る道
「あんな事言って、結局休み明け(酔っぱらってて)覚えてへんとかちゃうん…」
なんて思いながらフラフラ自転車を漕いで帰ったことを覚えている。
それから一年も経たず本当に結婚する事になるとは、マンガにしても急展開だった。
年齢差もさておき、育った環境も真逆な夫婦だけど、今年でなんとか17年目を迎えた。
自分達の店を持ち、諦めていた子どもも授かって元気に育ってくれている。
この17年間を振り返ると、かなりのネタが集まっているが、(これは又別の話)
マンガじゃなくて、TVか?!のような出来事が夏の始まりに起こった。
「よっしゃ、最初のチキンあげよか(仕上げよか)」
これが最後に聞いた旦那の言葉
鰻の寝床の様な厨房でいつも横並びに仕事をしていた。私の左側の視界にはいつも旦那がいた。
この日もいつも通り、
オーブンの中の料理を確認し扉をしめた後、常備している水筒でクイっと水を飲む姿を私の左目がぼんやりとらえていた。
カラン、カラン
高い音をたてて水筒が床に落ちる音がして
左側を向くと、跪く様に旦那が倒れた。
脳出血(重症くも膜下出血)だった。
この日の事はこの先一生忘れないと思う。
厨房に飛び込んできてくれたお客様の心臓マッサージの姿
初めてかける119番 初めて乗る救急車
救急車.…びっくりするくらい揺れる、それだけスピードが出てるんだと感じた。幸運にも店から一番近い急性期病院に運ばれる。
よく知ってる病院、息子を出産した病院だ。
病院到着
救急隊員に言われるがまま私が最初に降りて、私が振り向くよりも早く
旦那は別の扉の向こうへ運ばれて行ったようだ。
全く頭の中が追い付いてなくて、呆然と待合のベンチに座る。
取り合えず持ってきた旦那の横掛けカバンをぎゅっと抱えて待っていた。
診察室に呼ばれた。
「救急車の中で心肺停止状態でした。現在も止まっています。
どういう状況か分かりますか?」
「............」
「もちろん出来るだけの事はしますが、覚悟してください」
と言うドクターの言葉
一度はTVドラマで聞いたことのあるようなセリフだ。
救急車の中で聞いた「ピー」という音はそういう事だったのか。
横一直線に伸びるカラフルなモニターの線、すべてが鮮明に思い出される。
神様
40歳を前になんの修行ですか
「妻」という文字がコレで合ってるのか途中で分からなくなるくらいいっぱい同意書に書いた。(ゲシュタルト崩壊というやつ)
「お子さんはいらっしゃいますか?ここにの呼ぶ事はできますか?」
再びドクターから告げられる。
「はい。小学校にいます。連絡してみます。」意外と冷静に返事をする自分がいた。
待ち合いを出てコカ・コーラの自動販売機と壁の隙間でスマホを取り出し息子が通う学校へ電話する。
「はい○○学校です。」
息子のクラスと名前を伝えると、喉の奥がグッと痛くなって次の言葉がスムーズに出て来なかった。
「お母さん大丈夫ですか?」という女性職員さんの言葉で一気に涙が溢れた。
小さな子どもが泣くように、泣きじゃくりがしばらく止まらなくて、「お母さんゆっくりでいいです。」と優しく待ってくれた。
「父親が倒れて心肺停止です、今すぐ店に帰るよう伝えて貰えますか?」
やっと言えた。
「担任にすぐ伝えます」と返事があり一旦電話を切った。間もなく担任の先生からコールバックがあった。
「今、給食の途中ですが、終わってからにしますか?今すぐ帰らせますか?
何か伝えますか?何も伝えない方がいいですか?」
ゆっくり選択する余裕もなく、
「給食が途中でも構いません。何も伝えず、すぐ店に帰るように言って下さい。」とお願いした。
思い起こせばあの日1・2時間目が水泳の授業だったから、腹ペコのお腹に待ちに待った給食タイムだったに違いない。
後から気付いた。
ごめん息子。
この日偶然にも旦那の友人が開店と同時に来店してくれていて、息子を病院まで送り届けてくれた。
息子が到着する前に、再び旦那の心臓が動き出した。
救急の待ち合いにいる私の所へ向かう途中、検査のために一旦処置室から運び出される管だらけの旦那と息子は鉢合せになって顔を見る事が出来きたと、送り届けてくれた友人が教えてくれた。
見たことのない父親の姿は衝撃を通り越して
理解不能の様子だった。
私の横に座ると取り乱すこともなく
「父ちゃんめっちゃ ゴーゴー(おそらく人口呼吸器の音)なってた。」と言った。
再びドクターから呼ばれ
息子も一緒に説明を受ける。
理科の授業の黒板を思い起こさせるような
文字と絵図、矢印を要り混ぜて、小学生でも分かるようゆっくり丁寧に説明してくれる。が、かなりしんどい内容であることは云うまでもない。
「え?死ぬん?」
どストレートに息子がドクターに聞く
「今から頭の血を抜く手術をして、
脳厚がね、下がらなかったらその後どうする事も出来ない。その場合は死んじゃう。」
「そっか、良かった」と息子が呟いた。
この 「良かった」 は
今すぐ死ぬんじゃない=父ちゃんは助かる
=元気になる
という彼の中の確信の呟きだった。
説明を聞いて一旦診察室を出ると、私に集まる目線を感じた
待合のベンチに知っている顔が明らかに増えていた
「なんか、めっちゃ増えてる。」と言いながら笑ってしまった。
嬉しいような、ほっとしたような、今聞いた内容をこの人たちにどの様に
伝えればいいか、よく分からない感情で泣きそうになった。
診察室に呼ばれて説明書・同意書にサインをしては出て、呼ばれたら入ってサインをしての繰返しが暫く続いた。
その間にも所持品の返却や、色んな質問書類の記入・確認と慌ただしく時間が過ぎていく。
「今から手術に向かいます、その前にお会いになりますか?」とドクターから言われ、処置室に案内された。
息子は「僕はいい」と言って会いに行く事を拒み私一人で会いに行ったら
息子が行きたくないと言った理由が直ぐに理解できた。
この姿に私より先に息子は会ってしまったのだ。辛い。
グリーンのタイル
なんともいえない空気が漂う冷たい処置室に
全裸に白いタオル一枚の旦那
息子が言っていたゴーゴーという音が響いていた。
今から剃られる事になるであろう自慢の
ふっさふさグレーヘアーをおでこから掻き上げるように数回撫でた。
その髪の毛の感触を手で感じながらも、目の前の旦那の姿を頭の中はまだ受け入れられずにいた。
ドラマだったら
「あなた!あなた!しっかりして!先生!この人を助けて下さい」と泣き崩れる場面なのかもしれないけど、
その時の私は車の窓からぼーっと遠くの山を眺めるかのように、
ただただ、ぼーっと旦那の顔を眺めるしか出来なかった。
息子は先に店に送り届けて貰い、私は手術が終わるのを待った。
実家に連絡を入れたり、
全てほりっぱなしで救急車に乗り込んで来たたため店の事も気になって、店で待機してくれていたスタッフ達にあれこれお願いの電話を入れると。
「かぁちゃんお腹空いた」
と息子が電話越しに訴えて来た。
そうだ、給食もちゃんと食べれていないんだった。
「申し訳ないけどオーブンに入れっぱなしだったチキンで一緒に夕飯食べてあげて」
とキッチンアルバイトの男子に伝える。
私たちが救急車に乗り込んだ後、心肺停止という事もあり警察が来て、
状況確認のため盛り付け途中のお皿もオーブンの中の料理も厨房内は暫く触れず、スタッフも軽い事情聴取をされたようだ。もちろん病院にいる私の所にもおまわりさんいらっしゃいました。
(水筒に毒も入れてないし、フライパンで殴ってもないですよ…)
19:00頃手術が終わり今日はお帰り下さいと言われ、店に戻ると実家の両親が到着しており両親とバトンタッチでスタッフには帰って貰っていた。
旦那を厨房から運び出すために移動した棚や、盛つけ途中だったお皿、調理器具。約7時間前騒然としていた厨房がいつもの営業終了後と全く変わらず、綺麗に片付けられていて、あちらこちらにスタッフからの伝言メモが貼られていた。
野菜類はここに入れました。
○○はアルミに包んであります。
ここの冷蔵庫に差し入れ入ってます!
シェフは絶対に大丈夫!
などなど
シュークリームや栄養補給ゼリーが冷蔵庫に入れてくれてあった。
又泣けてきた。
みんな本当にありがとう。
いつ病院から呼ばれてもいいように
暫く店に泊まる事になる。
旅先、フローリングの上
旦那のバイクの後ろ←(めちゃくちゃ怒られた)
どんな所でも寝れる自慢の私だがこの日はさすがに眠れなかった。
眠れなくても目を閉じて、目を開ければ
あ、夢やった、夢であってくれ、
と何回も目を
閉じて
開いて
を繰返していたらいつの間にか朝になった。
母がパンやヨーグルトなど、朝ごはんになるものをコンビニで買ってきてくれた。
マジか….
びっくりするぐらい食べれない。
旦那が倒れる前夜、某TV番組で
「相方が危篤の連絡が入ったら、さすがに食事も喉に通らない説」を
二人で晩酌しながら見ていた。
「気紛らわすためになんか食べるかも~」と私が言うと「俺も酒は飲んでまうかも~」なんて喋っていた事思いだした。
私の中で説は身をもって立証された。
喉通らない。味がしない。
そもそもお腹が全く空かないのだ。
腹が減らずとも時間は過ぎて行くので、
店のHPやSNSに取り合えず今週は臨時休業の案内を出し、既にご予約をいただいてるお客様には謝りの電話をかけ、事情を説明した。
「どうかお大事になさって下さい、回復をお祈りしてます。」という優しいお言葉を沢山かけていただく中でも、
舌打ちや溜め息をつかれ電話を切られる事もあった。
「私もこんな電話したくてしとるんとちゃうわー!!」と叫びたかった。
悔しくて又違う意味で泣けてきた。
夕方病院から電話がかかってきた。
携帯の着信音と救急車の音を聞くと、一気に心拍数が上がる体質になった事に気づく。
「ご主人なんですが、思ったより…脳厚の下がりが良いので、明日出血箇所の手術に移ろうと思いますが、今から説明聞きに来れますか?」
「いいんですか?!いいんですか?!良いってことですか?」
ドクターの電話の喋り出しのテンションと、思ったより..の溜め!フレーズが悪い知らせのように感じて3回も聞き直してしまった。
脳厚の下がりを診るのに2~3日と聞いていたので、翌日に下がるてやっぱり自己治癒力強いな、とちょっと笑えた。
まあまあの火傷や切り傷も基本、病院へ行かない。自分で手当てしてこれ又びっくりするほど早く治る、それも綺麗に。
美容サロンの知り合いに
「シェフの細胞研究してサプリ作りたい。」て言われるほどだ。
7月7日 七夕手術と名付けよう。
生憎の曇り空だ。
午後から少し長い手術になるが手術室へ行く前に一瞬会えると言って貰ったので、両親と3人で病院へ向かいICUの出入口で待つことに。
出てきた!
「おやぶーん!!」という掛声が正解なほどに
ベッドを少し斜めに上げられて、そこにいる旦那はいつもより厳つさが増していた。
人からの第一印象が
怖そう・厳つい・話し掛けづらい
という風貌の男が
おそらく人生初の丸坊主姿。写真撮っておくべきだった。
「どっかの親分やん。顔、艶々やな。」
と心の声がわりと外に出てしまいがちな母が言った。
管だらけの姿に変わりがないが確かに顔色がいい。それもそのはず、3日間もニコチンとアルコールを抜いた日が出会ってから今まであっただろうか、
究極のデトックス。
顔色の良い旦那の顔を見たら両親も私も少し安心した。
夜になって無事手術が終わったと連絡が入った。あとは意識が戻るのを待つだけ、近くその日が来るという変な自信があった。
暫くは厨房に立てない、もしかしたらもう包丁が握れないかもしれない。
けど、コロナ禍の時も店を休む選択をしなかった旦那が言った
「火は灯しとかんと」という言葉を思い出して、周りから色々心配されながらも、倒れてから一週間後、ランチのみ再開する事を決めた。
再開日の前日、色々仕込みと準備をしていると病院から電話が掛かってきた。
お!意識が戻ったか?!とワクワク電話をとる。
「手術が終わって3日経たちました、今後のお話をさせて頂けるかと思いますので、お越し頂けますか」との事。
「ちょっと病院行って来るわ」とスタッフに伝え病院へ車をはしらせる。
カンファレンスルームと書かれた部屋に通された。
細長い部屋に長いテーブル、パソコン
壁の大きなモニターには旦那の頭の中が映し出されていた。
脳外科の先生からのお話が始まった。
病院に運び込まれた段階から時系列に
手術前、手術後とCTや3D画像でゆっくり優しい口調で説明してくれる。
そしてオチが来た。
「残念ですが意識が戻る事は難しい」
沈黙が部屋を包む。
もしこの時、私の頭の中もCT撮って貰ったら脳ミソのシワシワが全部「?」マークになっていたはず。その先生の言葉になんと答えたかすら覚えていない。
運び込まれた時に担当してくださった救急のドクターが沈黙を破ってくれる。
「突然の事でもちろん心の整理も着かないだろうし、大変辛い事であるかと思う。でも脳外科の先生や色んな先生と検査して話し合った結果、今後意識が戻る可能性は限りなく低いです。まだ若いし残念だけど…こうなると次に延命措置についての話しになって行きます….」
残念、残念
旦那はざんねんな生き物になったのか?
お話が一通り終わり、退出される先生方に「ありがとうございました。」と
ぺこり頭を下げると看護師さんと二人っきりになった。
マスクの中が涙と鼻水で洪水状態、を通り越してとっくに決壊していた。
自分にも子供がいるという看護師さんは私が泣き止むまでずっとずっと背中を擦ってくれていた。
「ここで全部吐き出してもらってっていいですからね」って。
ドクターや看護師さんもにも家庭があって
家に帰れば、お父さんでお母さんである人達がこういう場面に数多く立ち会って、出来れば伝えたくない事も伝えなくてはいけない。
毎日、毎日、凄い現場なんだと思い知らせれる。
店に戻る車の中でもザーザー涙が流れてきて運転が大変だった(眼球ワイパーでもあったらいのに)
でも息子の前では絶対に泣かない事を決めていた。
店に戻ると
「かぁちゃんお腹すいたー」
とご丁寧にお出迎えが。
ヤバイヤバイ
「ごはん何にしよかな~」と言いながら
泣いていた事を察せられないように、厨房に駆け込んだ。
案の定、夜はなかなか眠れなかったが、
「とは言え、病院は最悪の場合の話をするもんやしな~」とあまり考え込まないように、
とは言え、
とは言え、
を布団の中でひたすら唱えてたらいつの間にか眠っていた。
ランチ再開の朝が来た。
朝準備をしてても、昨日の病院での話が頭の中ヘビロテであるが、営業時間がスタートしオーダーをこなしていると少しの間忘れる事が出来た。
お客さんやご近所さんに「ご主人どう?」と聞かれても
「まだ寝てはるんです~」と冗談混じりで返す事しか出来ず、この返しもいつまで使えるんだろうか…という思いだった。
今週、京都はいよいよ祇園祭クライマックス
7月に入るとあちこちで祭囃子が聞こえてきて、街は一気にお祭りモードだ。
特に今年は4年振りに制限が解け、歩行者天国・出店も復活の大盛り上がり!人々の表情も明るい。
「今年の巡行はめざせ100人(来客)」そんな事言っといて、
言ってた本人当日おらんのかーい!!
旦那が救急搬送されて一週間
やっとICU面会が出来るように、
会える嬉しさの中に怖さもあった。
ICUのインターフォンを押すときは毎回緊張してしまう。
すんなり旦那のベッドへ案内して貰えるのかと思っていたら、又あの長細い部屋に通されてしまった。勘弁してよ。
「先日意識が戻る事はないとお話させていただいて、これからの事についてのご相談ですが…」
あぁまたもや急展開だ。
延命措置の選択の話だった。
映画だったり、TVドラマだったりで見たことあるよ、知ってるよ。
只、自分が当事者になるなんて誰もが思いながら観てない。
「決して奥様が、ご家族が決めれることではないと思います。
今まで、こういう事についてご主人とお話した事ありますか?
本人だったらどうして欲しいか、どう言うか、これを一番に考えて来週辺りにお返事を聞かせていただけますか?誰か相談出来る人はいますか?一人で抱え込まないでくださいね。」と言われた。
そんな事を言われた後ICUの旦那のもとへ
この前私の背中を擦ってくれた看護師さんが奥で作業中だったが
私に気づいて優しい目で軽く会釈をしてくれた。
「こちらです」
広く囲われたクリーム色のカーテン、医療器械の音だけしかしない
けど、運び込まれた時の処置室とは違って不思議とゆったりした空気を感じた。
「私たちは外に出てますね」と
20分ほど二人っきりにしてくれる。
おぉ........…
手術前に見た時とは別人のようだった。
人間こんなに浮腫むのか?浮腫めるのか?
というほどにパンパンに膨れ上がった顔や手、
針でついたらトムとジェリーのトムのようにプシュッーと音を立てて飛んで行きそうだ。
「おまえ顔小さいから、並ぶと俺の顔のデカさがさらに際立つから嫌やねん!」と言う旦那よ、さらにさらにいつもの2倍以上になってます。
パツパツの手を握ってみたり、息子の声をスマホから聞かせたり、
眉毛を触ってみたり、色々してみた。
もしかしてカメラあったかもしれないけど、おでこにチュウもしてあげた。
逆やん、お姫様が王子様のキスで目覚めるんでしょうが。
「お願いやし、起きてよぉ。」心の中はこの言葉でいっぱいだった。
毎晩21時頃実家の母から電話が掛かってくる。
「意識戻った?」とか「病院から何か連絡あった?」とか
私は
「荷物持って行っても、看護師さんに「まだ薬で眠って貰ってます~。」って言われるよ。」と誤魔化していたけど、
例の件を伝えないといけない。
どうしよう・・・なんて言えばいい・・・
電話が掛かってくる前に妹に電話をする。
病院で「誰か相談出来る人はいますか?」と言われた時にホスピスで働く妹の顔が最初に浮かんだからだ。
子供のころは姉強し!だったけど
大人になってからは彼女の方がずっとしっかりしてる。尊敬できる女だ。
妹も泣いて動揺していたが、「うん、うん」と話を聞いてくれていた、
母からの電話が掛かってくる時間になったので一旦電話を切る事に。
掛かってきた!
電話を父に代わって貰う。
「今日やっとICUに入れたんやろ?どうやった?」と父は言う
「うん。けど.....…、もう意識、戻らへんのやって。」
「えーぇぇぇぇぇぇぇ?!」
今まで聞いたことのない父の声を聞く。
それが暫くリピートされた。
何か言おうとするも、息の混じった「へー」に近い「えー」しか出てこない様子だった。
電話の向こうで、その父を見ている母も良い知らせではない事は分かったであろう。
そして延命措置の話を切り出した。
「一人で抱え込まず、本人だったらどうして欲しいか、どう言うか、
ご家族で相談して下さい。って言われた」と伝えると
とにかく明日そっちへ行くと言われ電話は終わった。
次の日
営業開始前
ICU面会の報告が気になるスタッフが
「どうやった?どうやった?」と聞いてくれる。
うちのスタッフはスタッフと言うより仲間だ、ファミリーだ。
全部正直に話した。
「えっ..…と、シェフはもう意識が戻らないと言われました。前祭(祇園祭は前祭・後祭がある)明け延命措置についての返答をしなければならなくて、その事で私の両親兄弟が今日ランチ終わるタイミングで店に来てくれます。ほんとごめんなさい。」
我慢したけどやっぱり涙が溢れた。
こんな報告をしなくてはいけないのが申し訳なくて、ごめんなさいとしか言えなかった。
なんで謝るの!と𠮟られ、
営業前にも関わらず皆でオイオイ泣きながらも
まもなくランチが始るし、祇園祭もやって来る。
「とりあえず祇園祭乗り切ろ、いっぱいの人に食べて貰お。」
と言ってくれる。
うちの仲間は頼もしすぎるやろ。
ランチが終わる頃、両親と兄が実家からやってきた。
結婚して東海へ嫁いだ妹も新幹線で駆けつけてくれる。
私は三人兄弟の真ん中、兄弟三人皆それぞれ家庭を持ち、住む地域も、仕事もバラバラ、休みもバラバラ、盆も正月も家族全員で会えることがこの数年本当に少なくなった。
こんな話で集まる事になるなんて
皆何から話せばいいのか、と言う空気で凄いぎこちない。
昨日のうちに、私の家族も状況説明を聞きたいと言っている
という事を病院へ伝えると今日の夕方からで良ければと、快く主治医が時間を作ってくれた。
それまでの時間母と妹は近所へ買い物に行き、
兄はちょっとぶらぶらしてくると出て行き、
私と父の二人きりにしてくれた。
とりあえず最初は父と二人で話す方がいいであろうという阿吽の呼吸というか見事な連携プレイだ。
息子は友達が遊びに来ていてゲームに夢中なものの、話す内容も内容なので
奥の部屋へ移動して父とヒソヒソ話をするように話をした。
旦那の性格や、思考を考えれば本人がどうして欲しいか、どう言うか
という思いは全員一緒だった。旦那を知る人ならば全員そう言うであろう。
それくらい頑固で、意地っ張りで、自分を曲げないタイプの男である。
「もし俺になんかあっても、延命とか絶対するなよ、じいさんになってボケたら施設に即ほり込んでくれ、おまえらに迷惑かけ続けるとか絶対にやめてくれよ。」
何度か旦那から聞かされていた言葉。
父との話が終わる頃、出かけていたメンバーがちゃんと帰って来てた。
兄は息子たちにベビーカステラのおやつと
私にはサマージャンボ宝くじをくれた。笑えた。優しい兄だ。
(300円当たった)
軽く夕食を済ませ、説明を聞きに家族は病院へ
私は連日話を聞けるほど余裕がないので、店に残った。
暫くして、皆が店に戻って来る。
旦那の事について色々話をしたけど、来週の病院への返事はやはり皆同じ考えだった。
さあ、次は息子にどう伝えるか
家に帰って玄関入るとすぐ右手に旦那の部屋があり
ドアは開けているが煙草の匂いがまだしっかりしてくる。
「ただいまー」と二人で言うと
返事のない部屋に向かって
「父ちゃんまだねてんのかーい。」と息子が言う。
時には
「父ちゃんいつまで寝てんの!」
「あ、父ちゃん出張中やった」←(出張という言葉への憧れ)
などいろんなパターンがある。
日常の会話のなかでも
「父ちゃんが帰ってきたらこれ見せる~」とか
「父ちゃんが退院したらチクったろ(私の事)」とか
息子は100%帰って来るとしか思ってないのだ。
息子には夏休みが入ってからちゃんと話そう。
巡行の日がやってきた。暑い…危険な暑さだ、警報も出ている。
以前うちで働いてくれていたスタッフも助っ人に駆けつけてくれて準備は万端。スタッフ皆「めっちゃ回転させてシェフに自慢したろ」ぐらいの気持ちでブンブン素振りをしていたが、本場はまぁまぁの空振り
今年の猛暑は本当に営業にも堪える・・・
助っ人に来てくれた元スタッフが当時のロゴ入りポロシャツを着てくれながら手伝ってくれていて、なんだか嬉しかった。うちが一番経営がしんどかった時に働いてくれていたスタッフだ。
「あ、それ、シェフの時計ですよね」
気付いたか、さすがやな、嬉しいやんか。
「そう!ぶかぶかやけど止まって欲しくなくて着けてる。」と私は答えた。
先日病院から返却された所持品を整理していたら時計が止まっている事に気づいた。自動巻きの愛用時計、毎日必ず着けていて家に忘れた日には半日凹むぐらい旦那の体の一部になっていた時計だ。
「お前が成人したらこの時計やるでな」と息子のと約束の品でもある。
おぉぉぉ.…
倒れた2日後で止まっている事に動揺してしまい。急いで私が着けた。
今日の日時になるまでクルクルねじを回して調節して再び動きだす、
クルクル回して時間も戻せればいいのにと心底思った。
「それ僕が父ちゃんから貰うやつやで!」
案の定、息子が嚙みついて来たが、
「あんたにはまだ早すぎるから母ちゃんが預かっとく!」と言い返した。
倒れてから2回目の水曜日
もう2週間経った。
病院へ返事をしに行く日がやって来た。
蝉の鳴き声が聞こえる夏の朝なのに布団から出たくない。
私一人だと心細いと心配してくれたのであろう、父が同席してくれる事になった。近くに住んでる訳でもないのに(他府県)・・・本当に申し訳ない。
ランチ終了後、父の運転で病院へ向かう。
大通りの交差点を信号待ちして青信号になって走り出す。
右車線を赤いカマロがビューンと抜かして行った。おいおい
なんでこのタイミングでカマロ…それも赤…
旦那が独身の頃、私の知らないイケイケ時代に乗っていたお気に入りの車。思い出話の中でよく登場する。(今は日産)
運転席の父と助手席の私の超暗い顔を横目で見て
「ええで、その返事でええから~大丈夫」と旦那が笑って横を通り過ぎた気がした。
病院に到着
あぁエレベーター乗りたくないなぁ。インターフォン押したくないなぁ。
心拍数がまた一気に上がってる。
小さな面談室に通されパイプ椅子に座りながら、主治医を待つ。
来られた。
「えぇ...…では一週間経ちましてお返事をお聞かせいただけますか?」
「........…」少々の沈黙
「家族とも相談して、以前から聞いていた本人の意思も尊重して延命措置は望みません。もし措置を希望したら、「おまえ何してくれてんねん!」ってめっちゃ怒ると思います。」
隣の父は黙って私の返事を聞いてくれていた。
その父にも主治医が聞いた。
「お父様も(これで)よろしいですか?」
父「はい。」
「分かりました。とても辛い決断だったと思いますが、お聞かせいただき有難うございました。」深く深く主治医の先生が私達にお辞儀をした。
只、返事をしたからと言って
はい、では今から人工呼吸器とります。というわけではない。
人一人の命
第三者倫理委員会というものに掛けられる、そしてそこで延命措置に
ついて今後の事が決定される。その決定は2日後だそうだ。
「今日は会えますか?できれば父も一緒に」と先生にお願いする。
「本来なら奥様だけですが、状況が状況ですので今回はお父様ご一緒でも大丈夫です。準備して来ますね。だいぶ浮腫みもとれてスッキリしましたよ。」と言ってくれた。
暫くして看護師さんに案内される。
クリーム色のカーテンが開いた。
「○○さーん!ご家族が来てくれましたよー!」
主治医の先生が大きな声で言いながらパンパンと旦那の肩を叩く。
本当だ前回のパンパンに浮腫んだ顔がだいぶスッキリしている。
「耳は聞こえてますからね。たくさん声掛けてあげてくださいね」
と前に看護師さんから言われていた。
でも声をかけようとすると涙が出てきた、さっきあんな返事をしてから
なんて声掛ければいいのだろう。
父が旦那の胸の辺りに手を置いてずっと名前を呼んでいた。
途中から声が震えているのが分かった。ポロポロ ポロポロ泣いてた。
だって心臓はちゃんと動いているのに。
壮絶な幼少期を過ごし、親の愛情というものを知らない、
家族というものが分からない。と結婚前に旦那から聞かされていた。
それでも不思議と私は「別に大丈夫」とそこまで深く考えていなかったけど、結婚パーティ―の時に友人が代読してくれた父からの手紙
「娘を嫁にやったというよりは、頼もしい息子を迎え入れた気がしています。」というフレーズに旦那が泣いていた事をよく覚えている。
羨ましくて、憧れて、ずっと欲しかった家族というものが
今はちゃんとあるよと旦那に言ってあげたい。
店に戻った。
留守番してくれていた母とスタッフが「お帰り、ご苦労様」と言ってくれた。
「あんたも食べない(食べなよ)」
朝から買ってきてくれた地元で人気のどら焼きが箱にいっぱい、
分厚いふっくら生地にたっぷりあんこ、ここのどら焼きは最高に美味しい。
旦那も好きだった。
この店のキャラクターの焼き印がちょっと心を癒してくれる。
バイクで帰るスタッフを外で見送ろうとすると、北から南から知ってる顔がやって来る。
ん????何か約束してたっけ?
「なんでみんな今、来るんさ。」と言って泣きそうになる。
そんな私を見て皆動揺している様子だった。
「今病院から帰ってきたところです。どうぞ店入って下さい」
シャッターを上げる。
いつも身内の様に接してくれる店で出会った友人達。旦那の赤カマロ時代を知るお旦那のお仲間達。
今日の事は何も話してない、私もいなかったかもしれないのに、前もって招集が掛かっていたかのように店に来てくれた。
「虫の知らせってやつやな。」と誰かが呟いた。
旦那が倒れてから経過が良ければ随時連絡や報告をしたかったけど、
この状況をなんて伝えればいいか分からず暫く連絡ができずに、皆さんに心配掛けたままだった。ごめんなさい。
倒れた日からさっきの病院への返事まで時系列に全部話をした。
「いい話が聞けると思って来たのに」と最初は皆肩を落としていたけど
「そうそう!病院行く時に赤いカマロが横追い越してったんですよ!あの人乗ってたの赤ですよね?」という話から
旦那の昔話なんかで盛り上がって、結局最後は笑ってた。
現実は現実として受け止めて、その日が来たら大騒ぎで見送ろう、でも望みは捨てない。いつだってミラクルを起こしてきた人だから。
同じ気持ちでいてくれる人達が傍にいて一気に心強くなった。
「家族には恵まれなかったけど、有難い事に出会いには恵まれている」と
旦那がよく言っていた言葉が溢れる時間だった。
息子1学期の修了式の日、明日から夏休み。
第三者倫理委員会の答えが出る日。
病院へタオルやアメニティーの補充など面会は出来ないけど病院へ行く用事は色々ある。全てレンタルにすれば楽だったのかもしれないけど、もちろんお金も掛かるし、できる限り自分で揃えて、敢えて病院へ行く用事が増えるようにした。
意識が戻らないって言われてもやっぱり「どうですか?」って毎日でも聞きたいから。
今日も荷物を持って行ったタイミングで面談室に呼んで貰えて、
委員会の返事も電話ではなく直接主治医から聞くことができた。
「委員会の返答としては、人工呼吸器の管を抜いてもいいという許可が出ました。只、もし呼吸器を取って危なくなったらまた呼吸器を入れなさい。という答えでした。分かりますか?」
私は「まだ会えるって事ですよね?」と質問を返した。
主治医「そうですね。まだ会えます。」
延命措置を希望しません
と返事をしたものの、あの日から旦那にあと何回会えるんだろう…と
寝る前はそればかり考えていた。
息子も倒れた日から会ってない、
だから、なんと言うか正直ちょっとほっとした。
まだ会える
まだ会える
「呼吸器を抜くタイミングは又ご連絡します。」
と言って先生は退室された。
ふぅ.…大きな溜息なようなものが自分の身体から出て行った。
看護師さん達はいつも息子や私の事を気に掛けてくれる。
「息子さんにもうお話されましたか?お父さんに会いたがってませんか?」
とか、「奥様ちゃんと眠れてますか?食べれてますか?どうかお身体お気を付け下さいね」と心配してくれる。そう言われて帰りのエレベーターまで見送って貰う度に、ジュワっと背中に優しさが沁みる感じがした。
「明日から夏休みなので、明日息子にはちゃんと伝えようと思っています。」と伝えた。
そう、明日、明日ちゃんと話そう。
夏休みがスタートした。
京都市内は水泳教室以外のレジャープールもなく、
近年のコロナや熱中症の危険性などで学校のプール開放もない。
今年の夏休みは最低2回プール(スライダーがある所!)に行くという約束となった。
学校から貰って来たプリントの夏休みの目標には
【宿題を頑張る・早寝早起き・お手伝いをする】
今年もお決まりの文句が書かれていたが、毎年ご丁寧に夏休みが終わる頃には私を鬼ババにしてくれる。
「今年はちゃんとするよ~」それも毎年聞いてます。
いつまで続くか分からないが、朝の仕込みの手伝いをいくつかお願いする予定である。初日はノリノリで厨房に入って来る。
私の隣で仕込みの計量をお願いした。
徐に息子が喋りだした。
「父ちゃん今どんな夢見てるんやろ。」
まだ眠っているという事は息子は理解している。
父親の事をどう切り出そうか、ウジウジしていた私に息子の方からきっかけを作ってくれた。
さぁ話すか…
私「あのさぁ、父ちゃんなあんまり良くないねん。最近じぃじとばぁばがよく来たり、おじちゃんやおばちゃん(私の兄弟)も来たし、父ちゃんの友達とかも店によく来るやろ?皆、父ちゃんが良くないから心配して来てくれてるんさ。」
息子「ふ~ん。そうなんや。」
私「だから、もしかしたら父ちゃんもうすぐ旅立っちゃうかもしれん、バイバイせなあかんかもしれん。」
息子「何それ、上へ上がるって事やろ?そんなん言わんと上へ上がるって言ったらいいやん。」
上へ上がる??えらい難しい言い方をするやんか、
どうやら空へ(天国へ)行っちゃうという意味の様だ。
小さい子に話すような言い方だったからか?まわりくどく言った事にか?少々ムッとした口調で言い返されてしまった。
私「そう。だからこれから母ちゃんと二人で生きてかないかんくなるかもしれんけど、色んなの人が助けてくれるから、今も毎日助けて貰ってるけど、絶対にありがとうって事を忘れたらいかんで、感謝の気持ちは絶対に持ちなさいよ!」と言い聞かせた。
息子「うん。分かった。」
と言って話は終わった。
そんな話を朝したものの、その日の夜には
「父ちゃんが帰って来るまでちょっと借りよ~」と旦那の部屋にコソコソと入って行ってガンプラを持ち出していた。
「分かった」けど、やっぱり簡単には受け入れられはしないよな。
夏休み最初の定休日
早速1回目のプールへ行くために京都を北上する。
去年は亀岡まで行ったけど、今年はもっと北へ
初めての道の運転はちょっと緊張するけど、どんどん緑が多くなって行く景色はいいもんだ。丹波にある自然公園内のプールに到着。
平日という事もあり比較的空いていて息子も上機嫌。
プールの傍に小さいテントを張って、休憩時間にはそこに入って過ごすが
まぁ暑い暑い。サンダルの模様に足の甲がしっかり焼け、テントの中のスマホもほっぺに触れると火傷しそうな熱さになっている。
そんなスマホが鳴った
病院からだ…
「○○病院ICUの○○です。先日お伝えした呼吸器を抜く事を本日トライします。何度もお伝えしておりますが、もし危ない状況になれば又管を入れますので、ご理解ください。」
熱々のスマホが耳に触れるか触れないかの所で持ちながら
「はい。分かりました、宜しくお願いします。」と電話を切った。
息子とビーチボールで遊びながらも
見事に上の空な私の顔を見て
「かあちゃんもっと楽しもやー!!」と叱られてしまった。
経過が病院から連絡あるのか?病院呼ばれたりするのか?とずっと考えていたけど結局この後電話が鳴る事もなく、しっかり遊んで帰宅した。
翌日
元々面会を予約していた日でもあるが、昨日の経過が気になりすぎて朝から相変わらず心ここにあらずである。
ランチ営業が終わって病院へ向かう、もちろん面談室で主治医の先生からの話でスタートだ。
「えぇ、昨日お電話した後、呼吸器を抜くトライをしました。
私達で言うと抜管成功と言いまして、これも奇跡的なことなんですがご主人自発呼吸してます。今もご自身で呼吸されてます。」
「!?」言葉が出てこなかった。
「だからと言って、意識が戻るかというと、そうい訳ではありません。今後もまだ予断を許さない状態である事はたしかで、次もし、舌根沈下(舌が落ち込んでで呼吸が出来なくなる)、誤嚥性肺炎や色んな感染症のリスクなどが出てきます。そうなった時どうするか、気管切開で呼吸器をつけるか、延命措置を希望されるか、今じゃなくていいです、又お返事いただけますか?」
延命措置の選択がまたリピートされた。
自分で呼吸してると聞かされ、秒で延命の話をされる。
あぁ.…しんど。
2日後に返事をする事になった。
さて面会タイムだ。
ICUの空気感は本当に独特で、凄く静かで明るくてなんとなく新生児室の中のぽわぁ~とした空気感に似ている。12年前上の階で息子を出産したから窓から見える景色がそう思わせるのかもしれない。
クリーム色のカーテンを開けて入る。
まだ点滴などは繋がれているものの、呼吸器や頭の管が無くなって
本当にただ眠っているような旦那がいた。
「すぴー すぴー」
旦那の寝息が聞こえる。
休みの日、夕方からチビチビお酒を飲み出し、ご飯食べてお腹が膨れて
リビングで1回寝てしまう時と同じ寝息だ。
気持ちよさそうに寝てんなぁ…
そうとしか見えなかった。
同時に、その姿を見て最初の延命措置の返事の時より
気持ちが乱れている事に気付いた。
ヤバい、1回目の延命措置の返事の時より頭の中と気持ちが
まとまらない。ちょっと今おかしくなりそうだ…
誰かに、誰かに相談しないと…と思い旦那が30年以上付き合いの
あるドクターに連絡した。研修医の頃から知っている大事なお客さん。
仕事終わりにすぐ店に来てくれた。
医者として、友人として、夫として、息子を持つ父として、
たくさんの目線から、私のぐちゃぐちゃの心がスッと軽くなるようなアドバイスをたくさん貰った。
「望は持ちつつ、でも常に心のどこかでちゃんと覚悟さえ持っていればその返事は間違いじゃないよ。」
私にとって御守りみたいな言葉になった。
2日後の返事をする日、1回目と変わらない返事をした。
「この意思は、転院先の病院にも伝えます。何度も辛い決断をありがとうございました。」と主治医の先生が又深く私にお辞儀をした。
※転院
急性期病院は長く居られない。
急性期病院からの受け入れをしてくれる病院探しにソーシャルワーカーさんとの打ち合わせがはじまる。
「出来る限りご希望に沿った病院を探したいと思います。」と優しそうな女性が担当してくれた。保育士さんのような安心感というか、ちょっと高校の時の担任の先生に似ている。
希望としては出来るだけ面会が厳しくない所、家族以外も面会出来るところにして欲しい。と伝えた。
最初の提案として1日あたり7~8千円の個室代が別途発生するが面会が比較的自由な病院の空きの連絡があった、
うぅ.…さすがに自営の私達には厳しい。
次に私を含め3人まで家族以外も面会OKな病院を提案された。
小学生も可!との事で面会回数は週一回だけど場所も旦那が思い出のある所の近くだったので、これもご縁だと思ってそこに決めた。
倒れてもうすぐ1ヵ月呼吸器が取れてからは、ICUから一般病棟に移る事になる。ICUの待合室ももう来る事がないと思うと、倒れた当日の事や、手術が終わるまで待っていた時の事など色々思い出される。
私以外にも荷物の受け渡しをされている方、タブレット面会されている風景もたくさん見た。
iPad越しに面会している嬉しそうな会話や、
「今日はご自分でスプーン持ってお食事されましたよ~」
「やっぱりまだ頭が痛いっておっしゃってます。」とか
その人たちと看護師さんとのやり取りが耳に入って来ると
ギュっと唇と手に力が入った。
私の中で史上最高に「羨ましい」という気持ちが溢れた。
一般病棟と言っても比較的出入りが厳しそうな場所ではあった。
病棟近くの待合室にある呼び出しボタンを押すと看護師さんが来てくれて
荷物などをそこで受け渡しして、様子を聞くといったシステムだ。
一般病棟に移った初日着替えなどを持って行くと
明るいベテラン看護師さんが出迎えてくれた。今日は荷物の受け渡しだけだったが荷物を受け取って看護師さんが立ち去ると、廊下の奥の方から
「○○さん、今奥さんがたくさんタオルとか着替え持って来てくれはったよー。よかったですねー。ここ置いときましょね。」という声が聞こえて来た。なんだか嬉しかった。
一般病棟から転院までの一週間はあっという間に過ぎていき
転院の日が来た。
朝から病院へ向かう。退院じゃないお迎えというのも初めての経験である。
たくさんの荷物と封筒にパンパンの分厚い入院明細を看護師さんから手渡され旦那を待つ。酸素ボンベを持つICUの主治医と一緒に入院して初めてパジャマを着せて貰った旦那がストレッチャーに乗ってやって来た。
見た目は救急車の様な搬送車に乗り込み出発する。
「おはよう。今から○○の近くの病院へ行くよー」と
旦那に伝えた。
いつも自分が運転する見慣れた京都タワーが見える道
険しい顔をしながら歩くサラリーマン。携帯で嬉しそうに電話しながら歩く学生、おそらく子供を園へ送り届けて勤務先まで爆走するママチャリのパパやママ。
目隠し加工がされた搬送車の窓の上の隙間から慌ただしくも、いつも通りの
日常の風景が見れた。
転院先へ到着すると入り待ちをしてくれてる馴染みの人
搬送車から病院へ入る一瞬なのに
「がんばりやー!」と声を掛けに来てくれたのだ。
ちょうど定休日でスタッフも来てくれた、ほんの一瞬だったけど
本当に有難かった。
転院手続きは書類を書いて比較的あっさり終了した。少し熱があるというのが心配であるが病室へは行けず。これから2ヵ月こちらでお世話になる。
(※遷延性意識障害以外の病気や特に必要な治療がないため2ヵ月後は介護医療施設へ転院しなければならない。)
これからは週一回の面会。出来るだけいろんな人と会いに来ようと思う。
帰り道一つ寄りたい場所があった。
備忘録note1 終り
#あの選択をしたから