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生きることと死ぬこと

生きることとと死ぬことについてよく考える。

生きること


なんで生きるのだろうのかの理由は、大きく2つに分けられると思う。消極的な動機と積極的な動機である。


積極的な生きる動機

大好きな趣味がある、推しが尊い、仕事が楽しい、未知の経験をすることに喜びを感じているなど自分が心から楽しんでおり、そのために日々頑張っている場合がこれに当たるだろう。すべてに当てはまるが、好きなことは未来にすることになるため、つまり、明日であれ1年後であれ予定になっているため、その未来のために生きているといえる。

その他に、守るものがある場合もこれに当てはまるだろう。パートナー、子ども、孫など自分よりも大切な人がいれば、それだけで生きる糧になる。

消極的な生きる動機

こちらは、生きているから生きている。もう少し正確に言うと、死んでいないから生きている。普段生きることについて考える機会もないから、多くの人はいざ聞かれると上記の積極的な動機を挙げると思うが、根底にはこの「死んでいないから」があるのではないだろうか。ここについては、自分で考えがまとまっていない。

死ぬこと

様々な要因があって、病気や事故などは自分の制御範囲外のことだから、どうしようもない。ここでは、自殺について考えたい。

自ら積極的に死を選ぶくらいだから、想像を絶するほどの状況に追い込まれている。生きるなら死んだ方がましだということで、自分を殺める。極めて論理的だと思う。人が一人で生きているのであれば。

「死なない」場合

ある人が、例えばすべての人との縁がなくなり、無人島で過ごしているとする。誰も彼の存在を知らないという状況だ。そこで彼が死のうと死なまいと誰も知らない。通りがかった肉食動物に認知されて食べられるくらいだろう。つまり、彼が死んだことを知らないので、彼は死んでいない。アマゾンの木が倒れても我々は知らないので本当に倒れたとは言えないという見方もあるように、他の人に認知されないと死にはなれない。

社会的行為としての死

死は、極めて社会的な行為なのだ。樹海で死のうと山で滑落しようと、死んだ姿を誰も見てくれないような状況でも、あの人が行方不明だ、おそらく亡くなってしまったのだろうと考えられれば、死んだことになる。何が言いたいかというと、その人の死はその人だけのものではなく、社会のものであるということだ。それには、個人は社会で生きているということに関わる。

ある家庭で生まれ、幼稚園・保育所、小中高、と進む中で、家族、親戚、友人、教師など様々な人と関わり、多くのコミュニティに属する。それを好むと好まないとに拘わらずである。もし生まれなかったら何のコミュニティにも属さなかったが、生まれてしまった以上、その個人込みで社会が回っている。社会の一部である個人が、自ら命を絶つと、他の人は困るのである。

その内実は、悲しむ、生きる希望を失うなどの感情的なものから、仕事や家事など実務的なものまで様々だろうが、とにかく社会に悪い影響しか与えない。いい影響が一つもない。個人が社会に含まれているとはいえ、その個人の行動も社会に影響を与えて、個人と社会の相互作用で成り立っている以上、自殺は社会の想定外の出来事なのである。

とはいっても

個人が社会的動物であるという観点からすれば、自殺は許容しがたい行為である。ただ、その人の命は同時にその人のものでもあるため、限界を超えれば選択肢の一つにしてもいいのではないか。そういうふうに今は思っている。




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