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酸っぱい葡萄と甘い檸檬

認知的不協和を解消しようとする人間の心理を表す。

認知的不協和は、自分の感情と事実がかみ合わないときに、どちらかを否定して、自分の中での一貫性を保とうとすることである。

酸っぱい葡萄は、イソップ童話からきている。

木になったブドウを手に入れようとした狐だが、高すぎてとることができない。何とかするのではなく、「どうせ、あのブドウは酸っぱいのだ。」と考えて、諦めた。

自分が欲しいものが手に入らないとき、その物の価値を貶めて、手に入れないことを正当化しようとする。

資格のテストを受けて不合格だったときに、この資格を取っても意味がないからと言い訳をすることが好例である。

甘い檸檬は、その反対で、自分のものの価値を高める心理である。

損失回避の原理に似ている。私が手に入れたものだから、(この機能は不便だし、見た目も気に入らないが、それでもやっぱり)価値があるに違いない。と考えるのである。

自分が苦労して手に入れたものほど、その物の価値がないと苦しくなる。その認知的不協和を解消するために、素晴らしいものであるに違いないと自分に言い聞かせるのである。

これは、所有している期間が長いほど、危険性を帯びてくる。

1年や2年も所有していて、そこで突然手放せば、それまでの週していた過去を否定することにつながる(と少なくとも考える)。

ゴミ屋敷につながるのは、この心理が作用している。

モノだけでなく、人の場合も問題になる。

付き合っている相手の人間性に問題があり、束縛や暴力を行使してきたときに、そうはいっても私の好きな人だ、きっと愛情の裏返しに決まっていると考える。

酸っぱい葡萄の場合は、所有していないが、甘い檸檬は所有してるから、手放せなくなる危険性があり、こちらの方が問題だと思う。

自分の外部のものにはきつく評価し、内部のものには甘く接する。

これは、所有に拘わらず、外部誘因バイアスにもつながる。

人は、一般的に、他の人には厳しく、自分には甘い。

ときには、自分を言い聞かせるのも精神安定のためには大事だが、事実を冷静に分析することも必要である。


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