見出し画像

「本当」の誕生2-3

ホンマのマ

 元禄期に上方で盛んになった浄瑠璃や歌舞伎の世界では、マコト化した「本」がもとになった「本」何々という新語が相次いで生み出された。「本に」や「本の」のあとに続く漢語的な言葉の誕生であり、そのひとつが「ほん」だった。舞台芸術ならではの「間」、すなわち間合いとかリズムが当初はイメージされていた。そこから世に出て、真実味を強調する際に使う現在の「ほんま(本真)」に至ったとされている。関東の「ホント」に対する関西の「ホンマ」は、元禄期の上方の舞台芸術に由来するという見方であり、すでに明治時代に指摘されている。
 明治時代の国文学者で、俳人でもあったさっせいせつは近松の『しんじゅうてんのあみじま』(享保5年、1720初演)に注釈をほどこした『天の網嶋 近松評釈』(近代文学評釈・第2編。明治34年、1901刊)を書いた。その末尾で、「本間の狂言」の由来について考証している。なお江戸時代の「狂言」とは、おもに歌舞伎のことをいう。『天の網嶋 近松評釈』で直接取り上げられているのは、江戸中期の国学者で俳人だった横井ゆうの俳文集『うずらごろも』(前編・上。天明7年、1787刊)にある「本間の狂言」だった。
 佐々は「本間」について、「ほんとうの間拍子にあふ狂言といふことか」と推察している。続けて「なほ、今の口語のほんま(本真)といふ語も、これより出しなるべし」と結んでいる。本当のびょう(反復する強弱の拍子やリズム)に合わせる芝居の「本間」がもとになって、口語の「ほんま」が誕生したと推測している。現に「本間」の初期の用例は、元禄期の歌舞伎関連の文献に広く見出せる。
 元禄期に書かれた一連の評判記には、遊女評判記のほかに役者評判記があった。役者評判記では、一線級の役者が披露する「本間」の芸が紹介されている。とりわけ「本間」のあり方が大切だったのが、滑稽な役柄を受け持っていたどう(道化)かたの役者だった。彼らは歌舞伎の役柄のうち、もっとも古い部類に入る。一連の流れにオチをつけて観客をドッと笑わせ、それを区切りにして場面の転換をうながすなど、早期ほど重要な役割を果たしていた。彼らの「本間」が評価されたのは、観衆から笑いを取る芸こそ、呼吸やタイミングの「間」が命だったからなのだろう。間合いやテンポが少しでもズレたら、笑えるものも笑えなくなってしまい、その点は現在のお笑いでも変わらない。
 道化以外の役者たちにとっても、「間」は大切だった。「本間」の芸が高く評価されていた荒木は大坂を代表する立役で、荒事の名手として名を馳せた。役者の番付を示した『役者おおかがみ』(元禄8年、1695版)では、立役ランキングの筆頭に置かれている。批評の言葉には、「ほんまの実事」が素晴らしいと書かれている。座頭の演技は「しょうの座頭」を見ているようだと賞賛され、ここでの「生」は生身の人間のことをいう。この「生」の字もまた、舞台上のリアリティを伝える形容の一端になっていた。
 江戸の女形だった中村七三郎はすぐれた「本間」の芸で知られ、市川団十郎とともに元禄期の江戸歌舞伎を盛り立てた。団十郎の荒事の印象が強い江戸歌舞伎の中にあって、七三郎は上方の坂田藤十郎を思わせる和事を得意とした。動と静の異なる個性が、うまく引き立て合っていたのである。『役者大鑑』によると「本間の狂言」が上手で、その技量をごと(情事の芝居)に用いると朝鮮人参よりも効き目が強いとある。そのため江戸のもとが七三郎を手放さず、今まで京都の舞台を踏めていないのを気の毒がっている。しばらく待たされたが、のちには上方でも成功を収めている。
 京都の浮世草子作家だったはちもんしょうの『役者いろけい』(正徳4年、1714刊)では、江戸の立役の生嶋新五郎が賞賛されている。その一節によると、芸の根幹にある濡れ事や、やつし事や所作事(舞踊・舞踊劇)を「かぶきの本間」と称する。なぜなら役者の顔を紅や墨で塗らず、「うぶのままの芸」だからだという。ウブと読ませた「生」をノーメイクの意で用い、「生」であることを「本間」の根拠にしている。そうした「間」の使い方は、もはや本来の意味だったリズムや間合いから離れている。
 歌舞伎用語から上方の日常語に転出した「本間」は、「間」本来の意味を一段と薄めていった。西鶴以後の浮世草子を牽引した江島せきの『傾城きんたん』(正徳元年、1711刊)には「はくじん」と呼ばれる私娼が描かれた箇所があり、「本間の奉公勤むる心はなくて」といった表現が見られる(巻3)。並木千柳(初代)らによる合作の『なつまつりなにかがみ』(延享2年、1745初演)には、「お前が本間に伝八様じやな」とか「そりや本間の事かいのう」と出てくる(「道具屋内の場」)。もはや現代語と、まったく変わらない。こうして世に出た「本間」は、日常語と化していった。その過程で「間」は一段と埋もれ、表記も「ほんま」「本ま」といった仮名書きが増えている。
 式亭三馬の『浮世風呂』にも、京言葉の「ほんま」が出てくる(2編)。女湯で、江戸の女と上方出身で江戸に移り住んだ女性が、江戸と京都のどちらがすぐれているか言い合いになる場面がある。上方の女性が京都の誇りを熱弁する台詞の中に「ほんま」が出てくる。お前さんの話は「ほんまに尤(もつとも)らしいが」と切り出し、以下に反論が続いている。
 明治時代になると、この「ほんま」に漢字をあてようとする機運が育ち、最終的には「本真」に行き着いた。明治時代の国語辞典は、おおむね「本真」と表記している。江戸時代にマコトと化した「本」と、元祖マコトの「真」とのコラボだった。
 こうして「間」は、仮名書きの「ま」の段階を挟んで同音の「真」に置き替えられたが、明治時代に書かれた小説や脚本などにも「本間」は引き続き出てくる。さすがに現在では、「ホンマ」の漢字表記が「本間」だと思っている人は少数派になった。それでも「本真」が正解と思っていない人や、「本真」と書かれることを知らないも、結構いるのではないだろうか。いわば音感優先の強調表現になり、もはや「本真」でも「本間」でもなく、仮名で書かれるのが一番シックリくる。他方、元禄以降の「マ」をめぐるバラつきを尻目に、「ホン」は一貫して「本」のことと理解されている。マコトの「本」はそのまま定着し、日本語に根付いていった。

いいなと思ったら応援しよう!