
「シン」の系譜2-2
鹿鳴館の真美人
明治時代に「新」が圧倒的な存在感を見せるようになると、同音のシンとの掛け合わせも発達した。たとえば「真」の字と組み合わせて、「新時代」とは「真時代」でもある、といった具合に使われた。ニューであるとともに、リアルでもあるといった意味合いが上乗せされている。それにともなって「真」もまた「新」と同じく、接頭辞的に使われるようになっている。
実際の使い方には2タイプがあり、「新時代」は「真時代」だと宣言するような明確な主張もあれば、「真時代」だけ示して「新時代」と重ねてあることをほのめかす形もあった。そもそも「真時代」なる語は一般的でなかったから、読者は「新時代」をふまえた表現と受け止めることになる。このような掛け合わせが発達し、社会的にも広く受け入れられた。現在の「シン」が考案されて受け入れられる下地が、しだいに整えられていった。
実例の一端となる「真美人」は、明治時代のちょっとした流行語にもなっていた。容貌の美しさだけでなく、内面的な美しさも兼ね備えた理想の女性像が議論され、多様な「真美人」像が提案されている。総じて「新」なる西洋文化に対する理解が大きく意識され、東西の文化に通じた教養や立ち振る舞いなどが求められていた。
すでに江戸後期には「新」の字を用いた「新美人」像がイメージされ、山東京伝の『吉原傾城新美人合自筆鏡』(天明4年、1784)のような作品があった。明治時代の文学作品などにも、いくらか見受けられる。「新」が意味するものは作品によって異なり、何らかの新鮮味が託されている。その流れをふまえて最初に使われた「真美人」の例については、定かでない。世の中に広まる火付け役になったのは、ヨーロッパから来日した作家の文章だったと思われる。
フランス人の作家ピエール・ロティは、明治18年(1885)の夏に海軍士官として来日した。長崎に滞在しながら、東京や京都などにも足を伸ばしている。同年の秋には東京に出て、鹿鳴館のパーティーにも参加した。そのとき見聞したことが、日本語に訳されて出版されている(ピエール・ロチー著、飯田旗郎訳『陸眼八目』明治28年、1895刊)。
ダンスを踊る日本人については、「個性的な独創がなく、ただ自動人形のように踊るだけ」と表現している(「江戸の舞踏会」)。カラーの扉絵に描かれたダンスパーティーの様子も皮肉タップリで、すでに日本で活動していたフランス人の挿絵画家ジョルジュ・ビゴーの風刺漫画雑誌『トバエ』(明治20年、1887創刊)の作風を思わせる。
当時は日本の政府高官やその夫人であっても、大部分は西欧式舞踏会のマナーやエチケットなど知るすべもなかった。食事の作法やドレスの着こなし、舞踏の仕方などは、西欧人の目から見てサマにならないものだった。西欧諸国の外交官も、うわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、手紙や日記などでは出席していた日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していた。ロティの『陸眼八目』も同じ目線に立っていたが、2人の女性だけは別格とみなして賞賛している(「観菊の御宴」)。
ひとりは外務卿(外務大臣)の井上馨夫人だった井上武子で、鹿鳴館の建設計画を進めた夫の馨とともに「鹿鳴館外交」を担い、「鹿鳴館の華」とも称された。明治9年(1876)に欧州視察の井上とともに渡航し、アメリカやヨーロッパ諸国に滞在し、西洋式の社交術を習得した。福沢諭吉の愛弟子だった中上川彦次郎から英語を学び、社交界に欠かせない文学や料理、ファッション、テーブルマナーなどの知識も身に付けてから帰国している。鹿鳴館では井上の妻として夜会を取り仕切り、他の明治政府高官の妻たちにファッションやテーブルマナーを指導したともいう。
ロティは武子について語る。数日前お目にかかった際には洋装が似合っていた。本日は日本古来の装束だったので、夫人の優美な笑顔がなければ気づかなかっただろう。日本人とヨーロッパ人とでは、もとより体型の違いもあるため、日本人が洋服を着こなすのは基本的にむずかしい。だが彼女は、そのむずかしさをものともせずに両方とも着こなしていた、と書かれている。
武子のあとに続いてあらわれた「貴夫人」は、見覚えがあるどころか以前この鹿鳴館でいっしょにワルツを踊ったことがある。その美しさは、ヨーロッパにもこれほどの人がいるのかと思えるほどである。そのご婦人とは「ナーベシ侯爵夫人」であり、先日はルイ15世の時代のような衣装を着こなしていたが、今日は古代の日本風の和装でいらしている。「日本風の真美人」は格別で、東西どちらの衣装も着こなしているのは、歌舞伎役者の早変わりも足元にも及ばないと評している。
ロティのいう「ナーベシ侯爵夫人」とは、鍋島栄子のことをさしている。京都の名家に生まれ、宮中に仕えていたが、イタリア全権公使として赴任した官僚の鍋島直大に同行し、ローマで結婚した。外交官夫人の草分けとして精力的に活動し、彼女もまた「鹿鳴館の華」と呼ばれた。日清戦争と日露戦争の際には、負傷兵の看護にあたるとともに各地の病院を慰問するなど、社会貢献の先頭に立った。その栄子について、ロティの訳書では「真美人」と表現している。
以後、国内の書籍でもたびたび「真美人」が取り上げられ、各自の価値観や感性にもとづく人物像が語られた。時には欧化政策に否定的な意見も語られ、西洋の社会や文化に過度に依存するのではなく、伝統的な美しさを重んじるべきといった声も聞かれた。あるいは容姿ではなく、「精神美人」を目指すべきとする意見も聞かれた(石河仲将述『真美人』明治34年、1901刊、ほか)。文学作品にも「真美人」が描かれ、美術の領域にも波及した。とりわけ浮世絵師の楊洲周延の作品が、話題を呼んだ。
周延は高田藩(新潟県上越市)の武家の出身で、歌川派の絵師に師事し、戊辰戦争や箱根戦争にも参加している。代表作の『真美人』は、浮世絵の版元から明治30年(1897)と翌年に出版された。大判錦絵の36図からなる揃物で、タイトルは番号で統一されていて個々の標題はない。琴や生け花の稽古に励む姿や新聞を読む姿など、さまざまな場面の女性が描かれている。最新のファッションや小物なども描かれ、才色兼備の美しさを「真美人」と表現していた。当時のモデルがポーズの参考にしたり、カレンダーが出版されたりと人気を博している。2年前に刊行されていたロティの『陸眼八目』に登場する「真美人」が、周延の『真美人』にも反映されていたように思われる。

https://dl.ndl.go.jp/pid/1302182
のちに芥川龍之介はロティに大いに関心を持ち、「ピエル・ロティの死」という文章を書いた(『百艸』感想小品叢書・8編所収「続野人生計事」大正13年、1924刊)。同じくロティの「江戸の舞踏会」に着想を得て、短編小説『舞踏会』が書かれた(『夜来の花』大正10年、1921刊、所収)。さらには戦後、ロティと芥川に影響を受けた三島由紀夫が、戯曲『鹿鳴館』(昭和31年、1956刊)を執筆している。芥川作品も三島作品も、無理に背伸びをした日本人や「真美人」の話ではないが、西洋文明に圧倒されていた時代の郷愁が漂っている。