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「シン」の系譜2-4

真髄よりも神髄

 江戸時代の文学作品には、字音のシンつながりで「神」と「真」の掛け合わせも見られた。元禄期に出版された遊郭のマニュアル本『好色由来ぞろえ』(元禄5年、1692刊)には、遊女言葉を取りまとめた箇所がある(巻3「浮世詞之出所」)。そこに採録されている「天道」が「ちか(誓)いのことばなり、しんぞといふにおなじ」と説明されている。現代語でいえば「お天道様に誓って」に近く、遊女が馴染みの客に対して「本命はあなただけ」と誓うような場面に使われた。その類語に、「神ぞ」が追加されている。
 元禄期の「神ぞ」については、同音の「真」を当てて「真ぞ」とも書かれた。近松門左衛門の『五十年忌歌念仏』(宝永6年、1709初演)には、「朝晩に心を付け、しんぞ思ひを尽せども」とある(中巻)。今でいう「本当に」のように、「神ぞ」も「真ぞ」も強調表現に使われていた。口にしていた当人にしてみれば、どちらの字を用いてシンゾと話しているのか自身も定かでなく、その意味でも「神」と「真」は互換性が高かった。もとよりシンと音読できる漢字には、「真」「神」「深」「信」などのように好感度の高いものが多く、掛け合わせが成り立ちやすかった。
 現在の「シン」映像作品などでは、タイトルを耳にした人たちが「新」の奥に「真」や「神」などの含みを自由に感じ取っている。しかし歴史的に見ると、むしろ「神」や「真」など「新」以外の字による組み合わせが先行していた。後発の「新」は芭蕉が「新しみ」を唱えた頃からやっと好感度が増し、シンの掛け合わせのグループに後から加わった。明治時代になると、時代の後押しを受けてさらに勢いを増し、シンといえば「新」が第一に意識されるほどになっている。この順序は、「シン」の系譜について考える上で見落とせない。
 明治時代になっても「神」と「真」は関連づけられ、おそらくもっとも有名な作品が坪内逍遥の『小説神髄』(明治18年、1885-同19年、86刊)だった。日本で最初の体系立った小説論と評されている本書は、上巻で小説の定義や変遷、種類などについて触れ、下巻では文体論や脚色法など執筆上の技法について論じている。
 江戸時代にはシンズイを「真髄」と書くのが一般的で、明治時代になってもほとんど変わらなかった。明治時代の国語辞典の代表格となった大槻文彦の『言海げんかい』(明治24年、1891刊)は、『小説神髄』が話題になった後に刊行されているが、「真髄」だけが採録されていて「神髄」は収められていない。現在の国語辞典では「神髄」と「真髄」が併記されているものの、依然として「真髄」が一般的となっている。
 しかし長らく「真髄」が使われてきたからこそ、坪内はあえて「神髄」と表記したのだろう。本文の一部に「真髄」も使われているが、そこだけ「真髄」にする必然性はあまり感じられず、たまたま表記が不統一になっていたのかもしれない。文中でも多用された「神髄」には、神の領域の本質に迫るといった意気込みが託されていた。
 『小説神髄』の序文(緒言)では、江戸時代と明治時代の文学作品が比較されている。江戸後期に小説が盛んになり、式亭三馬の人情本『浮世風呂』や曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』などが名を残した。明治維新をへていったん衰え、近年になって大いに復興してきたが、さまざまな「はい史(小説風の歴史書)」が世に出て「新奇を競ふ」ようになった。はなはだしいのは「陳腐ふるめかしき小説」を焼き直し、新聞や雑誌などに連載する小説家が結構いることだ、と断じている。ここに指摘されている「新奇を競ふ」風潮は、新聞をはじめとするメディア全般の傾向でもあった。
 そこで坪内は、宣言する。自分は子どもの頃から長らく「稗史」に接してきて、得たものも少なくない。また「稗史」の本質も、いくらかは会得できているように思える。だから口うるさいようではあるけれども、持論を展開することにした。それによって、日本の小説の「改良進歩」の一助になってもらえればと期待している、と述べている。そうして自分なりに凝縮させた小説のエッセンスと呼べるものが、題名に掲げた「神髄」だった。
 「真」を超えた「神」の領域は、坪内にとって創作活動における理想の境地だったと思われる。その理想に対して、世俗の現実は「新奇を競ふ」状態にあるとみなしていた。「新奇」の「新」は、奇をてらう表面的な目新しさにすぎず、評価するに値しなかった。すると坪内は、目先の「新」にとらわれない「真」なる文学作品を目指し、さらなる理想に「神」の座を想定していた。これは発想的に、現在の「シン」にも通じている。「シン」とは何かと問われて、このように答える人も稀ではないだろう。
 理想の作品像を提示した坪内は、みずから手本を示すために『当世書生気質』(明治18年、1885-同19年、86刊)を上梓した。『小説神髄』に披露した考えを「大風呂敷」と謙遜しつつ(序文)、欧米の小説の写実主義を実践すべく書かれていた。
 この『当世書生気質』が完結した明治19年は、歌舞伎を念頭に置いた演劇改良運動が動き出した年でもあった。政府主導で進められ、同年に結成された演劇改良会が推進力の母体になった。運動に触発されて歌舞伎座が開場するなど、歌舞伎界にとっても新時代を画している。
 海外の文学作品に接してきた坪内は、歌舞伎についても思うところがあった。その思いを題名に掲げた『劇場改良法』も明治19年に刊行され、本書でも「新」や「真」とともに「髄」が用いられている。冒頭の一節(「演劇改良会の創立をきいて卑見を述ぶ」)によると、劇場や舞台設備などの「改良」も大事だが、脚本の「改良」が第一だとある。とくに過去の作品は善悪のキャラクター設定が極端すぎて、善人はひたすら善人、悪人はひたすら悪人に描かれている。それでは「人間の真理」を描いたことにならず、「真理の一部分」を雑に描写したにすぎない、と批判している。
 その上で坪内は、人間性の普遍性に言及する。「真の人情の神髄」といったことは、時代が移り変わっても変化することがなく、決して豹変したりしない。1000年前の「人情」でも、1000年後の「人情」でも、とくに変わらない。その「骨髄たる真理」がまったく変わらないからこそ、私たちは浄瑠璃の台本を読んでも、シェークスピアの作品を読んでも称賛することができる、とある。このように小説や歌舞伎の改革に触れた文章には、「髄」の出番も多い。「神髄」であっても「真髄」であっても、「髄」は「髄」で重んじられていた。
 坪内は翻訳家でもあり、とくにシェークスピア作品の翻訳に尽力した。最晩年に至るまで訳文の改訂に取り組み、『新修シェークスピヤ全集』の刊行とほぼ同時に逝去した。一方で河竹黙阿弥亡き後の「新歌舞伎」の脚本も手がけていたから、浄瑠璃作品とシェークスピア作品に通底する「人情」を見出していた上記の言葉には説得力がある。ただし1000年の時を超えても変わらない普遍的な人間像といったテーマについては、坪内以降の文芸論ではおもに「真」の字を軸にして語られている。
 『小説神髄』が話題になったことにより、「神髄」という言葉も有名になったが、以後も世間的には「真髄」が一般的だった。後世の視点から『小説神髄』を振り返って批評したり、言及したりした人たちの文章には、その著作名を「小説真髄」と誤記したものが少なくない。名だたる文豪たちでさえ、引用する際に題名の表記を間違えていたりする。字面よりも耳で記憶されたショウセツシンズイは、古くから馴染みのある「真髄」に引き寄せて脳内再生されやすかった。これもまた、シンという同音の漢字によるコラボが織り成してきた歩みの一幕だった。

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