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感情や物事の揺れ動きが思考に与える影響について、

思考を、纏めたくて書いてる。

感情って水ものだから
変動がある訳だけど、

一つの物事を取り上げて抽出すれば、
元々あったものからは切り離される訳で。

でも、

そこには、一つの形にするだけの
何かがあるわけだ。

逆も然り。

一つの形として取り上げてしまえば、
もともとそこに横たわっていたものからは
零れ落ちて、必ず、見落とす部分があるのよ。

だから、人って、
抽象と具象を繰り返しながら、
あるいは公式づくりと問題読解を交互に行いながら、物事の理解を深めていくわけであって。

だからこそ、物事の捉え方って色々あって、
誰しも自分の思う意志に付随する理由づけをくっつけたがる。本当に、意思って不思議。おもしろくて、疲れる。

そこに原則的な原理があるのに、
ままならない。意思の力、人の想いって、
凄いね。凌駕してくるじゃん、いろんな壁を。


しかも、そこに時間も交ざってくる。
もう大変。時系列ごとに感情は感情のまま流されていくから、そこから移ろいが生まれていく。

物事はいつだってシンプルなのに、
複雑だ。複雑なのに、シンプルだから、
二律背反、二面性ばかりが漂っているようにも
見えるし、逆に、それがグラデーションと様々な関係性のネットワークに見える瞬間もある。

人の数だけ、小さなものから大きな変動が、
日々あって、それを直に感じる瞬間が一番、
物事をどう捉え切るのか、わからなくなる。

正確には、少しニュアンスが異なるかも。
物事を捉え切ることなんてできないのに、
みーんな、答えを求めたがるのは
繰り返すことになるが、意思、そして意志が
あるから。

たかが感情、されど感情。

好きになったり嫌いになったり、
好意と嫌悪の緩急と心の扉の開閉と、

子供の頃のようにコロコロとお互い転がり合う関係性なんて、狡賢くなればなるほど、難しいのだから。

私は、理が知りたい。
そして、人を知りたい。

構造的に、統計的に、
時系列的に、深層的に、
情動的に。

人は曖昧を愛せというが、
楽なことが正解という人と、

傷ついてもいいから、
明確さで物事を手繰り寄せたくて、
白黒つける人。

どちらが大切か、なんて、
ひとによってちがうじゃん。

正解なんてまるでないと、
答えは一つではないと世の中はいうのに、
不正解は一丁前に押し付けてくる。

エゴが真意を示唆している。

だからこそ、
すべての物事は
その時々の前提と過程と仮説の中で、
なりたっている。

だからこそ考えには、
副音声として、
前提を含めると良いと思う。
それがぐっちゃぐちゃな思考の中の私の、
自分への、取り決め。

他人に教えられる人、何かを説ける人なんて、
いないよ。

だって、説教される側の、人たちにも
そうなるだけの理由と葛藤があって、

そうならざる終えないほどの、
ことがあるから、今(あえていうなら)
治らずにそこにいるのよ。

そこを根本から否定したら
相手の世界を否定することに繋がってしまう。

私はそれはしたくない。

でも、自分の何かの意思をもって、
伝えたい思いがあるときに、
前提を踏まえて、その場合に置いてだけ、私は
そう思うよって意思を伝える。事実ではない。

事実はその人がそう思うなら、
すべてが事実だから。

私は大きな矛盾を抱えている。

世の中の理を知りたいのに、
自分の意志だけが強くなっていく。

でも、もしかしたら私の求める賢さって
そういう部分にあるのかもしれない。

世の中のことを知れば知るほど、
人は自分にとっての正解を探す旅に出てしまう。

世の中の理と意志の深まりが、
交互にやっていくなかで
得ていく賢さを、
私は私の賢さと定義づける。

考えは、すべて
繋がってる。

だってすべての物事は森羅万象から
始まっているから。

元を辿ればすべて、
一つの原則てきなところに辿り着くの。

人は何かに惹かれる時、
その両極端の感情をもつ。

感情のはじっこは何処にあるんだろうね。
たぶん人によって違って、
それが感情の振れ幅に繋がってる。

ぐーるぐる考えて、疲れて休めて、んで考えて。

何かの揺れ動きの中でしか
人は物事を多角面から捉えられない。

だから、いいの。
気持ちが揺れれば。

揺れたぶんだけ、知りたいことが知れるから。
でも、揺れてつらくなったら、揺れが収まるまで、その場で止まるの。静と動ね。

主観的な持論って、私変でおかしくて
好きなんだよね!

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