「復活の命に生きる」とは、神の召しに応答すること

2024年5月5日 ニューライフキリスト教会 豊田牧師 説教「復活の命に生きる」5回目を聞いて頭に残ったこと

【報告】森ゆりさんトルコ訪問


阪神大震災で弟を亡くされた歌手の森ゆりさんが、地震被災地のトルコでコンサート旅行をされたご報告があった。地震から1年経ってもがれきがそのままの所が多いということだった。

説教「復活の命に生きる」とはどういうことか


ヨハネ21:4-6
イエスはガリラヤ湖畔で弟子たちと会われた
→ペテロを立ち直らせるのが一つの目的

エルサレムでは2度会われた→復活を実感させるため

3年半前、「人間をとる漁師にする」と言われた

ガリラヤ湖畔で会われたのは、ペテロを許しているだけでなく、信頼しているということをわからせるため。

ペテロは、自分がイエスを一番愛していると証明したかったが、失敗した。

ガリラヤ湖畔で、「この人たち以上に私を愛しますか」と問われたが、「あなたのために死ぬほどは愛せません」と白状し、解放された。

ところが、「私の子羊を飼いなさい」とイエスは言われた。
「あなたを信頼している」という意味。

罪許されたものとして、どう生きていくか。
自分の罪の償いは、もうしなくてよい。イエス様が肩代わりしてくださった。

復活の命に生きる
→神が私をいかに愛してくださっているかという受け身なものだけではない。
「私を愛しますか?」→「はい」と答えていく中に神の召命がある。

「召命を受ける」とは、牧師になるということではない。
神の愛し方の中に召命がある。愛が形になる。それぞれの愛し方がある。具体的になる。

すべてのクリスチャンには召しが与えられている。

悲しむ者と共に悲しむなど。

神の召命とは、calling。神が呼ばれた。
ペテロには「私の子羊を飼いなさい」と3度呼びかけられた。

断ったりスルーしたりしても、再び呼びかけてくださる。しつこい。

キリスト教信仰の本質は、神の呼びかけに「はい」と答えること。
アブラハムは、従ったから信仰の父と言われる。模範。
「はい。ここにおります。」
making myself available

サムエル1
サムエルは呼ばれると、夜中にすぐに起き上がって祭司エリの元に走って行って、「はい。ここにおります。お呼びになりましたので。」と言った。3度も。

祭司エリの召しは、サムエルに神の声を聴かせることにもあったのではないか。
神は自分ではなく、サムエルに語られるということを受け入れた。

神を愛していく中で、召しが形になっていく。

応答するためには、いろんなものが妨げになる。父の葬式とか。

エデンの園で、神はアダムに「あなたはどこにいるのか」と言われた。

思ったこと

「私を愛しますか」と言われたら、「はい」と即答できない。
考えてみると、毎週日曜日に、神様の御心はどんなものか知りたいから礼拝説教を聞くし、礼拝したい気持ちがある。ということは、恨みも不満もあるが、多少は愛する気持ちがあるということだろう。

召しが聞こえても断りそうだが、とりあえず聞いて断るところから始めたいと思った。神はあきらめないらしいので、



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