「厚かましい」「反省していない」と言われても神様の憐れみを求めていい
2024年8月18日 ニューライフキリスト教会 豊田牧師のメッセージを聞いて頭に残ったこと
パリサイ人と取税人の例え
ルカ18:9
自分は正しいと確信していてほかの人たちを見下している人たち
ルカ18:10-11
パリサイ人は心の中で祈った「神よ」「わたし」
「この取税人のようでないことを感謝します。」
パリサイ人と神様との関係
自分について言及から、自己アピールが読み取れる。
罪人と自分は違う。「でないことを感謝します。」
取税人はその町で生まれ育った人たち。
住民の家族構成などを熟知している。
自分自身について神に感謝する言葉を持ち合わせていなかった。
人を裁くと、自分が正しいかのような錯覚に陥る。
ルカ6:37
裁いてはいけません。そうすれば、あなたがたも裁かれません。
人を不義に定めてはなりません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。
多くの人が、人を裁くと自分が正しいかのような錯覚に陥るところから抜け出さなければならない。
人を裁くと自分も同じく罪に定められる。
根源的なアイデンティティを持ち合わせていなかった。
自分になしてくださった神の業を経験していない。
神が自分をつくりかえてくださったことを体験していない。
詩編139:14
ダビデ
あなたは私に奇しいことをなさって恐ろしいほどです。
私の魂はそれをよく知っています。
ダビデは感謝が尽きなかった。救われて今の私になった。
パリサイ人にとって欠けているのは、神様にとっての私、神様に愛されている私。
アイデンティティに神が不在。
クリスチャンの根源的なアイデンティティは、神様にとっての私。神様に許されている、愛されている私。
80歳のモーセ
エジプトに行けと言われた時、
「私は一体何者なのでしょう。」
40年前、エジプトから保身のため逃げた。
殺人者、裏切り者。
ルカ18:12
パリサイ人は自分の行いを誇った。
週2度断食、10分の1献金。
律法で断食を定められているのは年1回だけ。
断食によって、自分がいかに弱い存在なのか思い知らされる。
ところがパリサイ人は、断食を自分を誇る手段にしてしまった。
ルカ18:13
取税人は遠くに離れて立って、自分の胸を叩いて、
「神様、罪人の私を憐れんでください。」
神様を遠く感じていた。隔てを感じていた。
自分の胸を叩く→心砕かれていた。
罪人
「罪」=的を外す
なぜこんな人間になってしまったのだろう?
自分に対する言い訳が通らなくなった。
今の自分を認めることができない。
「神様、罪人の私を憐れんでください。」
憐れみがなければ崩壊する。
ルカ18:14
義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなくこの人です。
自分を低くするものは高くされます。
低くするとは、
こんな私が救われるためには、神様が犠牲になるしかない、
神様に迷惑をかけずに救われるのは無理、と憐れみを求めること。
悪事で罰を受けるのは当たり前のことで、低くすることにはならない。
もっと神様の憐れみを求めていい。神様の肩代わりに頼っていい。
「厚かましい」「反省していない」と言われてもいい。
人に対して責任をとる、償うのは当然だが、神様だけには、もっと大胆に憐れみを求めていい。
感想
「クリスチャンの根源的なアイデンティティは、神様にとっての私。神様に許されている、愛されている私。」
というところが自分には足りないと思った。
その境地に達したい。
自分に対する引け目が大きすぎて、一周回って防御的になり、「そんなに私が悪いのか」と反発する気持ちになっている。
取税人も、「自分だって好き好んでこんな仕事してない。生活のためには仕方ないじゃないか。良くないっていうなら、ほかの仕事紹介してくださいよ。無理でしょ?なら責めないでくださいよ。」みたいな気持ちで、宮から足が遠のいていたかもしれない。心が遠のいていたのは確実だろう。
でも、ある時何かが崩壊してしまって、宮に来て、神様の憐れみを求めることになったのかも。