神との平和の威力がすごいので、自業自得で苦しむ時こそ神に近づける

2024年9月8日 ニューライフキリスト教会 豊田牧師メッセージ『御霊によって歩む13』を聞いて頭に残ったこと

ローマ5:1
こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

神との中立的な関係は存在しない。

5:10
敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。

神との関係が劇的に180度変わる。救いとは、神との和解。
和解は、イエス・キリストの十字架による。
代償として神の御子が十字架で死んでくださった。

神は人と敵対されたが、神が人の敵であったことは一度もない。つまり、人の不幸を願われたことはない。

イザヤ59:1-2
見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。
むしろ、あなた方の咎が、あなた方とあなた方の神との仕切りとなり、
あなた方の罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

私たちの罪が神の御顔を隠した。

エデンの園で
神は動物の皮で服を作った。
敵だったら、裸で追放したはず。
神との親しい関係を失った。敵になったわけではない。

創世記3:24
こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。

人が罪を解決しないまま救いに至ることを否定した。

マタイ27:49-51
イエスは大声で叫んで息を引き取られた。
すると見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

聖所と至聖所を仕切る幕。
至聖所には、一年に一回だけ、罪のための血を持って大祭司のみが入れた。手ぶらでは入れない。大祭司は自分の罪のために動物を犠牲にしたうえで、イスラエルの民の罪のために至聖所に入る。

つまり、神の前に近づくことは基本的にできなかった。

レビ16
動物の血と炭火を持って入る。煙を至聖所に充満させて、神に罪深い自分を見られないように、また神を直接見ないようにした。

シナイ山でも神の声しか聞かなかった。見なかった。

それほど神と人の間には仕切りがあった。

出エジプト記3;4-5
モーセと燃える芝
「モーセ、モーセ」
「はい、ここにおります」
「近づくな。あなたの立っている場所はきよい。」

神に近づくのは不敬。自分と同じようにみなすこと。

ところが、神が神殿の幕を裂いた。

へブル9:11-12
ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

神は、私たちの罪に応じて私たちを扱わないということ。

過去・現在・未来の罪があがなわれた。

つらいこと・苦しいことは、私たちの罪のせいではない。
キリストの血によって神との平和を持っている。

訓練はあるが、刑罰はない。

へブル4:16
あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みのみ座に近づこうではありませんか。

「大胆に」とは、忠告を聞かなくて失敗したのにも関わらず神に近づくこと。一番神様に近づけないときに近づくこと。

感想

自業自得で痛い目に会うのは、訓練であって、神が私の愚かさ・失敗に罰を下されたわけではないようだ。

自業自得で痛い目にあった時こそ、神に「近づこうではありませんか。」と聖書に書かれているのは、驚くべきことだ。

神との平和のすごさ・威力を初めて感じた。

イエス・キリストの十字架によって、神が突然私に対して温かい存在になられたということか。
驚きだ。

「お酒を1滴飲んだら地獄に落ちる」と思ったことはさすがにないが、それに近い不寛容・不信感・距離・否定・切り捨てを感じてきた。
そういうのから解放されるのはすばらしい。

希望が湧いてきた。


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