クリスチャンの苦しみは、不信仰のせいではない
2024年7月21日 ニューライフキリスト教会 豊田牧師メッセージ「御霊によって歩む8」を聞いて頭に残ったこと
先週の振り返り
ローマ8:17
「子どもであるなら相続人でもあります。」
キリストとともに共同相続人
放蕩息子の兄は、子どもであることはわかっていたが、相続人であると理解していなかった。
父の財産は自分のものなので使ってもいいのに、使えなかった。
兄息子「お父さんは、友達と楽しむために子ヤギ1匹くれない」
父「友達と楽しむために子ヤギ1匹くらい食べたらいいのに、なぜそうしないんだろう?」
クリスチャンは神様から信頼されている。
何を相続しているのか、よくわかっていない。
神の御子が父から受け取るものを、私たちも共同で受け取る。
子どもらしく神に願い求めるのがよい。
使用人のように父に仕えていた兄息子
放蕩息子「もう、息子と呼ばれる資格はありません。」
使用人から再スタートしようとした。
ルカ15:22
父は帰宅した放蕩息子に、着物、履物、指輪を与えた。
指輪は実印。
預金通帳の実印を渡したのと同じ。
放蕩息子は父の信頼回復のためにまだ何もしていないのに、父は与えた。
愛だけでは人は成長しない。信頼が必要。
実績を示していない私たちを信頼してくださる。
ガラテヤ人への手紙
子として生きるのか、使用人として生きるのか。
御霊によって生きるのか、肉によって生きるのか。
ガラテヤ人は異邦人クリスチャンだった。
ユダヤ人クリスチャンが主流だった。
ガラテヤ1:7
ガラテヤ人が他の福音に移っていったことにパウロは驚いた。
「異邦人にとっては、イエス様の十字架を信じるだけでは足りない」という教えが他の福音。
異邦人であるという引け目があった。
パウロ「キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるのです。」
ユダヤ人は異邦人と交流しないという方針が伝統だった。
だから、異邦人に福音を語ることを躊躇した。
ペテロに神様が異邦人も清いと示されたので、異邦人伝道が始まった。
エペソ2:12
この世にあって望みもなく神もない者たちでした。
↑ 異邦人に対するユダヤ人の共通見解。
ユダヤ人は、ローマ帝国の支配が終わらないのは、誰かが律法を破っているからだと考えた。
ところが、イエス様は安息日に病人をいやした。
つらい目に合うのは、隠れた罪があるのでは?と思うクリスチャンもいる。
ユダヤ人は、安息日と割礼を重視した。
異邦人が律法を破ると、自分たちユダヤ人がとばっちりを受けると思った。
異邦人クリスチャンに割礼を受けなさいと言った。
パウロ「そんなことしたら、キリストの十字架が無意味になる」
マタイ3:9
イエスは言った。心の中で「私たちの父はアブラハムだ」と思ってはいけません。神は石ころからでもアブラハムの子孫を興すことができるのです。
「割礼=救われたも同然。何をしてもいい。」という誇りがあった。
ガラテヤ2:11-13
パウロはペテロを批判。
ペテロは異邦人と食事をしていたが、一部のユダヤ人が「異邦人も割礼を受けねばらならない」と主張したことにより腰が引けて、異邦人と食事をしなくなった。
「バルナバまでがその偽りの行動に引き込まれてしまいました。」
割礼はユダヤ人のアイデンティティ。
パウロは、異邦人に対する隔ての壁を崩そうとした。
神はアブラハムに「あなたが祝福となれ」と言った。
クリスチャンはそのアブラハムの子孫。
祝福を乞う生き方から、自分が祝福となる生き方に。
私たちは神の愛されている子で、相続人。
そのことを素直に受け止めたい。
感想
神の教えっていうのは本来解放なんだな、と思わされた。
がんばって子としてもらう、相続人としてもらうんではなくて、恵みによるんだと。
今の苦しみは、祈りが足りないとか、聖書を読みたりないとか、神様にあまり心を向けていないとか、そういうこととは何の関係もない、と豊田牧師は言う。
だって神の子であり、相続人で、信頼されているのだから。
脅迫的な教えから脱して、恵みの良い知らせを受け取ろうと思った。
前回と大体同じ内容だったので、それだけ大事なところなんだろう。
確かに、裏切って帰ってきた子が「ごめんなさい」って言っただけで、信頼に値することを何もしていないのに、信頼して実印を与えるなんて、驚きだ。