ようこそ、Septemberの日。
八月のさいごの夜は
満月、だった。
庭に、夜、到着。
雲が晴れたので、
ゆっくりと、眺めた。
↓
満月さんと雲と夜。
月を眺めながら、
このまま、庭で睡る、ことが
できたら、幸せだろうなあ
と、思いつつ、部屋に戻り、
深く眠った。
いちにち働いて
パート先から、電車を乗り継いで
バスに揺られ、来たので
やっぱり、疲れていた。
翌朝、9月が来ていた。
風は秋色、だ。
切り戻しや草取りを、
日差しが柔らかな時間に、
と、朝陽のなか、励む。
ひと段落して、汗を拭いたら、
Septemberさんを迎えるスワッグ
を、つくることにした。
庭にあるハーブから、
タンジー、ローズマリー、タイム
セントジョーンズワート、などを摘み、
麻紐で、束ねる。
そして、ようこそ9月さん、と
シマトネリコの枝に掛ける。
秋のいろ、秋の匂い、
秋日の濃さ、秋風のさやけさ、
記憶のなかから、
初秋の美しさを取り出して
Open前の、
清潔なパン屋さんの棚、
みたいなところへ並べる。
庭、は、
わたしには、
いま、いちばん、
安心できる場所、で
土を耕し、種を蒔く
のような、一番現実的な行為を
させてくれるにもかかわらず、
引用にもあるように、
ジブンのなかにある
《最も奥にある夢と溶けあっている自身》
に、巡り合える
すこしく《非現実な場所》でも、ある。
庭にいるとき、わたしは時に
姿を消している、と
感じるときがある。
まるで、姿消しの薬草ファーンを
食べてしまったか、のように。
それは、不思議な感覚。
庭の一部分である、と感じること、
その、意識していない《瞬間》が
カラダとココロに流れ込んでくるとき、
とても、幸福だ。
リアルワールドから逃れて
ただ、在る、を、感じる、から。
庭は、生と死が、
休みない車輪のように
常に循環していて、
それも、わたしを安らがせてくれる。
働かせてくれる。
わたしは、この日、
新しく土を耕し、
採取したホリホックの種を
そこへ、ぱらぱらと蒔いた。
来年の夏庭を、はやくも夢見て、
彼らがたくさん咲くことを願って。
9月は、種蒔きの月。
ようこそ、September!