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ようこそ、Septemberの日。
八月のさいごの夜は
満月、だった。
庭に、夜、到着。
雲が晴れたので、
ゆっくりと、眺めた。
↓
満月さんと雲と夜。
月を眺めながら、
このまま、庭で睡る、ことが
できたら、幸せだろうなあ
と、思いつつ、部屋に戻り、
深く眠った。
いちにち働いて
パート先から、電車を乗り継いで
バスに揺られ、来たので
やっぱり、疲れていた。
翌朝、9月が来ていた。
風は秋色、だ。
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切り戻しや草取りを、
日差しが柔らかな時間に、
と、朝陽のなか、励む。
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ひと段落して、汗を拭いたら、
Septemberさんを迎えるスワッグ
を、つくることにした。
庭にあるハーブから、
タンジー、ローズマリー、タイム
セントジョーンズワート、などを摘み、
麻紐で、束ねる。
そして、ようこそ9月さん、と
シマトネリコの枝に掛ける。
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秋のいろ、秋の匂い、
秋日の濃さ、秋風のさやけさ、
記憶のなかから、
初秋の美しさを取り出して
Open前の、
清潔なパン屋さんの棚、
みたいなところへ並べる。
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秋深くなったら、株分けする。
庭、は、
わたしには、
いま、いちばん、
安心できる場所、で
土を耕し、種を蒔く
のような、一番現実的な行為を
させてくれるにもかかわらず、
時間が止まっているかのように、庭の守られた空間は私たちの内なる世界と外の世界を、日常生活のプレッシャーのないところで共存させてくれる。この意味で庭は、最も奥にある夢と融合している自身と現実の世界とが出会うような中間地帯をつくり出す。
スー・スチュワート・スミス著
和田佐規子訳
築地書店
p20より
引用にもあるように、
ジブンのなかにある
《最も奥にある夢と溶けあっている自身》
に、巡り合える
すこしく《非現実な場所》でも、ある。
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庭にいるとき、わたしは時に
姿を消している、と
感じるときがある。
まるで、姿消しの薬草ファーンを
食べてしまったか、のように。
それは、不思議な感覚。
庭師のいない庭は存在しない。庭は常に誰かの心の表現であり、誰かの手入れによる結果だ。ガーデニングの過程でも、「私」という存在と、「私ではない」存在をきれいに分類することは不可能だ。後ろに下がって、人間の仕事を眺めてみると、自然がしたことと、人がしたことを分けられるだろうか。活動の最中にあっても、それらは必ずしも明らかではない。実は、仕事に没頭しているときには、私が庭の一部分であり、庭も私の一部分であるという感情が湧き上がってくることがある。自然が私の内部に流れ込んできて、私の中を駆けめぐるのだ。
スー・スチュワート・スミス著
和田佐規子訳
築地書店
p21より
庭の一部分である、と感じること、
その、意識していない《瞬間》が
カラダとココロに流れ込んでくるとき、
とても、幸福だ。
リアルワールドから逃れて
ただ、在る、を、感じる、から。
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庭は、生と死が、
休みない車輪のように
常に循環していて、
それも、わたしを安らがせてくれる。
働かせてくれる。
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わたしは、この日、
新しく土を耕し、
採取したホリホックの種を
そこへ、ぱらぱらと蒔いた。
来年の夏庭を、はやくも夢見て、
彼らがたくさん咲くことを願って。
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咲いた、立葵さんたち。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/115184026/picture_pc_bb90d74b1fd5bad6dd20421a6e8bf993.jpg?width=1200)
咲いてほしい。
土地を耕すことにエネルギーを注ぐと、何かの見返りがある。そこには魔法があり、つらい労働があるのだが、大地から生まれる果物や花は、本物の良いものだ。それは、信じる値打ちがあるもので、手を伸ばせば得られる。種を蒔くことは未来の可能性の物語を植えることで、希望の行為だ。蒔いた種がすべて発芽するわけではないが、地面の下には、自分が蒔いた種が埋まっていると思うと、そこには安心感が生まれる。
スー・スチュワート・スミス著
和田佐規子訳
築地書店
p80より
9月は、種蒔きの月。
ようこそ、September!