捨てられないもの

 先日、スマートフォンを買い替えた。毎回スマートフォンを新しくしようと思い始めてから実行に移すまで、数か月の時間をかけてしまう。その理由自体は明白で、その時使っているスマートフォンを手放すのを躊躇してしまうからだ。

 買い替えようと思うほどなので、所持しているスマートフォンに不便を感じてはいる。今回はストレージの容量が限界を迎えてきていたことと、性能があまりよくない機種だったため、アプリゲームをスムーズにプレイ出来ないことに非常にストレスを感じていたからだった。正直、割とポンコツなスマートフォンに呆れや苛立ちさえ感じていた。
 それなのにいざ買い替えようとオンラインショップで新商品を眺めていると、幾ばくかの寂しさを抱いてしまうのだった。数年生活を共にしていたスマートフォンに別れを告げようとしている。しかも一方的に、相手の意見を聞くこともなく。その相手というのは無機物であるはずなのに、何故かちょっとした罪悪感が心の片隅に生まれてしまい、まぁあとちょっと、と恋人に別れを切り出せない人間のようにオンラインショップを閉じてしまう。それを5回ほど繰り返して、ようやく新しいスマートフォンを注文することになる。
 スマートフォン、またガラケーであっても、写真や音楽などのデータはメモリーカードやストレージサービスによって新しい機種へと引継ぐことができる。だから新しい機種にしたところで、不足するものは何もない。しかしそれでも明確に言葉で表現できない、または表現する必要もないような些細な思い出や記憶は、以前の機種の中に残されたままのように思ってしまう。それを廃棄することも何だか忍びなくて、自室の机の引き出しには歴代の携帯機器が眠っている。

 このようになかなか切り捨てるという行為が出来ないことから分かるように、部屋には実に様々なモノがドン引きされるくらいしまわれているし、飾られている。オタクであるため、とにかくアニメやゲームのグッズがわんさかある。アクリルスタンドやフィギュア、キーホルダー、ポストカード……オタク向けのグッズは意外とそこら辺で沢山売っているものではないので、これらを断捨離と称して捨ててしまったら、再び入手することは出来なくなるかもしれない。そんな貴重なものをどうして捨てることが出来ようか。いや、出来ない。
 こういう思考のやりとりを掃除の度に毎回行い、毎回同じ結論に達し、クローゼットの奥にしまう物がどんどん増えていく。その内床が抜けてしまうのではと心配になる。
 この前さすがにちょっと部屋を整理しようかとクローゼットをごそごそ漁っていたら、何と地層の奥の奥から幼稚園卒業の際に先生たちからもらったお祝いメッセージカードが出てきた。林檎やバナナといった果物の形に切られた画用紙に、お世話になった先生たちが温かなメッセージを書いてくれている。それらの果物はバスケットの形をした画用紙を2枚貼り合わせて作られた簡易ミニバッグに入っていた。画用紙の端はボロボロになり、所々折れ曲がってはいたが、メッセージは問題なく読める状態だった。
 わぁ懐かしい、と一人静かに感動しながらメッセージを読む。いつまでも元気でいてね。可愛らしいニコニコ顔が大好きだよ。一緒にお絵描きしたことずっと忘れないよ。
 希望と思いやりに満ち溢れた文章を読み進めていくと、しかし徐々に虚しくなってくる。あの頃のきらめきや純真無垢な心はどこに行ってしまったのだろうか。今の私は昔の私に顔向けが出来ないほど愚かで惨めな人生を送っている。何でこんなことになってしまったのだろう。どこで間違ってしまったのだろう。私は果たして、生きていて楽しいのだろうか……?
 と、情緒が急降下してしまったので、ここまでにしようとメッセージカードを元に戻す。これを捨ててしまえば虚しい思いをするきっかけを一つなくせるはずなのだが、年数の重みを感じてしまいやはり残しておくという決断を下してしまう。あともう少し寝かせれば骨董的価値が出てくるかもしれないし、という馬鹿らしい言い訳を添えて。

 結果、部屋からなくなる物は少なく、どんどんと物が増え続けている。後年、ニュースに出てしまうようなゴミ屋敷になることだけは避けたいと思ってはいる。最悪の場合、レンタル倉庫を借りれば大丈夫だろうと今のところは割と余裕の気持ちを持ってはいるが、十年後にはどうなっているのだろうか。
 役目を終えた先代のスマートフォンは、今も電源は入っているがゆっくりと充電が減っていっている。電源が切れたとしても、再度充電をする必要はないので永い眠りにつくことになる。その時は、今までありがとうございましたとお礼を述べて机の引き出しにしまうだろう。引き出しの住人がまた増える。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?