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ベランダの花

 今、自宅のベランダにはアブチロンという花が咲いている。よく街を歩いていると赤色のアブチロンを見かけるが、自宅で咲いているのは白い花びらをした清楚なアブチロンだ。花屋で買ったものではなく、名前を知らないとあるおじいさんからの貰い物だった。

 七年程前、アルバイト先の店へ向かうためによく利用していた駅前の駐輪場のすぐ隣に民家が建っていた。小さな2階建ての家で、黄色の外壁は色褪せており、長いこと使われていなさそうな黒い自転車が玄関ドアの横に置かれていた。辛うじて庭と呼べるほどの狭いスペースには、植木鉢が沢山並べられており、パーゴラにはつる性の植物がびっしりと絡んでいた。山茶花、紫陽花、向日葵、水仙ーー春夏秋冬、花が咲き続けている家だった。時折、住人であるらしいおじいさんが植物たちの世話をしているのを見かけた。
 初夏あたりにその民家の庭をふと眺めると、白い花が目に入った。綺麗な顔を俯かせて佇んでいるようなおしとやかな見た目に惹かれ、素直に「わっ、綺麗!」と思った。すぐに何という名前の花だろう、と興味を抱いたけれど、今まで似たような花を見たことがなく、インターネットで名前を調べようとしても膨大な情報の中からその花に辿り着くことが出来なかったのだった。(「白い花」で地道に検索したら見つかったのだろうか……。)

 それ以降、一目惚れをしたようにその花のことが頭から離れず、駐輪場を利用する度に民家の庭を見ては「あの子は誰なんだ」と悶々する日々。図らずも青春を謳歌している高校生のようになっていたのだが、ある日転機が訪れた。バイト終わりに駐輪場に入った時、おじいさんが庭の手入れをしていたのだ。
 おじいさんがあの花を育てているのだから、もちろん名前だって知っているはずだ。聞けば教えてくれるかもしれない。でも面識もない女がいきなり駐輪場から話しかけてくるなんて、途轍もなく不気味ではないか? ドン引きされてしまったらどうしよう。しかしこんなチャンスは二度と来ないかもしれない。
 時間にしたら数十秒だったと思うが、駐輪場で一人、かなり葛藤した。元々あまり知らない人と話すという行為が苦手で、セルフレジを好んで使い、美容院でも極力会話を避けている人間としては「その花の名前、何ですか?」とおじいさんに話しかけるのは相当の勇気と胆力と思い切りが必要だった。でも、あの子のことをもっと知ることが出来るなら……。私の中の高校生が胸を高鳴らせる。
 ええいままよ、と私は一歩また一歩と民家に近づき、声を出した。

「あの、その花の名前って何ですか?」

 おじいさんはこちらを見て5秒ほど動きを停止させていた。驚いたのだろう。当たり前だ。かなりの高齢に見えたので、本当に心臓が止まっていたらどうしようと内心ざわついていたが、ちゃんと返事をしてくれた。「こっちに来なさい」。
 いや、名前を教えてくれるだけで十分なんですけど、と思いつつ、駐輪場と庭は柵で隔てられていたので、いそいそと駐輪場を出て民家の入り口から庭へとお邪魔させてもらう。そこには思っていた以上に多くの植木鉢が置かれていた。造り棚にもみっしりと植木鉢が置かれていて、パーゴラは濃い緑色のトンネルになっており、さながら六畳ほどの小さな植物園のようだった。
 おじいさんはあの白い花が咲いた植木鉢を持ってきてくれて「アブチロン」と言った。聞き慣れない単語を耳にして思わず聞き返すと、また「アブチロン」と静かに名前を伝えてくれる。

「熱帯のほうに分布していて、花の色が数種類ある」

 そう言ってオレンジと黄色の花をつけたアブチロンを持ってきてくれた。白い花よりもやや小ぶりで、やはりおしとやかに控えめに、俯きながら花びらを広げている。
 沢山の植物に囲まれて、無駄な所作なく目的の植木鉢を持ってくるその姿に、もしかしたら植物に関する仕事をしていた人なのかな、と何となく思った。丁寧に教えてくれてありがとうございます、とお礼を言って去ろうとすると、おじいさんは私に植木鉢を持たせてきた。

「持っていきなさい」

 吃驚しながら「いいんですか?」と聞くと、返事の代わりにオレンジと黄色のアブチロンも大きなビニール袋に入れて差し出してきた。あっという間に荷物が何十倍にも重くなる。
 本当にありがとうございますと改めてお礼を言っても、おじいさんはこくりと頷くだけだったが、不機嫌だとか不愉快だとかいう感情はなく、ただ自分がやるべきことをやっただけだという、どこか満足気な表情を浮かべていた。私は思わぬ貰い物にるんるん気分だったが、三つの植木鉢を自転車で家に持ち帰る作業はかなりの労力を要し、帰宅した時には腕が悲鳴を上げていた。
 それでも憧れの白い花ーーアブチロンを自宅に迎えることが出来たのはとても嬉しく、毎朝ベランダに出て花を愛でながら水をあげた。残念ながらオレンジと黄色の花を咲かせるアブチロンは、私の育て方が悪かったせいか枯らしてしまい、今は白い花しか残っていない。この子だけは枯らさないようにしようと必死になって水やりや肥料、植替え等を勉強して七年ほど私の生活を見守ってもらっている。冬が苦手のようで、寒くなると葉が少なくなりしょげてしまうが、暖かくなると途端に元気になって新しい葉を伸ばし蕾をつけ、可愛らしい白い花を咲かせる。
 ここ数年、生活環境が変わって駐輪場を使うことは滅多になくなってしまったのだが、先日久しぶりに駐輪場を利用したら、おじいさんが住んでいた古い民家は姿を消しており、そこにはレンタルオフィスビルが建っていた。小さな植物園の気配など微塵も感じられなかった。おじいさんがどこに行ってしまったのか、知る方法など私は持ち合わせていなかった。
 おじいさんから貰ったアブチロンの鉢には園芸用のラベルが挿さっていて、「アブチロン」ではなく「ステラ」という名前が書かれている。何故その名前がアブチロンの鉢に挿さっていたのか、その理由はもう分からないのだろう。
 この世界のどこかで、おじいさんが今も沢山の植物に囲まれていることを願っている。

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