短編小説「幸せを、この木に刻む」
ガリッ
落ちていた石で目の前の木を引っ掻いた。
木に新しく、線が刻まれる。
「今日な、かけっこで初めてビリじゃなかってん!」
「俺、もっともっとすごなるから、よう見とけよ!」
「そしたらまた明日な」
ひとしきり話した後、今までに刻まれた線を見て微笑む。
そして、その場を後にした。
「こん木はな、お前の木じゃ。楽しかったとき、嬉しかったときにこうやって印つけとくんや。いっぱいの印でこの木を満たすんやぞ」
そう言われて、じいちゃんからもらったこの木。
小さい頃から刻んできた印の数が、俺の幸せと成長を物語っている。
「俺、結婚するよ」
慣れた動作で石を拾い上げ、ガリッと木を削った。
それは、俺なりの決意の形でもあった。
初めて起こる前の出来事で、印をつけた。
2024年1月1日16時10分
俺の身体と心が、ぐらぐらと揺さぶられた。
時間にしてみれば1分もないことだったのかもしれない。
けれど、自分にとってはとんでもなく長い時間で、ただただ机の中で「まだ終わらない、いつ終わるのか」と震えるしかなかった。
激しい揺れの中で、机の横にある洋服箪笥がその重みを背中に何度も主張してきた。
背の高い本棚は落ち着きなく、グラグラとダンスを踊り、とうとう倒れてきて、家の壁紙に突き刺さったのが見えた。
本棚の中の本は、一気に床に吐き散らかされた。
揺れがおさまって少し経ってから、恐る恐る机の中から這い出る。
心臓はまだバクバクと危険信号を鳴らしている。
なにかの下敷きになったのかスプレー缶のシューというマヌケな音が部屋中に響いていた。
足元は本や物で散らかっているし、本棚の下敷きになった椅子は足が折れて木の繊維が剥き出しになっている。
異様な新年の始まりだった。
「津波です、逃げてください!」テレビが叫んでいる。
俺にはどこの地域の人に向かって逃げろと言ってるのかまるで分からなくて、神経を研ぎ澄ましてテレビを見つめた。
けれど「今すぐ逃げろ」という情報以外何も入ってこない。
それに、逃げると言ってもどこに?
スマホで警報がなるなら、避難場所の指示も出してくれよ。
今どきそれくらい出来るだろ。
近隣の人が外へ出ていくのを窓越しに見て、初めて避難所に行かなければという気持ちになり、震える足を一歩進めた。
何が必要なのかも分からない。
家の戸締りは?
元栓の確認は?
身一つで、なにもかも放り出して逃げたほうがいいのか?
正解が分からない選択の連続に泣きたくなった。
このままこうしているわけにもいかない。
同じ情報を繰り返すテレビに急かされるように、愛用のリュックサックに服と水と菓子パンと充電器、貴重品を詰め込んで、家を出た。
避難所の学校には、既に人の波が出来ていて「こんな田舎に、こんなに人がいるんだ」と思った。
体育館にパイプ椅子と体操マットとダンボールを並べられるだけ、並べた。
寒さだけはどうしようもなくて、手を擦り合わせて凌ぐほかなかった。
避難所のトイレは一時間もしないうちに流れなくなり、用を足すたびにゴミ袋を使うことになった。
大量のゴミ袋とトイレットペーパーと、流れることの出来なかった便器内の汚物が異臭を放っていた。
「なにかの病気になりそうだ」と思ったけれど、外で用を足すことと天秤にかけて我慢して使うことにした。
一週間ほど経った頃、本社の人がこちらに来るという。
俺も含めてここに住んでいる者は皆、会社どころじゃなかったため、数名で動いている支社の事務所は、ぐちゃぐちゃのまま放置されていた。
本社も似たような状況かと思っていたが、実のところなんの問題もなく稼働しているらしい。
わざわざこの地に来た本社の人から、水と食料の支援と「支社は閉鎖するから、本社に来るか辞めるか選べ」というご通達をいただいた。
会社の「選択肢をあげている」という態度に、無性に腹が立った。
くそったれ。
心の中で悪態をついて、会社を辞めた。
となると、今度は彼女とのことをそのままにしておけない。
先の見えない不安に、巻き込むわけにはいかない。
彼女も俺のこの状態に不安があったのか、家族に反対されたのか分からない。
数分の電話で別れることになった。
ーそれから半年経った今。
「お前、強かったんやな」
しばらく訪れることの出来なかった場所に、ようやく訪れることが出来た。
もしかしたらなくなっているかもしれないと思っていた俺の木は、変わらずその場所にそびえたっていた。
木を撫でてやると、喜ぶかのように葉がサワリと揺れた。
そのあたりに落ちていた石を拾い上げて、新しく印を刻もうとした時、1番上に刻まれた決意の印が目に入った。
この印は上書きした方がいいのか?
少し考えて、そのままにしておくことにした。
俺がこの印を、つらい印にならないように、する。
今、そう決めた。
「ここに居てくれて、ありがとう」
ガリッ
木に感謝を込めて、新しく印を刻む。
そして今までの印を眺めた。
少し薄くなっている印も、ある。
いつ付けたのか、何があったのか覚えている印もあれば忘れてしまった印もある。
ただ感情が強い時の線ほど、残っているものなのだなと思った。
「じいちゃん、印でいっぱいになるのは、まだまだ先かもしれんわ」
木の成長とともに、印の刻める場所が増えてきた。
俺に「印でいっぱいに出来るなら、してみせろよ」という挑戦状を叩きつけてきている。
この木の度量を見せつけられて、俺も負けていられない。
「俺、もっともっとすごなるから、よう見とけよ!」
捨て台詞のような言葉を残して、俺はその場を後にした。
この物語はフィクションです。
実在の人物や団体などとは関係ありません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?