情報化社会で大切なこと(2)
昨日の話でいうと情報学というものを再考する必要があるな、とちょっと思った。一応、私も情報工学修士だ。データサイエンティストと言ってもよいだろう。多分。
数学が不得意だった。
情報学は数学が不得意な私にも優しかった。(易しいではない、念のため)
大学の講義で未だにすごく印象に残っているのが、「1000人が知っている情報と、5人だけが知っている情報は同じ1つの情報を扱っていいのだろうか」という教授の問。それを数学的に扱うと・・・と話が続くのだが、他にも情報に「正しいかどうか」「希少かどうか」の価値観があるよね、少し考えただけでも。希少さと正しさがなかなか両立しない価値判断基準なのかもだけど。うん。これについてはまた考えよう。閑話休題。
私が情報工学を学んでいた時代から、隔世の感がある。ビックデータをいかに扱うか、いかに解析して欲しい解にたどり着くか、そのための解析手法や統計分析、機械学習など、もうたくさんあって何がなんだか、という感じがする。
でも本当にすべての情報が記録できるのだろうか。
できない。
世の中は2元論ではできていないから。(多分)
まずは身体知はおそらく難しい。これから技術が進んだとしても人間の体が記憶する技能みたいなものは難しいのではないか、と思う。以前、暗黙知やオントロジみたいな研究が流行ったが、うまくいかなかった、と記憶している。職人の技術や技能を録音・録画はできる。でもその人間の内部感覚みたいなものは記録しようがないんじゃないか、と思う。
例えば、昔、日本人は右足と右手を同時に出す歩き方をしていたらしい。(友達にその話をしたら嘘だ、と言うんだけど、嘘じゃない)
ナンバ歩き、という。一昔前はナンバ歩きでネットで調べてもほとんど情報がなかったが、今は結構出てくるのね。今は日本の古武道に少しその動きの片鱗が残っているだけ。どうも明治維新でかなり多くの日本文化が毀損され、近代軍隊訓練が入ってきて、急激にナンバ歩きが廃れた、ということらしい。確かに「肩で風を切る」という言葉があるが、軍隊歩きでは肩で風は切れない。右肩と右足を同時に出さないと空気を切るような素早い身体の動きは再現できないのだ。ナンバ歩きと同様、昔の飛脚と呼ばれる人たちはかなりの特殊技術の職業で、走行法を訓練して弟子入りするようなものだった(らしい)。失われてしまったので、本当かどうかもわからない。
そういう話や技術は、データ化できるものなのだろうか?廃れゆく技術は何らかの形でレコーディングできるものなのだろうか?おそらく継承者がいないと無理なのではないだろうか?
草木染、という分野がある。
人間国宝の志村ふくみ先生とかがされていらっしゃる分野で、地域の藍染工房など見学に行ったのだが、「これ、ビッグデータでは無理だな」と思う。酒造の職人の「勘」ともいえる技術をビックデータの解析でなんとかしてしまった企業もあることはあるのだが、多くの職人技は人から人への継承がないと難しいのではないかと思う。
手から手、人から人への、”想い”みたいなものは、情報化できないのではないか。そんな風に個人的に考えている。
言語情報は情報化しやすい。でも身体知、暗黙知は言語化に適さないため今の情報化社会とは馴染みがよくない。