『蛇の道』にみる黒沢清。
黒沢清監督が1998年の監督作品『蛇の道』をセルフリメイク。
プロットとコンセプトをそのままにして演者と物語の舞台を日本からフランスへ移しました。
先ず。
黒沢清作品を映画館で見れるという奇跡。
しかも全国のシネコンで「蛇の道」が上映されているのですから
感慨深いですね。
映画作品は見る環境とコンディションで余韻に浸れるかどうかが肝になってくるので
今回の「蛇の道」を鑑賞する環境がシネコンではなくめちゃくちゃ勝手な脳内転換をさせてもらうと
2000年代にあった新宿ジョイシネマや横浜日劇のような待合いも薄暗いムードの場で作品を鑑賞し、冷たい小雨が降る中、決して景観が良いとは言えないかつての歌舞伎町か黄金町の高架沿いをトボトボと「蛇の道」のことを考えながら歩いて帰る。
というのが理想ではあります。
昨今のアクセスも便利になったシネコンで映画を見終わり
映画館を抜けると直ぐにショッピングモールにぶつかり、買い物をするカップルやファミリーに埋もれるというのは
些かムードの欠片もない映画体験は余り好ましくはない。
さて「蛇の道」の中身に話を移しますが
物語の展開もセリフ回しも八割がたオリジナルのままというのが実に実験的で興味深い。
黒沢清がインタビューにて話していたのは
「フランスを舞台に自分の作品を撮り直してみないか?」とオーダーを受けたときに
真っ先に思い浮かんだのが「蛇の道」ということ。
復讐はどの年代、どの国で作っても普遍的ということ。
成程。確かに本作の物語は2024年の新作として見ても物語上の違和はない。
そして物語の軸となる主演を哀川翔から柴咲コウへ変更したことで物語の主題がより明確になった。
紅一点。により女性と男性の対比が明確となり”誰のための復讐か?”というテーマがより見やすくなった。
そして映画史においても女優が主軸になる作品が2000年以降数多と作られていて、強い女性が物語を転がしても許容できる社会になってきているのでしょう。
本作の面白い所は、例により黒沢節さく裂の場面。
・部屋を掃除するルンバ
・ビデオ通話越しの夫婦の会話
・柴咲を微かに捉える上下のショット
・くたびれた西島秀俊
奇しくも本作で面白味を感じるのはオリジナルにはないシークエンスやアイテム達である。
しかし本作は手放しで絶賛できる作品かというと個人的には、そうではない。
黒沢清作品はいつも要所要所で時代をハックしてパックしていた。
『CURE』(97)では催眠、宗教。
『回路』(00)ではインターネット、引きこもり、自殺。
『アカルイミライ』(03)では就職氷河期、モノトリアム。
時勢を適切に取り込みパックする。そして少し先や暗闇の一端を見せて仕組みをハックする。
だからこそこれらの黒沢作品は何度でも見返せる。それはその時代のノスタルジーだけでなく
後世から見返した際にいかにハック出来ていたかを知れるから、見返す度に驚きが増すのである。
1998年の「蛇の道」においても裏側に本当にあったかも知れない恐ろしい世界、闇の一端を観客側に提示する。
黒沢はいつもハッキリと提示しない。
ぼんやりと伝える。全容を説明しない。
だからこそ得体の知れない恐怖がそこにある。
1998年はレンタルビデオ市場が全盛期である。そしてメジャーなビデオショップでは手に入らない18禁モノ、裏流出モノ、殺〇ビデオ、死〇ビデオとかキナ臭い噂が雑誌や人伝で伝わっていたのも事実で。
「蛇の道」に描かれるのはそんな闇の世界の一端でもある。
”呪いのビデオテープ”を扱った「リング」も奇しくも1998年公開なのでやはり時代感とマッチしたテーマだったのでしょう。
しかし今回のリメイク版「蛇の道」が一番いただけない点がパックもハックもないという事に尽きる。
各個人がスマホを持ち、SNSで情報が真偽を問わずあっと言う間に広がるこの世の中において裏ビデオ的な煽りがやはりチープに思える。
見てはいけない恐怖がP2Pではなくドメスティックなモニターで1on1というのが時代錯誤過ぎる。