神藤太志vs岡田明広 1994年1月17日 「後楽園ホールのベランダより~追憶の90年代ボクシング Vol.22」
とうとうこの試合について書く時がやってきてしまった。
90年代に後楽園ホールで目撃した激闘について綴る本シリーズにおいて、この試合はどうしたって外すことはできない。
日本フライ級タイトルマッチ。神藤太志(笹崎)vs岡田明広(花形)。
「90年代、後楽園で観て印象深い試合は?」と誰かに問われれば、僕はまずこの試合をあげてきた。僕だけではなく、90年代の国内ボクシングの名勝負として、神藤vs岡田をあげる人は数多い。
どこまでも激しく、時に正視に堪えぬほどに凄惨、それでいて胸を打つような崇高さ、美しさをも感じさせる。この試合ほど、ボクシングという競技の魅力、魔力がみっちりと詰まりまくった試合は少ない。
こんな試合をまた観たいと思う気持ちと、もう観たくないという気持ちの両方が、いまでも胸の中で渦巻いている。これからもそうだろう。そんな一戦だ。
僕にとっては94年の観戦初めがこの興行だった。年の初めからこんな神試合にぶつかるとは。本来なら喜ぶべきなのだろうが。その後の経緯も含めて考えると複雑な思いになってしまう。
神藤太志は、当時の僕にとっては、ホールを主戦場とするボクサーでは、葛西裕一、川島郭志に次ぐお気に入りのボクサーだった。葛西、川島が世界獲りへと乗り出す94年は、神藤、竹原慎二、そして坂本博之などが後楽園ホールの顏的な存在になるだろうと思っていた。
93年の神藤はなんと5戦を戦い、全KO勝ち。前戦は11月22日の浅沼光戦なので、2か月も経たない超ハイペースぶりだ。試合過多とみるべきか、それとも勢いに乗っているとみるべきか。ここまで16勝(8KO)3敗。21歳。
対して、岡田明広の試合はほとんど観たことがなく、生観戦は前年93年2月の平野公夫戦のみ。この時の岡田は、Jフライから上がってきた平野の前進と手数に対応できず押し込まれ、判定負けを喫していた。その後、A級トーナメントに出場し、決勝まで進むも、結果は引き分け敗者扱い。これらの印象から、「神藤の防衛は堅い」と思っていたのだが…。岡田の戦績はこの時点で、10勝(5KO)3敗3分。23歳。
さて、ここからはいつものように当時の記憶、そして動画を見返した印象で、試合を再構成してみたい。
初回。左ジャブを飛ばして左旋回を続ける神藤。リラックスした動きで調子は良さそうだ。しかし、実況は神藤が一度目の計量で150gオーバーしていたことを伝えている。動きからはよくわからないが、果たしてその影響はあるのかないのか。そう言われると、いつもに比べると少しハンドスピードに欠ける気もする。30秒過ぎ、一瞬距離が詰まったところで、岡田が右を繰り出すとこれがクリーンヒット、フォローの左もヒットする。岡田のパンチはよく伸びている。スピードもある。前年には、どこか自信なさげにも映った岡田のボクシングだが、同じ人間とは思えないほどの変わりようだ。気を良くした岡田は距離を詰め左フックのダブル。これはクリーンヒットしなかったが、一気に両者の動きがヒートアップ。神藤は素早いフットワークとボディワークで、岡田を翻弄しにかかる。その動きに場内は沸くが、岡田は神藤の大きな動き終わりにコンパクトな連打を軽くではあるがヒットさせている。神藤の動きは確かに華麗だが、ガードが低い。岡田は速射砲のように繰り出される神藤のジャブを体を振ってかわし、左フックへとつなげる。これが見た目にもいかにも強烈そうだ。神藤は変幻自在というような動きをみせるものの、やはりガードが低く、特に左の打ち終わりにガードが下がる。そこに岡田の右強打がいくつもまともに入っている。場内は両者への大歓声が飛び交っている。初回からとんでもない盛り上がりだ。2分30秒過ぎ、打ち合いのなかで岡田の右ストレートあら左フックの返しがまともにヒット。神藤がマットに落ちる。神藤は立ち上がり、試合が再開されると、岡田は襲い掛かるように連打をふるうが、ここは神藤にカウンターでとめられる。打ち合いのなかでゴング。
波乱のスタートとなった初回。でも、ベランダ席で「この展開も十分ありえるな」と僕は思っていた。なんせ9月の天翔戦も互いに7度もダウンするという戦いだったし、最近の自身の目の良さ、反応の良さを過信したような神藤のボクシングを考えれば、そう不思議ではないと。「むしろ神藤はここから」という思いだったのだが…。
2回。神藤は初回よりガードをあげ、体を振るなど、ディフェンスを意識した動き。しかし、会場ではあまり感じていなかったのだが、動画であらためて見返すと、この日の神藤はパンチのスピード、パワーがあまり感じられないように思える。翻って、岡田のパンチがすごくパワフルに感じる。それもあってか、岡田は自信満々で前進できているようにも思える。1分過ぎに岡田が目の上をカット。チェックが入る。再開後、息を吹き返したように神藤がスピーディーな連打を顔面を中心にまとめる。その合間を縫うように岡田もパンチを返す。打ち終わりの手の位置が若干低い神藤に、何発かがヒットする。この回の神藤はしかし、以前のいい時の彼の持ち味である、細かい速射砲のような連打がよく出ている。いくつかが岡田の顔面をとらえ、岡田がバランスを崩す場面も。神藤は手ごたえをつかんだか、右腕を軽く上に掲げながら連打をふるっていく。巻き起こる神藤コールのなかでゴング。この回は神藤が抑えたか。
3回。神藤はここから一気にペースを上げるかと思いきや、案外、前へは出ない。前のラウンドで打ち疲れがあるのか。現場では何も感じなかったが、あらためて動画で見返すと、この日の神藤はスタミナに不安があるのだろうか?と思うような戦いぶりだ。業を煮やしたように、岡田が前に出る。神藤は前のラウンドのような細かい連打で迎え撃つ。この打ち合いは神藤の方に分がありそうだ。神藤は自信を深めたか、両手をだらりと降ろして誘うような素振りもみせる。岡田は出血も激しい。細かい被弾は覚悟の上で強引に前へ出て、左右のフックをふるう。中盤、近い距離で神藤が連打を何度かまとめるが、距離が詰まっている分、その打ち終わり、もしくは同時に差し込まれる岡田のパンチも当たりだす。ダメージだけで言えば、神藤の方が深そうにみえる。神藤の足が止まりがちになる。距離が近い割に神藤のガードが低いので、さらに岡田のパンチが当たる。このラウンドは岡田がとっただろう。
4回。岡田が軽快なフットワークで神藤を軸に回りつつジャブを突く。本来なら神藤の方がやらなければいけない動きにも思えるが、神藤は足を止め、それをみている。岡田は右ボディで距離をつめると、右ストレートを神藤の顔面に返す。これがヒットし、神藤は大きくのけぞる。チャンスと見た岡田がラッシュ。神藤は細かいパンチで一旦は岡田の前進を止めるが、パンチの力感がいまひとつのためか、岡田は委細気にせず距離をつめて強烈なストレートパンチを続けてヒット。神藤は体を入れ替えるなどして、連打をつなげて挽回をはかるが、ここでもガードが低く、岡田のパンチをまともに浴びる場面が続く。それでも近距離の打ち合いのなかで神藤のインサイドから放たれるコンパクトなコンビネーションもよく当たっている。一進一退の猛烈な打ち合いに、場内は大歓声だ。ベランダで観戦していた僕も、「これは大変な試合になったな…」と呆然としつつ、歓声の海に溺れる快感も同時に味わっていた。しかし、この日の岡田の闘志というか、充実ぶりはどうだろうか。押しているのは岡田だが、それでも神藤の連打を幾度も浴びている。にもかかわらず万振りの前進を続ける姿には、一種の狂気すら感じるほどだ。その気迫がラウンド中盤の打ち合いで神藤へと傾くかに思えた流れを、再び自身の元に引き戻していく。あまりに濃密だったこのラウンド。最終的に抑えたのは岡田にみえる。
それにしても…、前戦の浅沼戦でみせた目の良さはどこへいってしまったんだろう…。というのが、インターバル中に思っていたことだった。こんなにまともにパンチを浴びる選手じゃなかったような…、いや、天翔戦でもそうだったか、などなど。
5回。激闘だった4回からうってかわって、このラウンドは中間距離でジャブ、ワンツーを交換する静かな立ち上がりだ。再び動きが出始めるのは、岡田が前進を強めた1分すぎから。距離がつまり再び岡田のパンチが当たり出す。神藤はガードも低いが、反応自体が鈍いようにもみえる。しかし、このままジリ貧になりたくない神藤は踏ん張り、パンチをもらいつつも、よくリターンを当てている。試合も中盤に入り、これ以上ポイントをロスするわけにはいかない。しかし、このラウンドもポイントを振り分けるなら、よりダメージを与えたと思われる岡田の方だろう。
6回。岡田は神藤のまわりをサークリング。ジャブを突きながら機会を伺う。本来ならこの動きは神藤がしなければいけないように思うが、神藤の動きは鈍くも感じる。ここまで打たれすぎたせいか、それとも一度目の計量に失敗したことからの推測ではあるが、もともと体調が万全ではなかったのか…。岡田はその後じりじりと前進。神藤からパンチがあまり出てこないとみるや、ストレート系のパンチをまとめる。神藤の頭が何度もはねあがる。岡田が神藤をロープにつめる。神藤にはそこから抜け出す足も、もうないようにみえる。ここからは互いにほぼ足を止めての打ち合いに突入する。しかし、足が動なくなっている神藤にはこの展開は逆にありがたいようで、神藤のパンチも当たりだす。岡田も負けじと打ち返し、我慢比べの様相に。この展開を抜け出したのはやはり岡田。神藤は右ストレートからフォローのパンチを直撃され、よろよろと後退。前進してパンチをふるう岡田。しかし、神藤は踏ん張りをみせ細かいパンチで逆襲。アナウンサーの「どちらもパンチを出せば当たります、この試合」という言葉通り、打ちつ打たれつの状況がゴングまで続く。神藤が驚異的な粘りを見せているものの、岡田のラウンド。
7回。この試合を通して感じることだが、神藤の膝のバネがなく、いわゆる突っ立つような体勢になっているため、パンチに体重がいまひとつ乗っていない。岡田の飽くなき前進は、それに助けられているように思える。この回も神藤は細かいパンチを打っているが、岡田はガードを固めつつ易々と距離を詰め、逆に上から下にコンビネーションをまとめる。1分すぎ。思い出したように神藤は足を使い始める。細かく打ってはサイドへ動きを繰り返すとリズムが若干変わり始める。出血のせいかそれとも打ち疲れか、神藤の動きに岡田が後手に回る。ここにきて息を吹き返したかのような神藤に、場内のボルテージもあがる。僕にしてもまだ神藤の逆転を信じていた。岡田の出血もかなり酷くなっている。合間に岡田も右ストレートが幾度か神藤の頭を跳ね上げるも、このラウンドは神藤がとったと言ってよいかと思う。
8回。開始当初はお互いにサークリングしているが、すぐに近い距離での打ち合いに突入。岡田の土俵のようだが、セコンドから「動け、動け」の声が飛び、岡田は思い出したようにサークリング。岡田の方にも相当のダメージと疲労がありそうだ。しかし、右が当たるのをきっかけに、岡田は再び距離をつめにかかる。しかし、ここでも神藤は細かい連打を返す。さらに岡田が打ち返す。まさに死闘の様相だ。一進一退の展開から抜け出したのはやはり岡田。右ストレートから左フックの返しが再三、神藤の顔面をとらえる。さらに渾身の右ストレートが大きく神藤の顔面を跳ね上げ、神藤はたまらず後方によろける。幾度目かのピンチに場内からは神藤コール。神藤は反撃を試みるが、同時に打ち出した岡田の左右のストレートが直撃。またもや神藤の頭が大きく揺れる。追撃の大きな右スイングもまともにヒット。それでも神藤は手を出し続けるが、2分40秒あたり、右ストレートを打ち出そうとした神藤をドンピシャのタイミングで、岡田の右ストレートがカウンターとなってとらえる。そのままフォローの左フック、右ストレートが無防備な神藤の顔面につづけさまに叩き込まれる。神藤は横倒しにダウン。どうみても、これで終わり、というような倒れ方だ。右手を掲げてニュートラルへと向かう岡田は、勝利を確信している様子だ。しかし、驚いたことに神藤は立ち上がってきた。しかし、その体を支えることができず、ロープにゆらりとよりかかる。「もうここまでか」と誰しもが思っただろうが、なんと内田レフリーは再開を宣告…。
正直、その瞬間、僕ははっきりと恐怖したのを覚えている。
「いや、絶対続けさせたらダメだろ!!」
まだゆらゆらとしている神藤に、岡田が猛然と襲い掛かる。神藤はブロックの体勢をとるが、岡田のパンチに、もう力の残っていない神藤のブロックはあっさりと弾き飛ばされる。そして、むき出しになったその顔面に、岡田の渾身のストレートが2発、3発と吸い込まれる。神藤が再び横倒しに倒れると同時にゴング。今度こそ即ストップ!と思いきや、なんと、内田レフリーはカウントを数え始めるではないか。そして、神藤も驚いたことに(何回、驚いてんだかw)、あおれほどの痛烈なダウンから立ち上がってきた。しかし、その顔は鮮血で濡れそぼり、幽鬼のごとくだ。
さすがに内田レフリーは、今度はカウントを途中で終了し、神藤を抱きとめ、ようやく試合終了を宣告した。時に8ラウンド3分10秒。
今回、久しぶりに試合の映像を見返してみたが、熱戦、名勝負という以上に、「凄惨」という印象が強い試合だった。
初回の神藤のダウンに始まり、試合は都合3度のダウンを奪った岡田の一方的な内容。神藤はいくつかのラウンドを抑えたものの、名勝負と呼ぶにはシーソーゲーム的な要素はほとんどない。
それでも熱戦、名勝負として印象に残ることになったのは、神藤には、当時、絵に描いたような天翔戦の逆転劇が記憶に新しかったため、いくら神藤が追い詰められようとも、逆転の期待を持ちつつ観ていられたからではないか思う。
実際、僕も、神藤の敗色が濃くなってきた中盤以降でさえ、チャンスさえ掴めば、また一気に逆転勝ちする姿が見られるのではないかと思っていた。
そう思い込ませるほどの「輝き」が、当時の神藤にはあった。
その期待感抜きで虚心で試合を眺めれば、これはタイトル初挑戦に燃える岡田が鬼神のごとく攻めに攻め抜いて、その勢いのままに新進気鋭の若き王者を一方的に打ち砕いたという試合だ。
とにかく今見返しても、この日の岡田の高い集中力、そして旺盛なファイティング·スピリットは恐ろしいばかりだ。神藤も持ち前の連打で逆転に向かいそうな場面をいくつか作ったが、それを毎回跳ね返し得たのは、技術というより、狂気さえ感じさせる凄まじい気力、気合ではなかったか。ことその面においては、この日の岡田を上回る闘志をみせたボクサーを、僕はほとんど知らない。
この一年後に引退することになる彼の、これが間違いなくベスト·バウトだろう。
持てるポテンシャルを最大限、相手に叩きつけるように発揮した岡田に比べて、神藤の方は、逆に持てるものの一部分しか見せることができなかった、という印象だ。
場面ごとには、彼の持ち味である豊かなスピード、速射砲のような連打などセンスあふれる動きをみせてはいたが、この日の神藤は最初からいまひとつスピードに欠けており、パンチにもいい時の力感は感じなかった。調整ミスがあったのか、その理由についてはわからないが。もちろん、そうさせなかった岡田をほめるべきであるのは当然としても。
また、日本タイトル獲得後の神藤は、一方で「ボクシングが以前より粗くなった」とも言われていた。一発で局面を変えようとして力任せのボクシングに傾く場面が増え、ガードは低くなり、被弾が増えた。
しかし、それらも完成途上にある若いプロスペクトにとっては、さらなる進歩に向けての課題として、これからいくらでも乗り越えられる類のものだったはずだ。
だが試合後、幾日かあとで、神藤は頭痛を訴え、検査の結果、脳内出血が見つかり、結局、この試合を最後に21歳という若さで現役を引退した。彼がリングでその才能を開花させる機会は永遠になくなってしまった。
選手としてのピーク、完成を迎える前に、リングを去らざるを得なかった神藤は、まさに「未完の大器」というにふさわしい存在だ。そんな彼への哀惜の念が、この試合を名勝負として昇華させた理由のひとつではないかと思う。
試合後、覚えているシーンがある。
ベランダで観ていた僕の横には、テレビカメラがあった。岡田のインタビューも終わり、すべての撮影を終えたカメラマンがファインダーから目を上げると、誰にともなく「すげえ試合だったな…」と、一言ため息まじりにもらしたのだ。
幾多の試合を目にしてきただろうカメラマンをして、思わずそんな言葉を口にさせてしまう。これは確かにそんな試合だった。
すごい試合だった。