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僕の90年代はBlankey Jet Cityで始まった。SWEET 90’s BLUES Vol.1 Blankey Jet City『MOTHER』
■Blankey Jet City『MOTHER』 作詞:作曲:浅井健一 発売:1991年4月12日
90年8月。約2年間の米国での学生生活を終えて、地元に戻らず、そのまま東京に住み始めた。
地元で就職することはまるで考えていなかった。「そんなことをしたら人生終わり」くらいに思っていた。
とりあえずちょうど東京に単身赴任中だった父親の公務員住宅で居候生活を始めた。二部屋のみの古びた官舎で、浴槽はあったがシャワーさえついていなかった。でも贅沢はいっていられない。
当面の住む場所は確保できた。次は就職先を探さなければいけない。希望はいわゆる国際交流団体。どこかのNGOになんとかもぐり込むことができないだろうか、と考えていた。
ツテやコネは何もなかった。
ある団体が作っていた東京のNGOを網羅した発行物を入手して、興味を引かれた団体に片っ端から電話した。「職員の募集はありませんか?」と聞くのである。無手勝流の電凸。しかし、通常その手の団体はほぼ小規模、少人数でまわしている。こちらは職歴すらまったくない23歳。今から思えば、なんと行き当たりばったりの行動をしていたものか…と苦笑する。
当然「現在募集はありません」と言われることが多かったが、それでも面接までしてくれるところもいくつかあった。けれど、なかなか採用までには至らない。いくつかの面接が不調に終わってもめげずに電話作戦を続けたが、こんな突撃スタイルで果たして働き先が見つかるものか。成果のない数週間を過ごすうちに、さすがに不安も募り始めた。
90年といえばバブルが弾ける前年。まだまだこの好景気が続くと思われていた時期だ。分厚い求人誌を片手に民間企業へも手を伸ばした。国際交流団体と並んで興味を持っていた出版関係に絞った。
こちらはいとも簡単に内定が出た。ひとつは主に官公庁を主な顧客として報告書の翻訳、出版などを請け負う会社。もうひとつは国際協力、開発に関する月刊誌を発行する会社だった。
前者の社長は面接中「大変な時代になったものだ。人を雇いたいのになかなか来てくれない」と人出不足を嘆いていた。数年後に「就職氷河期」が到来することなど想像もできない超売り手市場時代。「ところで君はいつから来れるの」的に言われたのだが、面接の翌日、断りの電話を入れた。
後者の、国際協力、開発に関する月刊誌を発行する会社の社長であり、編集長でもある人物の穏やかかつ強い意志を感じさせる人柄にはとても好感を持った。雑然とした編集部の雰囲気にも逆に惹かれた。「しばらくは退屈な仕事が続くかもしれないが、来てくれるなら一人前の編集者になるように育てるから」と言われ、「お願いします!」という言葉が口のすぐ手前まで出かかった。
国際協力に関する出版ではなく、自分がやりたいのは国際協力の現場で働くことなのだと思い直して、これも結局辞退した。しかし、この決断は心のなかに刺さった小さなトゲとして、その後も長く残り続けることになる。
その会社はその分野で着実に業績を伸ばし、業界で確固とした地位を築いていった。
時々「あの時『やります。お願いします』と言っていたら、自分はどうなっていたのだろう?」と考えることがあった。そして、後年、僕をある方向へと導くことになるだけれど、ここではそれに触れない。
90年8月、僕はとにかくそんな先の見えない日々を過ごしていた。
さて、ネットで調べると8月11日。そんな暗中模索の日々のど真ん中、僕は深夜番組を観るために14インチの小さなテレビ画面の前にいた。同じ部屋で父親が寝ているので、耳にイヤホンをつっこんでいる。観ていたのは、『三宅裕司のいかすバンド天国』、通称『イカ天』。あらためて説明する必要もないと思うが、80年代後半から90年代前半にかけて巻き起こった“バンド・ブーム”の象徴ともいえる人気テレビ番組だ。
この番組の過熱人気ぶりはネットなど存在しない時代だったにもかかわらず、遠くアメリカにいた僕にまで届くほどであった。89年の9月から12月にかけてはニュージャージー州の大学で、週に二度ほど授業でマンハッタンにもでかけていたので、ミッドタウンの紀伊國屋書店で宝島等の雑誌を読むのを楽しみしていたが、それらの雑誌には『イカ天』なる番組に登場するバンドたちが数多く掲載されていた。
しかし、ネットも何もない時代。彼らが一体どんな音を鳴らしているのか確かめることはできない。写真や文章から想像をたくましくするしか方法がなかった。
ただ、他の日本人生徒から『夜ヒット』等を録画したVHSを見せてもらったり、日本で話題の曲を集めたテープを聴かせてもらうことは何度かあった。そんななかで、たまの『さよなら人類』の演奏を観て衝撃を受けたりもしていた。
日本に戻ってきての楽しみのひとつは、「ようやく『イカ天』を観ることができる」だった。
話を戻して、8月11日放送回である。
わくわくしつつ見始めた番組の冒頭、「今週のキング」として紹介されたのが、あの「ブランキー・ジェット・シティ」だった。楽器を持たずとも、並び立ったその姿だけですでに「雰囲気があるな」と思った。演奏を聴くのが楽しみだったが、それは番組最後までおあずけらしい。
次々とバンドの演奏が続き、キングへのチャレンジャーは「有機生命体」に決まった。SMの女王のような革のボンテージ衣装に身を包んだボーカル、マリリンにはカリスマ性があり、バンドの音も曲も面白かった。「これはレベルが高い」力量的には10組のバンドのなかで明らかに群を抜いていた。
そして、ついにキングの演奏だ。MCの三宅裕司が「彼女の色気に対抗する君たちの武器は?」と尋ねると、ボーカルが「うーん」と一瞬つまってから「正義!」と答えてスタジオは爆笑に包まれた。今にして思うと、この頃からすでに浅井健一は浅井健一として完成していたと言うしかない。
曲はのちに彼らのデビューアルバムのラストを飾る『MOTHER』。
強烈だった。
圧倒的な緊張感と轟音。14インチの画面でイヤホンで聴いているのだから轟音のわけがないのだけど、その時はそう感じた。画面を突き抜けて刺さってくるものがあったのだろうと思う。
3分間、ほぼ呆然として画面を見つめた。
そして、演奏が終わる頃には、すでに彼らの虜になっていた。
ボーカルは上半身裸に革のパンツ、腕にはタトゥーというルックスだが、サスペンダーが少年ぽさを醸し出している。グレッチの白いギターにも少年の写真が飾られているのがわかる。甘いマスクでロカビリーでも歌い出しそうな雰囲気があるが、リズム隊の二人は対照的にハードなロック野郎。ルックス的にも、その甘辛なバランスが絶妙に感じた。
音自体はもう少し軽い感じを予想していたが(この時点の僕は前週の放送で演奏された『Cat Was Dead』を聴いていない)、流れてきたのは激重のロック・サウンド。もっとスピード感のあるロカビリーっぽいものを予想していたので、完全に裏切られた。
時代的には「グランジ」という言葉があらわれる前だが、彼らがこの日鳴らしていた音像は、ジャンルは違えどハードネスではグランジのそれに近かったと思う。ロカビリーの趣味性のようなものは感じられず、あくまで「今の音」になっていることにも好感を持った。
歌詞の内容にも圧倒された。歌い出しからして「ピストル突きつけられ/両手をしばられた/ベトナムの少年」である。「できることなら母さんに会って/愛しているとそう伝えてくれ」なんて歌詞に、僕はそれまでの人生で出会ったことがなかった。
審査の結果は僅差でブランキー。この日の審査員のひとり、作詞家の森雪之丞は有機生命体を支持していた。「知性と肉体がうまく融合しているものが好き」というようなことを語っていた記憶があるが、「その意見もわかるな」と感じた。
ブランキーが出演した5週では、この週が一番「あぶなかった」のでは。有機生命体は十分以上にいいバンドだったと思う。あとから知ったのだが、この日彼らが演奏した曲の作詞は大槻ケンヂが担当するなど、アマチュアというよりすでにセミプロとして活動していたバンドらしい。
一気にブランキーに魅了された僕だったが、残念ながら翌週はお盆の時期ということで郷里に帰省したので未視聴。ちなみに演奏したのは彼らのメジャー・デビューシングルとなる『不良少年のうた』だった。
ようやく次に観られたのは8月も下旬の25日。彼らの出演4週目にあたる。演目は『僕の心を取り戻すために』。演奏収録日に浅井が風邪を引いてしまい、声はがらがらで歌詞も聴き取れない部分が多かった。正直、歌にはまったくなっていなかった。
にもかかわらず、「それは関係ないです」という審査員の田中一郎の言葉通り、圧倒的な支持で、ブランキーはこの週も勝ち抜けた。『僕の心を~』は初期ブランキーの代表曲のひとつであり、ライブでも定番となる人気曲。僕も同様に「声のコンディションがどうこうではなく、とにかくモノが違いすぎるよなあ」と思っていた。
ロカビリー度数高めの楽曲なのだが、ロカビリーやサイコビリー的なスピード感、疾走感と、ベース照井とドラム中村によるリズム隊の重心の低いビートがからみ合って、ブランキー独自のタフなグルーヴが全編を通してうなりをあげる。まるで荒野を疾走する野生馬をみるがごとしだ。『MOTHER』とは違った側面を見せつけられ、またもやぶん殴られたような衝撃を受けた。
ところで、僕の弟は当時高円寺のあるライブハウスで働いていたのだが、そこでイカ天に出る前のブランキーのライブを何度か観たことがあるという。ドラムの中村達也がその箱をなかば根城的に使っていたから、というのは弟からの情報だ。「結成してすぐくらいだったと思うけど、その時から凄かったよ」などと言うので、心底うらやましかった。「イカ天に出なくても成功できるバンド。出る必要なんかなかったのに」というのは弟の感想だ。
グランドイカ天キングを賭けた5週目も当然、リアルタイムで観た。この頃になると、ブランキーの勝利を疑う者はほとんどいなかったのではないだろうか。僕も「一体どんな曲をやってくれるのだろう?」という興味しかない。
演奏曲は『狂った朝日』。当時聴いた3曲のなかでこの曲の印象が最も強かった。曲の後半で暴れまくる中村達也のドラムが強烈なナンバー。しかし、中村はじめ3人の強靱なアンサンブルに乗るのは「もしも僕がこの世界に生まれてこなかったなら 僕のこの白いギターは一体誰が弾いていたんだろう」とか「もっともっと狂った朝日を僕に 笑い顔の昔の家族の写真」などという繊細な歌詞で、そのギャップが彼らの最大の魅力のように思われた。
結果は当然のごとくブランキーが勝ち抜き、見事グランドイカ天キングを獲得。しかし、それはつまり彼らの翌週の出演がなくなるということだった。もう彼らの演奏を聴けないのかと思うと軽く絶望的な気分になるくらいには、すでに彼らの虜になっていた。
テレビのスイッチを切って、ふと我に返れば、就職先が相変わらず決まっていない、ちゅうぶらりん状態の自分の間抜けな顔が、テレビの画面に反射していた。
8月は終わり、すでに9月に入っていた。日本に帰って東京に住み始めて一ヶ月が経とうとしていた。
行き先は真っ暗だけど、それでも日本には、東京にはこんなカッコイイバンドがいて、これから本格的な活動を始めようとしている。そう考えると、心のすみが少し明るくなる気もした。
次の週末には、結成間もないブランキーが出演していたという弟が働くライブハウスに、弟がドラムを叩いているバンドのライブを観に行く予定になっていた。「ライブハウス」というもの自体、僕はまだ足を踏み入れたことがなかった。
不安は大きかったけれど、希望もまた大きかった。それはつまり僕がまだ若かったということなのだろう。
僕の多少甘くて、かなり苦かった90年代が始まろうとしていた。