1989年秋、シェア·スタジアムでローリング·ストーンズを観た! HOKURIKU TEENAGE BLUE 1980 Vol.31 ローリング·ストーンズ『スティール·ホイールズ』
1989年10月28日
僕はニュージャージー州マジソンという小さな街のとある大学の学生寮にいる。9月からの4か月間、国連について学ぶコースに参加していたのだ。当時の僕は、身の程もわきまえずに、国際機関での就職を夢見ていた。
3部屋が集まった一角には共用のリビングがあり、テレビやラジカセが置かれていた。
ラジカセからはさきほどから、特別番組が流れている。ニューヨーク市、シェイ·スタジアムで今週末に開催されているローリング·ストーンズのコンサートを生中継するのだという。教えてくれたのは、隣の部屋の学生、ジョナサンだ。
僕とジョナサンはラジカセの前に陣取り、開演を待った。
やがて、観客の歓声のなか、ドン!という轟音が鳴り響き、聞き覚えのあるギターのフレーズが耳に飛び込んできた。
『スタート·ミー·アップ』だ!けれど、聞こえてきたのは生演奏ではなくレコード音源だった。
81年リリースの『刺青の男』は、僕が初めてリアル·タイムで聴いたストーンズのアルバムだ。『スタート·ミー·アップ』は、その冒頭を飾るナンバー。数えきれないほどに聴き込んだアルバムだけに、レコード音源とライブ音源の違いくらいは瞬時にわかる。
「…これ、ライブじゃないよね?」と僕。
「いや、現地から生中継とか言ってたけど…」とジョナサン。
2曲目は『ビッチ』、3曲目はニューアルバム『スティール·ホイールズ』から『サッド·サッド·サッド』。
この頃には彼もこれが現地の演奏ではなく、レコード音源だと気づいたようだ。
つまりは、現地で演奏されている曲をリアルタイムで次々に正規の音源で流しているだけだったのだ。ライブをそのまま流すのは権利的に無理なのだろう。ま、たしかにこれも一種の生中継ではあるけれど。。。
しかし、それでも僕らは放送を聴き続けた。『ホンキ―·トンク·ウーマン』『無常の世界』『サティスファクション』etc.、次々と繰り出される名曲の数々に心が躍った。そして、アンコールの『ジャンピン·ジャック·フラッシュ』が終わる頃には、いてもたってもいられない気分になっていた僕は、ジョナサンにこう宣言した。
「俺、明日スタジアムに行ってくる!」
「でも、チケットはソールドアウトだって言ってたぞ」とジョナサン。
81年以来の久々のストーンズの北米ツアーは、ほとんど「事件」扱いで、各地で完売が続いていると報じられていた。
83年リリースの『アンダーカバー』、86年リリースの『ダーティ·ワークス』時もツアーは行われていない。ミックとキースの不仲は修復不能で、ストーンズは早晩解散すると伝えられたこともあった。
ミックはソロ·アルバムを85年、87年に発表し、88年には日本でコンサートを行うこということもあった。僕も名古屋でそのコンサートを観た。これについても、ミックの独立に向けた布石と分析する媒体があったと記憶している。
88年にはキースも負けじとソロ作『トーク·イズ·チープ』を発表。いよいよ長きにわたるストーンズの歴史に幕が下りるのかと思われた矢先、89年に奇跡のカムバック·アルバム『スティール·ホイールズ』がリリースされ、8年ぶりとなるツアーの開催も発表された。
アルバムのセールス、評価も上々で、ストーンズ大復活の狂騒劇が全米で巻き起こっていた。
「もしかしたらダフ屋がいたり、余りチケットを買えたりするかも」という僕に、ジョナサンは「どうだかね…」という視線を向けてきた。そして「チケットが見つかったとしても、きっとすっげえ高いと思うよ」と肩をすくめながら言うのだった。
そして翌日。コンサートは夜だが、昼頃にニューヨーク市内へと向かった記憶がある。
マジソンの町から市内へは電車で一時間ほどだっただろうか。ハドソン川のトンネルをくぐってマンハッタン島へ。そこからシェイ·スタジアムのあるクイーンズ地区へと電車を乗り換える。
クイーンズに行くのは初めてだった。これまで特に用事はなかったし、マンハッタンより治安が悪いイメージがあったので、近づくことを避けてもいた。
最寄りの駅からスタジアムに向けておっかなびっくりで歩き出したが、さすがに真っ昼間とあって微塵の危険も感じずに、だだっ広い駐車場に到着。その向こうに巨大なブルーのスタジアムの威容が見えたときは、やはり興奮した。
「これがビートルズが65年に公演した、シェア·スタジアムなんだ!」
いつ頃からか「シェイ」と表記されるようになったが、80年代は「シェア」となっていることがほとんどだったと思う。Sheaという綴り方からそう連想されたものだろう。
たぶん開演数時間前だったはずだが、スタジアムまわりにはすでに多くの人の姿があった。
「これだけ人数がいれば、余り券の一枚や二枚、すぐに手に入るんじゃ…」と期待を抱きつつ、まずは周囲をぶらついてダフ屋の姿を探した。
が、それらしき姿は見当たらない。代わりに僕と同じようにチケットを求める人の姿ばかりが目についた。
ぼやぼやしてはいられないとばかりに、僕も彼らを真似て「誰かチケット持ってないですか?」と言いながら、スタジアムのまわりを歩きまわった。
しかし、「チケット」を連呼する僕をダフ屋か何かを勘違いしたのか、逆に「君、チケットを持ってるの?」と声をかけられるばかりだ。
うろうろしているうちに、人だかりを見つけた。もしやと思いのぞきこんでみると、同時に人だかりのなかから「はい、これで終わり。もうないよ」と言いながら、青年がひとり歩き去っていった。
ちょうど何枚かのチケットをさばいた直後だったのだろう。少しのタイミングの違いで、チャンスを逃したわけだ。気落ちしたが、まだこういう人もいるだろうし、あきらめるのはまだ早いと思い直す。
めげずに「チケットないですか?」と繰り返しながら、どれだけ歩きまわっただろうか。だんだんと前座が始まる時間も近づいてきて、さすがに焦りが強くなってきた。
ふと、入口ちかくの路上に座っているアジア人のグループが目に入った。リーゼント風にまとめた髪を光らせている男性には見覚えがあった。大友康平だ。視線を移すと、他のハウンド·ドッグのメンバーらしき姿もみえる。
日本人同士の気安さもあり、思わず「チケットを探してるんですけど、余りとかないですか?」と話しかけそうになったが、すんでのところで思いとどまった。(しかし、今になって考えてみると、話しかけても面白かったかもしれないと思ったりもする)
その後も声をかけ続けるも反応はなく、前座が始まる時間もとうに過ぎ、いよいよ「もしかして無理かも…」と思いかけた頃、いきなりとんとんと肩を叩かれた。
「チケット?」40代くらいの口髭の男性だった。どうせこの人も探してる側の人だろうなと思ったが、彼は続けて「一枚あまってるんだけど、どうかな?」と言うではないか。
「は、は、はい!探してます」と思わずどもりながら答えた。けれど、問題はここからだ。バカ高い値段を吹っ掛けられる可能性もある。
「チケット自体は30ドルだけど、税金の分があるから申し訳ないけど5ドル足して、35ドルでどう?」
なんとほぼ定価で譲ってくれるのだという。苦労した末の急展開に、すぐに言葉が出なかったが「あ、あ、あ、ありがとうございます。お願いします」と再びどもりながらなんとか言葉を絞り出した。
35ドルを渡すと、「あと、チケットは指定席だから、僕らと一緒に観ることになるけど大丈夫?」と彼。その横には彼の息子らしき10代半ばくらいの少年がニコニコ笑っていた。
「もちろんです」と即答して、親子の後について入り口へと向かった。ゲートをくぐり、エスカレーターでスタンド席へとのぼる。ついさっきまで諦めかけていたのに、この急展開。なかば現実感がなかった。
場内に入ると、アフリカの民族音楽らしきステージの最中だった。打楽器のリズムが響き渡っている。席を探してうろうろしていると、彼らの仲間らしきグループから「こっち、こっち!」と声がかかった。
その声の元へと、親子の後をついていき、一緒に席についた。それをみた彼らの仲間(5,6人いたように思う)のひとりが、彼に話しかけた。耳慣れない言語で、内容はまったくわからない。けれど不思議なもので、声のトーンや彼らの表情などから、どんな会話が交わされているか、手に取るようにわかった。
「そのアジア人は誰なんだ?」
「チケットがあまってたんで売ったのさ」
「いくらで?」
「35ドル」
「うそだろ?もっと吹っ掛ければよかったのに。バカだな」
「いや、俺はそんなことはしないんだ」
たぶん、こんなところだと思う。
民族音楽のステージが終わり、次のアクトが始まるまで、彼の来歴にいくつか短い質問をした。わかったのは、彼はポーランドからの移民で、今はニューヨーク市内でタクシーの運転手をしているということ。さきほどの耳慣れない言語は、ポーランド語だったわけだ。
そのうちに次のステージが始まった。ストーンズの演奏はもちろん、前座もすごく楽しみにしていた。81年のツアーでは、ジョージ·サラグッド、プリンス(!)、J·ガイルズ·バンドらが登場したという。82年に出たストーンズのライブ盤『スティル·ライフ』のライナーには、それらの前座アクトの様子を含め、ストーンズのライブの様子が活写されており、僕はそれを何度も読み返しては、まだ見ぬコンサートに夢を馳せていた。
そして、登場したのはリヴィング·カラーだった。メンバー全員が黒人のヘビーメタル·バンド。当時、異色の存在として注目を浴びていたので、メンバーが現れた時にすぐわかった。
プリンスをチョイスしたストーンズ(主にミックだと思うが)らしいセンスだなと納得する。しかし、プリンスがそうだったように、彼らもあまり受けている感じではなかった。
いまにもエアロビでも踊りだしそうな蛍光色のぴちぴちなコスチュームで、ドレッド·ヘアーを振り乱しての熱演だったが、やはりストーンズのライブにヘビメタは相性がいいとは言えない。
僕にしてももっとストレートなロックンロールバンドを期待していたので、「すごいカッコイイけど、ストーンズの前座としてはどうなんだろう」などと思っていた。
彼らのステージが終わり、そして、いよいよストーンズのライブ。…なのだが、肝心のライブの様子は、35年という膨大な時間の壁を経て、思い出せることはほとんどない。その後、日本で二度ストーンズのライブを観ているので、その時の記憶とごっちゃになっているせいもあると思う。
かろうじて記憶にあるのは、オープニングの『スタート·ミーアップ』での場内の盛り上がり、『ホンキ―·トンク·ウーマン』で、その後のライブでも定番となる女性を象った巨大バルーンが登場したこと、ミックが「ニューヨークに住むってことは、…つまりは糞のなかに住むってことだよな」とMCで語って盛大にブーイングを受けていたこと、だろうか。
ネットで確認すると、本編ラストは『悪魔を憐れむ歌』『ギミー·シェルター』『イッツ·オンリー·ロックンロール』『ブラウン·シュガー』『サティスファクション』が一気に演奏されるという問答無用のセットリストで、初めて生演奏でこれらの名曲に触れて大いに盛り上がったはずだが。
アンコールの『ジャンピン·ジャック·フラッシュ』が終わり、客電がつき、観客が席を立ち始めた。僕は親子にあらためてお礼を言った。
「本当に素晴らしいコンサートでした。チケットを譲ってくれたこと、あらためて感謝します。ありがとうございました」
日本流にお辞儀をする僕をみて、彼はニコリと笑ってくれた。
大学の寮に戻ると、まずジョナサンに「コンサート観れたよ。しかも、ほぼ定価で」と多少自慢気に報告した。ジョナサンは「へえ」という顔をしてから、「ま、俺も今度ルー·リードを観に行く予定だし」と、謎の対抗心をみせてきた。
あれから長い時が流れて、この一日を思い返す時、一番に浮かぶのはコンサートの模様ではなく、あの親子のことだ。
今でもニューヨークの映像を目にするたび、あの街のどこかにいるはずの彼らのことをちらりと考える。
正直で親切な父と、彼の気質をそのまま受け継いだような朴訥とした少年。
あれから彼らはどんな時間を過ごしたのだろうか。生き馬の目を抜く、世界一の競争社会を体現する都市のなかで。
残念ながら僕に知る由はない。
願わくば、僕がそうであるように、彼らもストーンズのチケットを求めて球場をうろうろしていたアジアの青年のことを、長い時のなかで、ちらりとでも思い返してくれていたらうれしいのだけれど。