ヤマトタケシvs横崎哲 1992年6月19日 「後楽園ホールのベランダより~追憶の90年代ボクシング Vol.2」
新トレーナー、福田洋二氏の登場。
ワタナベジムに入会した3日後、飯田トレーナーからチケットをもらい、初めて後楽園ホールでボクシングの試合を生観戦した。メインのカードは、ヤマトタケシvs金昌澤。元日本王者と韓国のノーランカーの対決。結果は見えていると思ったが、予想に反して、のちのOPBF王者、金の左フックの前にヤマトタケシはマットに沈んだ。
7RKO負け。ジムからは、しばらくヤマトの姿が消えた。
その彼がまた練習を再開すると、ジム内で聞こえてきたのはいつのことだったか。今となっては思い出せない。けれど、ひとつ覚えているジムでの光景がある。
「俺、ヤマトとはもう一緒にやるつもりありませんから」
それまでコンビを組んでいた宮田トレーナーの渡辺会長への一言だ。会長は何か言いたそうな表情だったが、結局、無言のままだった。二人の間に何があったのか。それは僕には想像のしようもない。けれど、宮田トレーナーの口調はきっぱりとしていて、強い意志が感じられた。
だからだろう、実際にヤマトが練習に復帰した時、新たなトレーナーが彼につけられた。福田洋二トレーナー。当時の僕は、どんな経歴の人なのか全く知らなかった。なんとなく、外部からわざわざ連れてくるくらいだから、きっと有名な人なのだろうと思ってはいたが。
得てして、福田氏は、協栄ジムで具志堅用高、渡嘉敷勝男を担当し、後には、竹原慎二、飯田覚らを世界王座へと導くという、業界きっての敏腕、有名トレーナーだった。
宮田トレーナーがある意味匙を投げるほどだから、ヤマトは扱いにくい選手なのだろうが、福田トレーナーとの練習において、ヤマトが不満を漏らしたり、いい加減な態度をとる場面を、少なくとも僕はみたことがなかった。
福田トレーナーはヤマトの専属トレーナーといった様子で、他の選手を指導することはなかった。
一度、元ジュニア・フライ級王者の平野公夫のサンドバッグ打ちをみて、「打つ時に顔を振るクセがある。それを直すとより手数を出せる」と本人に伝える場面を目にしたが、平野のトレーナーがその様子を見て、やんわりと福田トレーナーを制していた。このあたりはトレーナー同士の担当選手をめぐる微妙な関係性が垣間見えるようだった。
そういうこともあり、正直、福田トレーナーにとって、ワタナベジムはあまり居心地の良い場所ではないようにみえた。
再起戦。ヤマトタケシvs市山徹
ヤマト&福田コンビの初戦は、92年3月10日、輪島ジムの市山徹。市山の戦績はこの時点で、7勝(3KO)5敗2分。ヤマトより1階級の下のウェルター級の選手だ。この試合は、八尋史朗(帝拳)と平野公夫によるジュニア・フライ級王座決定戦をメインに据えた興行の、セミファイナル・マッチとして行われた。
昨年7月のKO負けから、8か月ぶりの再起戦。しかし、この日も、ヤマトは出だしからいまひとつピリッとしない。動きにキレとスピードが感じられず、一階級下の市山の前進と手数をさばききれない。このままジリ貧かと思われたが、5ラウンド、市山にカットがあった頃からヤマトが徐々に盛り返し始める。
続く6ラウンド、なおも強引に出てくる市山にカウンターをヒットしダウンを奪う。ここで実質的に勝負は決していた。ダメージの深い市川にさらにダウンを追加し、レフリーストップを呼び込む。最後は強引にパワーの差でねじ伏せたような形だ。
結果こそ良かったものの、内容的にはいまひとつ。けれど、無事に再起を果たしたことが何よりも重要だった。これで王座復帰に向けて、上昇気流に乗っていけるのでは…と思ったのだが。
「どうしようもねえよ」
次戦は、6月19日、ミドル級の上位ランカー、オサムジムの横崎哲、この試合をクリアすればタイトルマッチもみえてくるだろう。
この試合に向けての練習をしている時のことだ。その日は、別のジムから出稽古でボクサーとそのトレーナーがジムに来ていた。そのトレーナーと福田トレーナーが旧知の仲らしく、ヤマトがサンドバッグを打っているその近くで、何事か話していた。
「見てみろよ。どうしようもねえよ」福田トレーナーのそんな声が、隣でサンドバグを打っていた僕の耳に届いた。福田トレーナーは耳打ちするように囁いたつもりだったのかもしれないが、それにしてはボリュームが大きすぎた。
僕の耳にまで届いたということは、当然、バッグを叩いているヤマトにも聞こえているはずだった。
「福田さん、どうっすか!」ヤマトはそう言いながら、コンビネーションパンチをサンドバッグに叩きつけてみせた。福田トレーナーは、その声にヤマトの方に向き直ると、大きく両腕を広げて「おお、ヤマト!最高だ!」と言った。
福田トレーナーがヤマトを発奮させるためにああいう風に言ったのか、それとも単に本音が漏れたのか。僕には判断がつかなかった。
勝負の一戦。ヤマトタケシvs横崎哲
そして、迎えた1992年6月19日。この日のメインは、日本ウエルター級タイトルマッチ、吉野弘幸(ワタナベ)対横田浩一(埼玉中央)。そして、セミファイナルが、日本Jr.ミドル級1位 ヤマトタケシ対日本ミドル級5位 横崎哲(オサム)の一戦だ。
横崎のここまでの戦績は、19戦6勝(3KO)10敗3分。大きく負け越しているものの、ミドル級王座に2度挑戦し、それぞれ田島吉秋(ベル協栄)、西条岳人(サカエ)に退けられている。
また、対戦相手には後の世界王者、竹原慎二(沖)や、やはり後に日本、東洋太平洋王者となる西沢良徳(ヨネクラ)、日本スーパーウェルター級とミドル級の2階級を制覇するビニー・マーチンとは計3戦を行うなどしており、スーパーハード路線のマッチメイクをこなしてきている印象だ。
ただし3月に行った前戦では、ワタナベジムの荒井秀顕に4RTKOで敗れており、陣営としては勝機は十分と踏んでのマッチメイクだったと思われる。
しかし、2R、最初に右ストレートでダウンを奪ったのは横崎の方だった。序盤でいきなり2点のビハインドを負ってしまったヤマトだが、続く3、4Rは長いワンツーを軸に幾分持ち直し、スコアを戻したかのようにみえた。
5Rに入るとヤマトのスタミナに早くも陰りが見え始める。前戦ではそれでも最終的にパワーでねじ伏せたが、今回の横崎は、体格、パワーで前戦の市山よりはるかに勝っていた。そして、スタミナの面でも。そうなると、ヤマトに挽回の手立てはなくなる。決定的な場面は作らせなかったものの、後半6,7Rははっきりと横崎の手数と前進が勝りはじめた。
それでも、8R以降、さすがに疲れの見え始めた横崎に、ヤマトのワンツーが決まる場面が増えてきた。ポイントでは不利だろう。倒すしかない。逆転KOへの期待に、僕は思わず拳を握りしめた。
彼がリングに求めたものとは?
ヤマトの練習を横目で見ながら、僕は時々「なぜこの人は俳優として注目されているのに、ボクシングを続けているのだろう?」と疑問に思うことがあった。出世作となった映画「どついたるねん」は誰もが認める名作映画だったし、翌年には「鉄拳」で堂々の主演を張っている。勝ったり負けたりのボクサー生活より俳優活動を優先させた方がよほどいいのではないか?
さりとて、彼の練習からは、波に乗っている俳優業を脇に置いてまでボクシングに賭けるのだという様な気迫も、正直、感じ取ることができなかった。その姿にもどかしさを感じたのは、僕だけではないだろう。ボクサーとしても俳優としても優れた天分に恵まれながら、どこか煮え切らない。
もしかして、ヤマト本人が一番、自分自身にもどかしさを感じていたのかもしれないが。
戦いが終わって。
試合終盤、スタミナ的にも苦しいはずのヤマトが攻勢を強める。9Rには横崎が顔面をカット。ヤマトがなりふり構わずに手数を出す。ここまで必死なヤマトの姿を初めて見たかもしれない。ただ勝利を求めるボクサーの姿がそこには確かにあった。
しかし、決定的な一発を浴びせることはできず、勝負は判定に。後半、よく盛り返しはしたものの、スコア的に「逆転までは難しいな」と思いつつ見ていたが、やはり判定は横崎へ。
ヤマトは椅子に座りこみ、疲労のためか、それとも失望のためか俯いたまま立ち上がることができない。肩にタオルをかけた福田トレーナーが、コーナーからリングに入り、ヤマトの前に立った。
ヤマトが顔を上げて、ちらりと福田トレーナーをみた。何か言いたげな表情をしていたが、唇は動いていなかった。
福田トレーナーは、ヤマトに向かって、無言で小さく腕を広げた。「仕方ないさ」と言っているようにも見えた。
それは「ヤマト!最高だ!」と言った時のポーズに少し似ていた。