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葛西裕一vsウイルフレド·バスケス 1994年3月2日『後楽園ホールのベランダより~追憶の90年代ボクシング』Vo.l.24

後楽園ホールで生観戦した名勝負について語る本シリーズ。しかし、今回は初めてホールから飛び出してみたい。

舞台は東京体育館。当時、世界チャンプ以外では大のお気に入りだった葛西裕一が、ついに世界タイトルマッチに登場するのだ。ついでに、この試合は初めて生観戦した世界戦でもある。とても思い出深い一戦だ。

葛西は93年10月にジェローム·コフィーと世界前哨戦を行い、判定勝ちを収めている。対するWBAジュニア·フェザー級王者、ウィルフレド·バスケスは、11月18日に横田広明を挑戦者に迎え、5度目の防衛戦を行い、判定勝ちした。

横田との一戦は、王者が圧倒的に有利とみられていたが、序盤はむしろ挑戦者がリード。5回にカウンターの右フックで横田からダウンを奪い逆転するも、中盤から後半にかけて横田の追い上げを許し、なんとか判定勝ちに逃げ込んだ形だった。

バスケスの動きは全般的に悪く、33歳という年齢も相まって、衰えが指摘された。

葛西戦については、若く勢いに乗る挑戦者が有利では?というのが一般的な見方だった。ボクシング·マガジンの展望記事を見ても「横田と闘ったバスケスの出来ならば、葛西の勝利は8割以上の可能性」「後半KO、倒せなくとも明確な判定勝利を収める」と、無敗のWBA2位の勝利に自信をみせていた。

僕も同じような予想を立てていた。「葛西のスピードにバスケスはついていけない」「ロング·レンジの戦いで自分の距離を保てれば、そこまで怖い相手ではない」と。

そして、当日。

会場である東京体育館には半年ほど前に渡辺雄二の試合で来ていた。あの時は日本人選手の惨敗に終わったが、果たして今回はどうだろう。いや、葛西なら大丈夫にちがいない、なんて思いつつ試合開始を待っていたはずだ。

さて、この日の興行は、全7試合。まずは4回戦が3組。のちの日本王者、木村鋭景が登場し、2RKO勝ちを収めている。続く8回戦では、葛西のスパーリング·パートナーを務めたメキシカンがフィリピン人選手に判定勝ち。

第5試合には日本タイトルマッチがセットされた。ジュン·タン·佐藤(ワールド日立)新井泰(角海老宝石)による日本ジュニア·フェザー級王座決定戦だ。この試合は佐藤が新井を圧倒。長身の佐藤が繰り出す右ストレートを直撃され、大の字に倒れ込んだ新井の姿がいまでもくっきりと思い出せる。強烈なKO劇だった。

92年の来日からこの試合までの佐藤の戦績は2勝4敗。「かませ犬」的な扱いだったいわゆる出稼ぎボクサーによるアップセットだった。しかし、この試合を観れば「なんでこのボクサーがそんなに負けてたの?」と思わざるを得ない。日本に滞在して試合をコンスタントに続けるなかで、彼の優れた資質が開花し始めたのだ。ここから彼やジュン·ピート·日立など、北関東に居を構えたフィリピンボクサーたちの逆襲がしばらく続く。

そして、セミ·ファイナルに登場したのは八尋史朗。前年10月の世界戦に敗れてからのこれが再起戦。相手はメキシコのノーランカーということで、実力差はありあり。試合の内容はほぼほぼ記憶にはないが、実力差があるわりには後半まで仕留められず、というような展開だったかと思う。WBAジュニア·フライ級5位の八尋は、これで戦績を18勝(11KO)1敗1分としている。

さて、そんなこんなでいよいよメインイベントを残すのみ。今まではテレビでしか観ることがなかった世界戦の舞台を実際にみて感じられるのだと思うと、やはりわくわくした。

子供の頃、具志堅用高の試合を欠かさずテレビ観戦していたが、試合そのものは当然だが、試合前のセレモニーを胸を躍らせて観ていたものだ。華やかな入場と観客の歓声、うってかわって厳粛な国歌斉唱、国旗を見すえる具志堅の眼光…。何か特別な瞬間に自分は今立ち会っているのだという高揚感を子供ながらに覚えた。そのすべてを今度は現場で体感することができるのだと思うと、何とも言えない気持ちが胸の中に広がる。

そしていよいよ両選手の入場だ。ここからは、動画の印象も交えたい。試合後さんざんに言われた葛西の表情の硬さはやはり感じるところだ。映像でも、調印式、計量を通じて「今回は笑顔がない」というのは解説の浜田剛史氏。入場前の控室でも葛西の表情はいかにも硬い。引き締まった、というのとも少し違う。硬いのだ。

対するバスケスは、良い事前準備を積めたのか、来日後の練習でもその好調さは知られるところとなり、取材者間の「葛西有利」のトーンもその後は風向きが少し変わったほどだという。「今回は横田戦のときと違って、しっかり仕上げてきた」というのはやはり解説のジョー小泉氏だ。控室での表情も落ち着いていて、どこか自信に満ち溢れているようにみえた。そして、リングインして両腕を突き上げるポーズからは王者の風格のようなものがうかがえる。

国歌の演奏が流れている間も、終始落ち着いた表情のバスケスとは対照的に、葛西は深呼吸を繰り返している。その姿はなんとか気持ちを落ち着けようとしているようにもみえる。

ちなみにメインイベントのリング·アナはジミー·レノン·Jr。「おおー、『エキサイトマッチ』を観てるみたい!」と感動したのを覚えている。この日の中継は日本テレビではなくWOWWOWが行っていた。WOWWOWが日本人選手の世界戦を生中継するのは、これが初ではなかっただろうか?そしてジミー·レノンJr.の日本初登場もこの日だったような(違ってたらすいません)?

この日の興行は「衛星放送時代の新しい試み」のひとつとしても記憶に残っている。

試合前に印象に残る光景がある。

リング中央でレフリーからの注意が終わり、グローブタッチを促された時だ。バスケスが大きく両腕を掲げて、葛西のグローブの上にバシッと力強く振り落とした。葛西はそれを受けて、下からバスケスのグローブへタッチを返そうとするが、バスケスはそれを受けることなく、くるりと背を向けてコーナーに向け歩みだしている。空振りしたような恰好で取り残される葛西。

この場面を観た時、なんだか嫌な予感がよぎったのを覚えている。なんというか、バスケスのペースで物事が進んでいる。そんな感じがしたのだ。葛西は試合前からすでに後手に回っているような…。

試合のゴングが鳴った。

いきなりワンツーで襲い掛かったのは葛西。バスケスは頭を下げて、それを回避。中間距離で仕切り直すと、葛西はジャブを放つ。バスケスはすかさずかぶせるような右ストレートを合わせてみせる。距離、タイミングともに合っている。スピードについては、葛西のジャブよりも速い。一瞬、葛西がたじろぐ。

「葛西は不用意に中途半端なジャブを打たないこと」このシーンを観てそう言ったのは解説の浜田氏だった。しかし、硬さがまだ取れないのか、葛西の放つジャブにはスピード感がない。

そして、開始から約40秒。葛西のジャブに、再びバスケスが右をかぶせると、今度はクリーンヒット。葛西はあっけなく後方にダウンする。踏み込みの甘い、腕を伸ばしただけのゆるいジャブだった。葛西のジャブのタイミングを見切っているのか、バスケスのタイミングは見事ではあった。けれど、いかにも「合わせてください」と言わんばかりのジャブだったことも確かだ。普段の葛西はこんなジャブを打っていなかったと思うのだが…。

葛西は驚いたような表情ですぐに立ち上がる。カウント8のあとで試合は再開。

バスケスはすかさず詰めに入る。力のこもった右ストレートから左フックを返す。左フックが葛西の顔面をとらえ、一瞬、葛西の腰が落ちかかる。葛西のコーナーからディアス·トレーナーが「ムーブ!ムーブ!」と叫んでいる。そうなのだ。ここで棒立ちになっていては、バスケスの強打につかまるだけ。葛西には速いフットワークだってあるのだから。

声に反応するように、葛西がサイドへと動く。追うバスケス。葛西もバスケスのように右ストレートから左フックの返しをみせる。当たっているが、打ち終わりにバスケスのパンチも入っている。そして、よりダメージが深いのは葛西の方だ。

最初のダウンのダメージがまだ残っているのだろう。葛西のボディワークはぎこちなく、スフットワークにもスピードが感じられない。葛西はステップを踏み、ようやくバスケスから距離をとろうとするが、如何せんただまっすぐスローに後退するだけで、バスケスを振り切れない。

バスケスが追いかけて力のこもった右ストレートを葛西に叩きつける。これはブロックで防いだものの、左フックを返そうとした瞬間、続く右アッパーをまともに被弾。吹っ飛ぶように葛西は後方にダウンする。

これもすぐに立ち上がった葛西だったが、ダメージはありありだ。残り時間はまだ1分半ほども残っている。すでに2回ダウンしているので、次にダウンすれば自動的にKO負けとなる。再開後、バスケスはここで勝負を決するべく、小走りで葛西に向かっていく。葛西はバスケスにしがみつき、なんとか生き延びようとする。

バスケスは委細構わず、しがみつく葛西に右を連打。いくつかは後頭部を叩く形になり、レフリーが一旦ストップをかけて、バスケスに注意を与える。頭を下げるバスケス。

再開後、再び前進するバスケス。葛西は右アッパーで迎え撃つ。当たりは浅かったものの、タイミングも合っており、ヒット。この試合で葛西が放った数少ないパンチのなかで、かろうじて有効打と言えそうなのが、このパンチだったかもしれない。これがもう少し深く刺さっていれば、その後の展開も変わったかもしれないのだが…。

その後も前進を続けるバスケス。葛西はガードを固めて後退。バスケスが連打で追い立てる。葛西はディフェンスに徹しているものの、いくつかを被弾。そのたびに葛西の膝が揺れる。さらにバスケスが連打をつなげると、葛西は自分の体を支えることもおぼつかない。左右に泳ぐようにリングを漂う。

解説のジョー小泉氏は「クリンチ!」を連呼している。たしかに葛西にはそれしか生き延びる道はなさそうだ。しかし、葛西はクリンチに行かず(もしくはできないのか)、結果的にいい距離でバスケスの強打を浴びる格好になっている。

バスケスの連打に追い立てられバランスを崩した葛西が、ついにグローブをマットにタッチ。レフリーがダウンを宣告し、試合終了が告げられた。時に初回2分5秒。レフリーが葛西の前に立ち両手を交差させるが、葛西は事情が理解できないのか、ふらふらの状態でまだ前進しようとしてレフリーの胸にぶつかっている。物悲しいシーンだ、と今回見直してまた思った。

対照的に、バスケス陣営はお祭り騒ぎだ。陣営がリングになだれ込み、両手を掲げるバスケスを抱え上げる。動画では、ここでアナウンサーの「葛西裕一、世界は遠かった」という声がかぶさる。家に帰って、録画を見直しながら「遠すぎたよ…」と思わず声が出たのを覚えている。

会場は、思いもよらぬあっという間の結末にざわめきが収まらない。僕もたぶんしばらく呆然とリングをみつめていたはずだ。初めて生観戦した世界戦が初回で終わるとは…。

同時に「後楽園ホールもいいけど、やっぱり世界戦は違うな」と感じた。「もっと早く観に来ればよかった」とも思った。

これまでは「大会場で後ろの方から観るくらいならテレビの方がいい」とか、「平日の世界戦だと前座が始まるのが早くて試合を全部観れないし」などと思って敬遠していたのだが、やはり世界戦の雰囲気は格別だった。

にもかかわらず、結局この後も鬼塚ユーリ川島の世界戦も僕は現地では観ていない。いま思うと「もったいないことをしたな」と思う。

葛西の今後については、「まさか引退しないだろう」と根拠なく考えていた。まだ24歳。これからまだチャンスはいくらでもあるはずだ、と。力を出し切ったならともかく、ほとんど何もできないままに終わったしまった分、葛西に対する期待は逆に失われていなかった。

まだまだ信じていた。葛西裕一が世界チャンピオンになれないはずがない、と。


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