三秋縋『さくらのまち』 感想
6年ぶりとなる新作が9月の終わりに発売されるということを7月の終わりに知ったときは喜びを隠し切れなかった。
思えば、三秋縋の作品を知ったのは小学生のころの話であり、YouTubeにて偶然『三日間の幸福』の前身といえる『寿命を買い取ってもらった。1年につき、1万円で。』の存在を知ったのが始まりだった。
そこからは三秋縋の世界観にのめり込んでいった。
少なくとも、私の価値観は三秋縋の書く作品に影響されているし、三秋縋を知らなくても何らかの形で同じような価値観が形成されていたとも思う。
三秋縋の書く作品というものは、何らかのアクセントと共に描かれていくボーイ・ミーツ・ガールだ。『三日間の幸福』では寿命が買い取られることで、『恋する寄生虫』では人に寄生する虫によって男女が出会う。
そして、彼らはどちらも何らかの欠陥を抱えているがために社会に適合しきれなかった人間である。本来ならば出会うはずの無かった人間たちが、奇妙な出来事を通じて惹かれあう。
今回の『さくらのまち』も同じように欠陥を抱えた人間同士が、アクセントによって出会う物語となっている。
以下、『さくらのまち』のネタバレを含みます。
「君の話」は既に終わっていたお話が、突如として動き始める物語だけど、「さくらのまち」に関しては既に終わっていた物語の答え合わせをただただしているだけなんだよな...って。
最後の一文が尽くそれを表していてさ、尾上が呼んでいた"桜の町"なんて初めから存在していなくて、それに至るまでが遅すぎただけなんだ。って。
やっぱり三秋さんは絶望や悲哀の中に幸せを描き出すのが上手すぎると思うんだ。私はそれの虜になってしまっている。
澄香も、霞も、鯨井も居なくなった世界で、尾上はただ1人生きることしか出来ない。けれども、唯一救われていると言える点は"桜の町"なんてものは存在しなかったっていう事なんだろうと思う。
今までの作品の中で、ここまでifの世界線について考えさせられた作品は無かった。だからこそ、この世界線での歪みを否が応でも直視させられるし、"サクラ"という瞞しが存在しなかった場合のことを考えさせられる。
かといって、その歪みが存在しなければ、尾上が鯨井や澄香らと親友になることは無く、霞の"プロンプター"に選ばれることも無かった。
いずれにせよ、この作品は"サクラ"によって成り立っていて、それが無ければ尾上は少し陰鬱とした平凡な人間のまま孤独に生きていたんだろう。
それが尾上にとって幸か不幸かは、私らには決められないのだろうな。