生きづらいけど生きていたい
ネット上で自己開示すると誰かと分かり合えるんじゃないかと思った。
そんな事はない。続けていればフォロワーもちょっとずつ増える。現実でも挨拶をした人と話したりする、仲良くなる。でもわかりあえない。
私には友達が少ない。
心を開ける人がいないわけではない、しかし、相手の心は別に私に開いているわけではない。そう感じる。
なんでこんなにわかりにくい性質なのだろうか?
皆ちょっとは他人に理解されにくい所はあるはずだ。でもなんですぐに徒党を組むことができるのだろうか。
私は極めて真面目だ。
約束はできるだけ守る、冗談だって言う、笑いのツボだってニッチでは無いつもりだし、今しがた会った人の悪口を言ったりしない、他人に乱暴な言葉を使ったり、不機嫌な態度を見せたりもしない。
こんなに真面目で善良なのになぜ仲良い人が出来ないのだろう?
紙一重で他人を信じる事が出来ない。拒否される事が怖い。しかしこの感情はきっと誰にでもあるはずだ。だから声をかける。話をする。一緒に笑い合う。
そっけなくされても、それはそれなんだなあ、きっと気が合わないんだな、と思う。もしかして色々あってピリピリしてるのかも。初対面でもそんなことを思う。
ところで仕草をちょっと見たり私服を見て「こんな人かな」と予想を立てたりはしないだろうか。
私はする。この人の「本質」は一体どこなんだろう?
それは全く人柄とは関係ないようで、地味に繋がっているので、気になる事である。
ネット上であればどんなアイコンでどんなことを話しているか、興味のある事、よく話している事、人間というのは多角的で多面的でマジョリティカラーである。それはあなたも知っていると思う。
それを自分自身に置き換えてみよう。
私は多分こだわりがある。誰にでもあると思う。だがそのこだわりは人によって違う。
明るく見られたい、落ち着いて見られたい、しっかりしていたい、怖がられたくない。
悩みに付随したように、見られたい印象もあると思う。
私は「ちゃんとした人間」に見えるように取りつくろう。
佐官職人のようにとはいかないが、出来るだけ自分の中の理想に近づくように作る。出来る範囲で。(人には出来ることとできない事がある。)
出来るだけボロは着ないようにして会話ができる人間としてそこにいる。
困った時は手を差し伸べて時には相談役として、一緒に迷ったり道を探したり、付かず離れず自分のことをしていたりする。
ところが何故だろう。話せば話すほど、自分を出すほど、人が遠ざかる感じがするのだ。
親しい友人にも距離を感じる。
いまいち信用できない。
レンチンでまだらな解凍ご飯のように、熱い部分と冷たい部分がある。
夏に親しく遊んだかと思えば、翌年になるまで一切の連絡を取らないこともある。
私の信頼は積み上げ式かつ期限があるようで、時間が経てばスゥッと消えていく。自分ながら薄情なものである。
どんなに親しい仲になっても、一瞬で心の距離が離れてしばらくシャッターを下ろすこともよくある。
周りの人間に対して優劣がない代わりにカテゴリーがある。更にカテゴリーの中でも信頼できるか否かを決めている。
だからといって人間が嫌いなわけではない。むしろ好きである。いや、好きと嫌いを強烈に反復横跳びをしている。
朝起きて、体がダルくて風邪をひいた事がわかる瞬間を経験した事はあるだろうか。あれと同じで、全世界の人間を信用していない、もう大嫌いだ、という曇った瞬間がある。何日か続いたり、うっすらと何ヶ月か続くこともある。
その間にも用事をしたり人に会い部屋を片付けてご飯を食べるなかで、人間好きだな〜と思うこともある。
人間人間言っているが、自分自身も人間であり、その弱さ、無駄に強い曲がった性格、どこが他人と違うのか不明なまま生きている。
初めに話したように、私には生きづらい性質がある。
MBTIの自己診断ではINFJ-Tと言うことだった。何回か挑戦したが、時々ブレるもののこれに落ち着く。
他の診断では質問次第で結果がバラつくが、情報があまりにもINFJと一致するので、芯はこれなんだろうと思う。人間は多面的である。
しかしこの特徴、日本人ならば結構当てはまるんじゃないの?と思ってたら、他のINFJの方々も言っていた。
ならば何故こんなに生きにくいのか?日本人ならわかるのではないか?
いや、わからない。
私と相手は違うからだ。それぞれの役割というものがある。なんとなーく決まっている。特性に合わせて近寄っていくのだ。
加えて、腹の中では誰が何を考えているかわからない。
相手のことを些細な言動で察してしまうものの、その本意はわからない。
しかも悲しい事に、距離の詰め方がわからない。
私は私を見つめ直す時間が要ると思う。
だからアウトプットとしてここに書いている。
人間は何故他人を裏切れるのか、何故すぐに仲良くなれるのか、不明なまま生きている。