山田亮一氏の歌詞の素晴らしさについて
※このnoteは山田亮一さんが逮捕される一週間前にアップしたものです。当時の気持ちのまま置いておきます。
昨年の春、上記の『せっかちな人の為の簡易的な肯定』歌詞解釈を書きまして。多くの方に読んで頂いたようでとても嬉しく思っております。あれから山田亮一氏はよくX(旧twitter)に浮上するようになり、メンバー募集をし、新しいバンド名も決まってライブ披露も今後予定されていると当時の自分に言ったら嗚咽して喜ぶことでしょう。
山田亮一氏の歌詞の素晴らしさなんて、このページを開いている時点でこれから読んでくださるあなたには自明の理であって、言うに及ばないことですが、改めて書くことといたします。
山田亮一氏の言語能力の高さ
文章力というものは論理立てて述べることができる力、語彙力や表現力、感受性などから成り立っていますが、山田亮一氏はそれらに加えて『言語が持つ運動能力を最大限に引き出すことができる』力を持っていると思います。今まで世になかった言葉を造語する力、今までぶつかったことがなかった言葉と言葉を繋げて化学反応を起こさせる力。
酔いさらばえて、赤い闇の上 『Goodbye my JAM』
孤独がファズむ夜は 『カマイタチごっこ』
場末は中繁盛 『キャバレークラブギミック』
今まで聞いたことがない言葉であるにも関わらず、歌詞に溶け込んで私たちの脳に馴染んでしまう言葉たち。人物描写や風景描写の力の凄まじさを物語ります。おそらく山田亮一氏は普段から全ての事柄に対してひとつひとつ立ち止まり、考え、言葉を当てはめているのでしょう。そうするとずっと感傷を働かせることとなり、生きているだけでリソースを割いてしまい、生き辛くなってしまうかと思いますが、おそらく止めることができずそれが山田亮一氏の良さでもあるため難しい問題ですね…。
昨今、インスタやBeRealで、一目見て分かりやすい状況や感情の共有がなされ、行間を読み取るような想像の働かせ方というものを私たちはあまりしなくなったのかもしれません。歌詞だって、tiktokに流すための短くてキャッチーなものが好まれる風潮があります。その点、山田亮一氏の歌詞は嚙み砕く工程を必要とし、簡単にBGMにはなってくれません。そうしたカロリーの高い歌詞であるところが好きです。山田亮一氏の繊細な感性を活かすためには、漢字・カタカナ・ひらがなを使用しそもそもの文字の数が多く、表現力の幅が広い日本語歌詞でなければならない必然性があります。文学的才能と同時に音楽的感性も同時に彼が持ち合わせていた幸運について、私は自分の命が終わるまで感謝し続けます。山田亮一さん、生まれてきてくださって本当にありがとうございます。氏のこの力は稀有なものです。作家といえども誰もが持っているわけではなく、生来にしろ獲得したものにしろ、特異な能力であり、山田亮一氏が音楽の世界に身を置いていることはバンド界隈にとって非常に幸甚なことです。
思う 想う 使い分け
さて、ここまで読んでくださっている山田亮一フリークの皆々様方。山田亮一氏の歌詞やX(旧twitter)には常に「思う」という言葉ではなく「想う」が使用されていることについてお気づきのことでしょう。
辞書を引くと上記の違いがあることが分かります。したがって、山田亮一氏は、考えや意見を持つことから一歩踏み込んで、感情や気持ちをより具体的に発露させようとしているといえるのではないでしょうか。『願いや祈りを表現する際にも用いられる』の辞書の説明を読んだあたりで、夢想家である彼の心象を考えては頭を抱えてしまいました。山田…山田亮一……。
山田亮一氏の心象風景を最も如実に描き出しているのは『ディレイアンダースタンド』ではないか
見出しの通りです。『トラベルプランナー』や『リボルバー』など、山田亮一氏が感受したものを表現した楽曲は数多く存在しますが、このnoteを書いていて、山田亮一氏の心象風景を最も直截的に描きだしたものは、実は『ディレイアンダースタンド』ではないかと思いました。曲のタイトルにあるように、氏が理解したものが比喩表現の強い抽象と具体を反復しながら綴られています。
山田亮一氏は自身の紹介文に現在、「大阪のブルースマン」という短い文章を用いています。
では、悲しみや苦悩の感情とは何か。「共通の話題がないことに気付く前に」(『トラブルプランナー』)で歌われているように、相手との断絶を感じるときではないでしょうか。それも好きな相手からの。
感受性が強く、全ての事象を繊細に描き出すほど、同じ語彙力や感受性を持たない他者からの理解というのは遠のきます。
曲のタイトルについて、『リバーブアンダースタンド』『トレモロアンダースタンド』でも良さそうなところをあえて『ディレイアンダースタンド』としたのは、メロディへの言葉のはまり具合もさることながら、ディレイの持つ『音を遅れて重ね反響させる』性能というものが後悔の比喩として最も近いからであるように思われるのです。そして、氏が繰り返し何を理解させられているかというと、一人きりであることであり、夢の終わりにテイクオフすることであり、転がって愛した日々からのリフトオフ。山田亮一氏の楽曲は一貫して後悔というものが盛り込まれていると個人的に思っています。あの娘ともしこうなっていたら、というような。
また、Do you understand?という「わかりますか?」の問いかけの中に、あなたはどうせわかっちゃくれないのだろうという諦めの境地も飛躍して読みを深めれば汲み取ることができます。そして、『どろどろ』ではなく『泥々』と表記することで、感情のわだかまりという意味での『どろどろ』の他に、『泥沼』から想起される一度落ちると抜け出すことが困難な状況も付与しており、本人視点での救われなさが歌われています。
過去は変えられないし未来に向かって生きろ!なんて声高にインターネットは叫んでくるけれど、全てを綺麗さっぱり忘れるなんて土台無理な話で、生きるって別に潔白でもなんでもないのですが、山田亮一氏の曲を聴いていると後悔も良いなと思えてくるのです。
最後に
言葉を尽くしたところで、つまりは「楽曲が最高!」「歌詞が最高!」ということです。心の底から山田亮一氏の楽曲が大好きです。今のところまだライブを観ることができていませんが、生で観たらいったい私はどうなってしまうのでしょう。Youtubeやサブスクで聴いているだけでもこんなに揺さぶられてしまうのだから、CDが買えた日には、ライブに行けた日にはすべての人類を愛せてしまいそうだな、なんて思ってたりします。
山田亮一氏の楽曲が大好きです。ずっと大好きです。