書くということ
noteで何かを書こう、投稿しようと思って開いてみて、いつも思うことがある。「自分のクリエイターページを表示」の違和感。確かnoteは、どんな人でも気軽に何か創造できる場所をとの理念で始めたものであると記憶しているので、そう表記するのは分かるのですが。わたしの場合はそんな大それたものではなくて、ただ喋りたくないから書いているだけです。書いていれば自分がどのあたりを歩いていて、どんな着地点になるのか見えて、途中で書き直したり書き加えたりが自由なのがいい。書くこと以外が苦手なので書いています。積極的かつ消極的に書くことを選んでいる。
書き始めたときは書き終わっているとも言えます。言葉の砂場で拾ってきた言葉に押されて嘔吐しているだけだからです。書く直前が一番苦しくて狂おしい。
人は意識せずとも創造、してるんじゃないですか。ポエトリーリーディングやオープンマイクに出るようになり、「独特ですね」と言われ、そう言われたところで皆誰しもが独特だよ、と思う。独特じゃないにんげん、存在する?
現代詩も俳句も短歌も小説も、なぜ人は書くのだろう、創造するのだろう、わたしは何を書きたいのだろうと立ち止まってしまう。そこに良いも悪いもないよ、あるのは好きか好きじゃないかということ。そして賞を取る作品や作者はどこかしら立ち姿がうつくしい。
美しいにんげんになりたい。
コンビニで新商品のお菓子を買って、美味しいけど値段が高いから次は買わないとか、まずいけど安いからリピートするだとか、人間もそういうふうに割り切れたらよかった。傷付くのです。自分が傷を受けた時の痛みを忘れて、今度は傷つける側になりさえする。人間にはどうしても意思が介在するので、物のように扱うのは無理なんです。なんとなく好きな人間もいればなんとなくという理由で生理的に苦手な人間がいて、体調だとかタイミングや運だとかも加わって人間関係になる。またねって言っても実現しないこと、美味しいものを食べると嫌なことを忘れてしまえる人間がいること。それが当たり前なんだってどうして小学生くらいまでに通過しておかなかったのだろう。あの時こけて擦りむかなかったので、大人になってこんなに重症になっています。
人間が嫌いになって、本に逃げても、本は人間が書いたもので。Youtubeを開けば人間が出ていた。人間の職場にいた。顔があって、手の本数や足の本数、わたし見た目が人間に近いから、働いていれば話しかけられる。バスにも乗れるらしいのです。新幹線も飛行機にも乗れるそうです。
人間やめたいな。もし輪廻転生というのがあれば、次は絶対に人間にはなりたくない。意思や概念を持ちたくない。生きているときに「死」の概念を知るから苦しい。「友達」っていう概念を知らなければ別に1人でも苦しくないと思う。鼓動が早くても寿命が短くても、概念を知らなければその動物にとって1日の長さは長寿の動物の1日と変わらないよ。そして「わかりあえる」なんてことを言う人がいるのは、きっとわかりあえないからだ。私たち。
感情が摩耗して擦切れて、たんぱく質が変質してどんどん感情が無くなっていく。微かに毒性を帯びながら、それでも書いているといつの間にか閾値が決壊していて、そうして紙に立ち現れた姿がわたしだ。