幽霊が見えるとはどういう体験か?(死霊美術論#4)
快感である。
私はよく幽霊がしょっちゅう見えていて、最近は意識的に見えないようにしたり見えるようにできるように軽くは訓練できるようになった。
身も蓋もないが、理屈や言語を整理する批評やAI以上に極端な情報処理を求めるweb writingのおかげだ。
さて、幽霊が見えるのは、おおよそ錯覚だと私は思う。
しかし、錯覚は錯覚でも幽霊が見えるというのは立体的だし、実際に表現しづらい寒気を私は感じたことがある。
ちなみに私は精神障害を疑われて精神科のテストも受けたがほとんど異常なしの変わった健常者にすぎなかったわけで、私を医者でもないのに精神障害認定するのはヒステリックなメス豚と感じてしまう。
さて、前回話した拡張現実という新しい言葉の実践が幽霊を見るということだ。
たとえば、アナタだっていつでも幽霊を幽かに朧げに見ているかもしれない。
脳の中の幽霊よろしく、ベトナム戦争で片腕を失ったアメリカ兵がない片腕あたりをヒステリーで痛い痛いといったりする脳の誤認はよくある話しだ。
また、最近の東京大学大学院の研究で幽霊を見せる研究が確かあった。
幽霊はいないという夢のない話しだろうか?または、幽霊はやはりいるという夢のある話しだろうか?
答えはどっちでもない。
確かにいるのだ。
脳が確かにいると感じる知覚そのものは本物だからである。ここらへんがAIや速く答えを引き出す近代教育で言語化できない最終地点の現象だ。
脳が確かに感じる知覚そのものはあり、虚構の中の真実をどう理解するか?利用していくか?は昨今の高学歴メンヘラ問題や俗に言う悟りという問題だろう。
もちろん幽霊が見えることを逃げの理由で理解してはいけない。
むしろ、
解像度が浅い、正義だとか倫理だとか、言語でぺらぺらに理解された、美しくない美しさかもしれない。
社会学者・宮台真司の綺麗事に酔い過ぎて頭のおかしいYouTube視聴者たちをたくさん見てきたが、彼らは言葉や頭では正義について詳しくしても、いざ具体的な正義を実行できないし、正義の難しさや正義のナンセンスさから逃げている。
だから、強く幽霊を直視する意識が大事だと思う。
立体的に不思議さにつぶさに細かく意識するのも大事だと思う。
たとえ幽霊が立体的に見る才能がなくてもだ。
AIに解けない謎はこの解像度の高い知覚だからである。