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少女、小悪魔にあらず  第一話


ーーーーーーあらすじーーーーーー


どこにでもはいなさそうな平凡極まりない名前の教師、山田花子は、ある日家族ともども失踪していた教え子の蜜原雫によって誘拐される。
いつの間にか『世界を作り替える』という、すさまじい力を手にしていた蜜原は自身を悪魔と呼称し、山田を無理やり巻き込んで何をするでもなくスローライフ。
しかし傍若無人にして精神不安定 ドメンヘラであり、割と不安定な蜜原の周囲では事件が絶えず、似たような力を持った奇人変人も自由気ままに行動し始め…
割と壊れかけかもしれない世界で、それなりに綱渡りで生き抜いていく二人の歪んだ愛の物語。


まず答案用紙の名前欄を見て、眉をしかめた。

やけに丸っこい文体で書かれた名は、ミミ・シェルシェール。ふざけた名前だ。
ちらりと目線を上げれば、当の本人である少女はニヤニヤ笑いながら片肘をついてこちらを観察している。
この時期特有の大人をバカにするその態度を見ていると、昔の自分を思い出して胃が痛くなる。

まともに取り合うまいと回答欄に目を移せば、そこにはずらりと並んだ、0,0,0…
クソガキめ、名前どころかテストそのものまでふざけてバカにしている。

苛立たしさから舌打ちを漏らし、少女を睨み付けると、彼女は相変わらずのニヤニヤ笑いでこちらに手を伸ばしてきた。
思わずビクリと肩を動かした私を見て、いよいよ笑みを深めた彼女は、答案用紙の端っこを指で軽く小突く。

どろりと空気が重くなり、何かがひずむ様な音がした。

断末魔にも似たそれと共に、答案用紙の問題文が捻じくれ、千切れてゆく。やがてすべての文末には、瀕死の虫めいて蠢く『×0』が付け足されていた。

「100点?」

彼女が小首をかしげた拍子に、イチゴのジャムを思い出させるような甘い匂いが漂った。
私はカラカラになった口の中を必死に唾液で潤しながら応えた。

「0点よ」

私の名前は山田花子。
職業は高校の国語の教師だ。




私がミミ・シェルシェール…もとい教え子だった蜜原雫に誘拐されたのはつい先日のことである。

犯行動機は今のところ不明。何らかの恨みをいつの間にか抱かれていた可能性は無くもないだろうが、むしろ三ヶ月前の自己紹介の時、黒板に書かれた山田花子という名を見て爆笑に包まれる教室で、蜜原雫もお綺麗な顔を歪ませて腹を抱えていたのだから、恨む権利は私の方にあるだろう。
私は自分の名前を見て笑ったガキどものツラを全員覚えている。

だが、私の名前を笑ったガキとはいえ蜜原は真面目な生徒だった。

授業態度は良好、成績は中の中だが宿題は必ず提出。
つややかな黒髪に似合った端正な顔をしているものの、どちらかといえば物静かで内向的。クラスの立ち位置はそこそこといったところ。

はっきり言ってしまうと、私が蜜原に抱いていた印象はそれくらいのものだ。
真面目で目立たない、手のかからない生徒。浮いた話も荒れた話も聞いたことはなく、家庭環境に問題がある様にも見えなかった。

どのクラスにも一人どころか四、五人はいて、だいたいロングのストレートかポニーテール。
蜜原雫はそんな、どこにでもいる普通の女子高校生だった。

だからこそ3ヶ月ほど前、蜜原が両親ともども失踪した時も、私は警察にろくな情報を提供できなかった。



ひなびた街の、何の変哲もないと思われていた蜜原一家が突如として消え去った事件は、まあそれなりに話題になった。

学校内でも、案の定泣き出す女子たちや、あることないことを言い合う男子たち。それは教師の間でも例外ではなく、やれ夜逃げだの山で遭難しているだの、熊に襲われただの…

だが、確かに蜜原家は山の中にあるとはいえ、家の中に荒らされた形跡はなく、血の跡なども全く無し。
近所や親類筋に聞き取りを行っても一向に行方がわからないということで、警察も早々にお手上げとなった。
学校としても対応を話し合ったものの、結局現状を静観すると言う結論に至った。つまりは何もしないということだ。


蜜原の机や椅子は、彼女が戻って来た時のことや生徒たちの精神的な動揺を抑えるため、教室に留められることになった。
だが、授業の時に人一人分空いたそのスペースを教壇から眺めたり、掃除の際に私が教室の後ろに下げるたびに、その机は否応もなく、異物感を増していくように感じられた。

生きているのか、死んでいるのかもわからない蜜原雫。
そんな彼女が残した机と椅子は、三ヶ月が過ぎる頃には誰もが目を合わせず、できる限り触れようともしなくなっていた。

時間が経てば立つほど、彼女が帰る可能性は小さくなる。それを皆分かっていながら、ではいつこの机と椅子を邪魔だからといって運び出し、体育館裏にあるジメジメしたゴミ置き場に運び出せば良いのだろう?
私も含めて、そんな勇気のあることを実行する者も提案する者もいなかった。

あれは墓石だ。誰も口に出さずとも、おそらく全員がそう思っていたのではないだろうか。


だからこそ今朝、朝礼の時に彼女の机の上に花瓶と真っ赤なチューリップを見つけた時、私はすとんと胸が軽くなるのを感じてしまった。

気になっていたニキビをつい爪で引っ掻き、取ってしまったときの様な、後ろ向きの安堵感だった。
生徒たちもその花瓶を受け入れていた。誰一人騒ぎ立ても、囃し立てもせず、むしろ教室内はいつもより静かですらあった。

…このまま朝礼を始めてしまおうか?

そうできたなら随分と楽だろう。だがあいにく私は教師であり、これに触れない訳にはいかない。

「…誰ですか。こんな花瓶を置いたのは」

ざわざわと教室に視線が飛び交い、困惑と期待が満ちた。
誰がこんな非常識的で、それでいて鮮やかな悪質行為を働いたのか、私も含めたその場にいる全員が知りたがっていた。

「私です」
す、と椅子に座る少女の白い手が高々と挙げられた。

自らの席に座る蜜原雫だった。




…おかしいな?と思った。

蜜原はこうも堂々とした態度の少女だっただろうか?

まじまじと見れば、確かに顔立ちは3ヶ月前と変わらぬ蜜原雫だ。
だがよくよく見れば髪にはマゼンダのメッシュが入り、目の色もそれに合わせてカラコンでもしているのだろうか、幽かに桃色に煌めいている。

ふ、と朝の空気の中に混じる甘ったるい匂いを感じ、私は眉間を押さえた。実家で母がよく玄関に飾っていた百合の花と、苺のジャムが混ざったような、どろんとした匂い。それは間違いなく、蜜原から漂っていた。


(香水は校則違反だぞ)

金髪な上にこっそりヘソにピアスも開けている私は、生徒の服装にイマイチ口を出しにくい。
しかしこの匂いはどうも脳髄に染み付いてくる。思考がぼやけてバカになっていくようだ。もっと大切なことを忘れさせるような…

そうだ花瓶だ。これを注意しない訳にはいかない。

「休み時間に面談室に来なさい」

そう伝えると、蜜原はぽかん、と口を開けた後、はあーいと片頬を膨らませつつ返事をした。

「…何かおかしいな?」

自分の口から声が漏れ、蜜原の顔を盗み見た。
彼女も私の方を見て、小首を傾げてぞっとするほど可愛く笑った。




「待て待て待て、何が花瓶よ」
結局私が呆れ交じりにそう呟いたのは昼休みになってから、面談室の鍵を開け中に入った直後だった。

校舎の二階、ちょうど真ん中あたり。
二年生の教室群と階段に挟まるように存在する面談室は、長机と椅子、何年も前の卒業アルバムやら校報やらが詰め込まれたワゴンがあるだけの、生徒どころか教職員からも半ば忘れ去られた場所だ。

白っぽい蛍光灯で照らされ、かさかさになった紙から香る奇妙な匂いを嗅いだことで、どうも私は正気に戻れたようである。

しっかりしろと自分の頭を小突きつつ、思考を巡らせる。

蜜原雫。なぜ今朝になって現れたのか。なぜクラスの誰もそれを騒がなかったのか。なぜ私は、彼女が帰ってきたことを警察にも校長にも報告せずにいたのか…


「というかそもそも…」
「なぜではなく、蜜原雫は『なに』なのか。大事なとこは多分そこ」

そう呟いたのは私ではなく、

「センセ、多分私は悪魔なんじゃないかな?」

眼の前で椅子にもたれかかっている、蜜原雫自身だ。



鳩が豆鉄砲を食らった顔とよく言うが、その時の私の顔がそれだったろう。
間違いなく、さっきまで施錠され誰もいないはずの面談室に、蜜原雫はいかにも待ちくたびれましたと言わんばかりにだらけた体勢でこちらを見ていたのだ。

「アンタいつの間に…」

そこまで口にして、私はその先を飲み込んだ。
なんたって、どう考えたってついさっきまでこの教室には私一人しかいなかったからだ。
トリック、幻覚、隠し扉。そんなありきたりな考えが一瞬浮かび、すぐに馬鹿馬鹿しくなった。

背中をざわざわとしたものが走り抜け、腹の真ん中を圧迫されるような息苦しさを感じる。
この感覚を言い表すとすれば、蛇に睨まれた蛙、とでもいうのだろうか?

例えば飛行機が離陸する感覚に似ている。
顔も知らない機長に命を預け、飛び立つ瞬間の寄る辺ない不安。
あるいは高層ビルから下を見下ろした時の、めまいにも似た恐怖。

言ってしまえば、死の予感だ。
それをなぜか私は目の前の少女から感じていた。


「………アンタ、本物の蜜原なの?」
「もちろんですよ。なにか変?」

……グダグダ考えても仕方がない。少なくとも蜜原は今、明らかにヤバめで…そいつと一緒にいる私はおそらくもっとヤバい。

「OK。じゃあちょっと待ってなさい」

そう言い残し、さっさと面談室から出た私は、生まれて初めて110に電話をかけることにした。
生徒が悪魔でヤバいなどと警察には言えないが、ラッキーなことに蜜原は元行方不明者だ。
こんなヤバいガキさっさと警察に押し付けて…

『いや、警察は止めてよめんどくさい』
スマホから聞こえてきたのは蜜原の声だった。

思わず通話を切り、久しくしていない全力疾走でその場から逃げ出そうとして、昼休みなのに廊下に誰もいないことに気がついた。
慌てて窓の外を見れば、つい先ほど昼休みだったはずの校庭にも誰一人おらず、物音ひとつしない。
それどころか空は赤々と夕焼けに染まり、遠くの山々の影と空の境は曖昧になっていた。ギギギギという音と共に、その夕焼けは軋み、太陽は地平線で平べったくねじれている。

…あまりに常識外れなことがあった時、私は逆に意外と冷静になれるようである。
赤という色は、他の色より黒に近いな、とふと頭に浮かんだ。
夜よりも深い闇の中に、私は迷い込んだのだ。
心底冷静な頭で、そう思った。


蜜原雫。おそらく今、私の命は彼女に握られているのだ。


「一緒に外、散歩でもする?」
カラリと扉を開け、何がおかしいのかけらけらと笑う蜜原を見ていると、なんとなく言われたとおりにするのが癪だったので、私は面談室に戻った。

いつの間にかそこも、夕焼けの赤々とした光で満ちていた。
「うわーきれい!林檎みたいだねセンセ」

蜜原はそう嬉しそうにはしゃいでいるが、私の胸中は林檎というよりはまな板の上の鯛だった。


「私をどうするつもり?」

椅子に腰掛け、声が震えないように気をつけながらそう聞くと、蜜原は口をすぼめて不満げな顔をした。

「呼び出したのはセンセじゃん」
…言われてみればそのとおりだ。

「…じゃあ聞くけど、なんで自分の席に花瓶なんて置いたのよ」
「センセが驚いてくれるかなってのが八割」

ぶいっとピースサインを突きつけられ、思わずデコピンでもしてやろうかと腕がうずく。
この少女が何なのかも、この三ヶ月で何があったのかもわからない。ただこいつが何をしたいのかだけはよく分かった。私をバカにしたいのだ。

「後の二割はそのまんまお葬式だよ。私自身の」
「…ご両親もあんたも、死んだことには一応なってないわよ。あんたの家もそのままのはずだけど…」
「知ってる。てか私今、自分ち住んでるよ」
「は?いつから」
「ずーっと」
「…あんたの家、警察の捜査入りまくってたわよ」
「うん。ばれないように隠れてました」

つまらなそうに答える蜜原を見て、私もいい加減に覚悟を決めることにした。
身体を捩って座り位置を直し、蜜原を正面から見据える。

「いったい何があったのよ、蜜原」
「別に何もー」
「自称悪魔のくせに子供っぽいこと言うんじゃない。話せる範囲でいいから、この三ヶ月で何があったのか教えて頂戴」
「悪いけど、本当に話せることはないんですセンセ。この数ヶ月の記憶は曖昧なんだ」

蜜原は当然のように長机に腰掛け、背負ったリュックについている小さな作り物の黒い羽をぴょこぴょこと動かしている。

「気がついたらこういう事ができるようになってて、カレンダーを見たら数ヶ月立ってた。しばらく引きこもってたけど、センセに会いたくなって今日出席してみました。騒がれないようにみんなの意識を細工したつもりだったんだけど…」

机の上で大きく仰け反り、中指で私を指さした。

「流石センセ。ちゃんと違和感に気がつくなんて思ったより責任感あるんじゃん」
「…ちゃんと違和感消してくれてたら、お互いこんなとこで時間取らなくて済んだのに」
「私はセンセとおしゃべりできるの嬉しいですよー?数か月引きこもってたし。会話に飢えてます」
「説教のつもりで呼んだんだけど」

私はわざとらしくため息を吐く。
…そしてサラッと口にしていたが、クラス全員の意識を操作していたという発言。
いよいよ馬鹿げた話だが、蜜原はこの数ヶ月で訳の分からない力を身に着けて来たのだろう。

超能力…最近ではチートとか言うのだろうか?

そういう小説やラノベは私自身嫌いじゃない。むしろ学生時代、山田花子なんていう平々凡々を通り越して悪い冗談のような名前をつけられた反動からか、そうした非日常的な物語には心が踊った。

いつか自分にもそんな常識外れな展開が訪れ、まるで違う人生を歩み始める…そんな妄想をしたこともある。

しかし結局、私には超能力は芽生えず、トラックに轢かれて異世界に行くことも無ければ、風呂場で後ろを振り返ったときに幽霊に襲われることもなかった。
世界は全くの正常で、私は順調に大人になった。大学時代、少しでも変化を求めて金色に染めた髪の毛も、すぐに当たり前のものになった。

教員になる時、流石に黒髪に染め直そうか悩んだ挙げ句、結局そのまま面接を受けに行き、数日後に内定通知のメールを見た時、私は現代というもののの懐の広さと底の浅さを思い知った気分になったものだ。
髪を金髪にした程度で、世界は何も変わらなかった。


そして今、私の目の前にはそんな日常から逸脱した、「なにか」に選ばれた蜜原がいるということだ。


…どうしたものか。聞きたいことは山ほどあるが、こいつの態度的にちゃんとした返事が来るとも思えない。
はっきり言って、少し面倒になってきた。

そもそもここに蜜原を呼んだのは、行方不明者の机に花を置くなんていう不謹慎な行動を教師として注意するためだ。だがそもそもこいつが自分で花を置いたのなら世話はない。

「つまるところまともな話をする気はないってことでしょ。じゃあもういいから帰り支度して、今日はとりあえず私の家に来なさい」

そう言うと蜜原は仰け反ったままぱちぱちと桃色の瞳を瞬かせた。

「センセの家に?なんで?」
「今家に親御さんいるの?」
「………いないけど」
「じゃあそんなとこに生徒一人で帰す訳にはいかないの。下着とかくらいは取りに帰ってから、今夜は私の家に泊まりなさい」

窓の外を見れば夕焼けがいまだ赤々と燃えていて、夜の気配は感じられない。

「…そもそもさっきまで昼だったはずなのに…これちゃんと夜は来るのよね?てか私、午後の授業出てない…」

そう呟いて振り返った私の顔面が、両側から乱雑に掴まれ引き寄せられた。


机の上に膝立ちになり、じっと私の眼を覗き込んでくる蜜原の顔はわずかに紅潮し、震えていた。

なにせこいつは顔の出来は大概良いもので、一瞬心臓が高鳴ってしまう。
しかしその後も激しく心臓が暴れる原因は、この自称悪魔にガッシリと掴みかかられているという恐怖からだ。

「待ってなんで!?えっゴメンなんか気に触った…」

「センセ。私、センセのことしばらく誘拐することにしました」

「………はぁ!?」
混乱する私にかまわず、蜜原の親指以外の四指が頬骨の下側を撫で擦る。

最悪なことに、親指がどこにあるのかというと私の両目の上だ。
そっと痛くないように、しかししっかりと私の眼球に蜜原の親指の腹があてがわれた。
すると他の指はしっかりと顎を抱え込み、身動き一つ許されなくなる。
その八本の指が、同じ力が親指に込められた未来を想像させ、私は背筋を粟立たせた。


「私はもう蜜原雫じゃない。悪魔なんですよ、センセ。昼を夕方にできるし、この部屋を誰からも気が付けない空間にできるし、みんなの記憶も常識もめちゃくちゃにすることだってできる」

彼女の顔は今や額が触れ合うほどに近く、垂れ下がり幕のようになった黒と桃色の髪は夕日を完全に遮り、蜜原の顔を暗い闇に沈めていた。
その真ん中で、桃色の瞳だけがぎゅるぎゅると蠢き、何かの惑星のように輝いている。

「でも、もしかしたらセンセも同じかもしれない」
「…は?」
「机の花瓶を見て、センセは私をここに呼びつけたでしょ。あの時私は教室に私がいることの違和感を消してた。あの花瓶だって、誰もそれを変だって思わないようにしてたはずなんだ」

ついに親指が私の両目を覆い、何も見えなくなる。

「なのにセンセは、あの花瓶を見て私をここに呼びつけた。教師としては当たり前の行動かもだけど…あの花瓶は教室に『あってあたりまえ』の存在だったのにね。ちょっとおかしいよね」
「知らないって!アンタの魔法だかが適当だったんじゃないの!?」
「まあ割とそれもあり得るんだけど…正直、私もよく分かってないところありますからね自分の力」

どこか擦れた笑い声と、硬いものが歪むような音が、視界を奪われた分、やけによく耳に響く。
怖い。やはり、こいつは恐ろしい悪魔なのだ。
私は震える歯と歯の間に舌を入れ、恐怖が少しでも表情に出ないようにする。
弱みを見せれば、目の前の少女は嬉々としてそれに付け込み、ついでに私の目に指を突っ込んでくるかもしれない。

「こうやって手をかざして集中すると、ゆっくりと世界を変えられるの。空を飛んだり、時間を引き延ばしたり…私が想像できることは大体できる。自分で言うのもなんだけど、私めちゃくちゃヤバい存在になったっぽい」

そこまで言ってから、蜜原は僅かに言葉を途切れさせた。

「…でもセンセは、何故か私の力が効きにくかった。だから興味が湧いたんです。
もしかしたらセンセにも同じような力があって…一緒にいれば、三か月前、急に私が悪魔になったみたいに…何かが起こるかもしれないって。
そう思ってる時にセンセが家に誘ってくれたからさ、いっそ私の方からセンセを誘拐しちゃえばもっと話が早いかなって」

「いやいやなんでそんなこと…」

そこまで口に出して、私は口をつぐんだ。
蜜原の言っていることはめちゃくちゃ極まりない。だが、その言葉の雰囲気は深刻なものだった。

恐らく本当に、自分の奇妙な力が効かない人間に出会ったのは私が初めてなのだろう。

「…アンタ記憶がはっきりしてからもしばらく、引きこもってたってのは…」
「うん。なにかあるんじゃないかって、待機してたの。悪と戦う魔法少女になってって誘ってくるマスコットが現れたり、同じ様な力を持つ集団が襲ってきたり、なんか…そういうの」

「でも、何もなかった。」
その時ようやく、私は自分の両目を塞ぐ手が微かに震えているのに気がついた。

ふと、初めて目の前の少女が、自分の知っている蜜原雫と一致した。
もしかしたら私が怖がっていた以上に…

「私、ほんとにただ悪魔になっただけだったみたいです。」

この少女は、自分自身を怖がっていたのかもしれない。


そっと両手が離れ、固い笑顔の少女が目に焼き付いた。

「何も起きなかった私の日常に、センセがいることで変化があるかもしれない。だからセンセ、しばらく一緒にいて」
その笑顔のまま、蜜原はそう言った。

「…しばらくって、どのくらいよ」
「……わかんない。しばらくはしばらく」

そこ曖昧なのか、とため息が漏れる。
そういったところも含めて、どうやら蜜原は精神的にはガキのままのようである。
色々子供なりに理屈をこねていたが、要は唐突に身に余る力を手に入れて、それに自分自身でおびえている。そういうことだろう。

そうなった原因も察しは付く。とはいえ蜜原に、馬鹿正直に「両親はどうしたの」と聞くのははばかられた。

なにせ、蜜原が家族に何かしたのは間違いないのだ。
それが故意にせよ事故にせよ…蜜原は自分の家族を失踪させたままにしている。やろうと思えば恐らく、見つけるなりなんなりするのは簡単だろうに。

となれば、蜜原が自分の家族を失踪させた…と考えるのが自然である。恐らくそれが原因で蜜原は自分自身の力を恐れ、それが効かなかった私にこうしてマウント取りつつ頼ってきたのではないだろうか。

…最悪、殺してるかも。そんな想像もありえなくはないこの現状に、改めて身震いする。

(…いよいよどうしたものかしら)

私ははっきり言って、まじめな教師ではない。生徒と自分どちらが大事かと聞かれれば、自分のソシャゲのデイリーの方が大事と答える程度には。

そんな私が現状すべきことは、この情緒不安定な思春期モンスターに愛と道理を教え込むことではなく…

(いかにしてこいつを満足させて私を開放させるか、よね)

最低と言わば言え。こっちはリアルに生命の危機なのだ。
どんなに目の前の生徒が不安に苛まされていようとも、こいつは気まぐれで私を殺すなりペットにするなり、鍋にしてペロリと食べることすら簡単なのに変わりはない。

「分かった分かった…しばらく付き合ってあげるわよ」
結局私は、不承不承といった体でそう言うことにした。
もともと拒否権などないだろうし、それならばあくまでこちらが譲歩した形で話を進める方がいい。

幸いなことに、蜜原はどうやら御大層なチートを持ってはいるが、精神的にはウブなネンネのメンヘラ小娘だ。適当に持ち上げつつメンタルケアしてやれば、手玉に取るのはそう難しくは…

「オッケーそんじゃこれからよろしくセンセ。とりまどっかの教室とセンセの部屋をつなげるから。あ、夕飯も作ってくれるんですよね?私最近自炊サボってたし手料理ならカレーとかで全然いいよ」

スッといつもの表情に戻った蜜原は、勝手なことをまくしたてつつ鞄をひっつかむと席を立った。

「あと誘拐なんだから当然、明日から学校じゃないとこ一緒に巡ってもらうね。」
「………は?」
「空間いろんなとこにつなげられるのホント便利ですよ。センセも行きたいとこあるなら言ってくれていいですけど、明日はとりあえずイタリア行きません?ベネチア行って海キレーにして海水浴とかしてみよっかな」

「待て。待て待て待て待て。私は明日も授業に書類制作とか色々…」
「あ、そういうのはこっちでテキトーにやっときますよ。ほかのセンセーたちから花センセの記憶全部消しとく?私がいればお給料とか無くてもどーにでもなるし」
「………おま……っ………おうっ…」
「うわ凄い複雑な顔。でもけっこー嬉しい感情もあるっぽくてよかった。教師って大変な仕事っぽいですもんねー
まあ暫くはバカンスとでも思ってゆっくりしてよ。もちろん私の命令には絶対服従ですけど」

突如くるくる回りだした口から放たれる、傍若無人だが魅力的な言葉に絶句する私にくるりと背を向け、蜜原はさっさと扉を開け廊下に出る。
慌ててその背中を追ってみれば、外は丑三つ時めいて真っ暗、窓の外は灯り一つない。
呆然とそれを眺めるうち、ハタと私は窓に映る自分の姿に違和感を覚えた。

見た目は特に変わっていない。しかしどうにも奇妙な気がしてよくよく眺めてみれば、なんということか。私の元は黒色の瞳は、いつの間にかトルコ石めいた水色に変わっていた。
心当たりは一つしかない。蜜原がさっきまで触れていた顔の横側が、あざ笑うように痒くなった。

「やっぱ金髪にはそっちの方が似合うって」
あっけらかんと言い放ち、すたすたと歩きだす蜜原。
その背中を見るうち、つくづく私は自分が見誤ったことを悟った。
そもそもこいつは悪ふざけで自分の席に花瓶を置くような奴だ。
多少メンヘラなのは間違いないだろうが…

「てなわけで、『しばらく』。よろしくねセンセ」
思っていた数倍は図太い、小悪魔なのだ。

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そう。思い返せば最初から蜜原はろくでもないガキで、私は彼女のことを見誤っていた。
あるいは私自身、いい気になっていたのかもしれない。蜜原という、世界を変える力を持った少女に見初められ、一緒にいるうちに自分もまた特別な何かかもしれないという悪魔の口車に乗ってしまっていたのかもしれない。

ズキズキと疼く右足の傷口は破けたストッキングと癒着してつっぱり、これがどうしようもない現実だと私に伝えてくる。
廊下ではサイレンが鳴り響き、あの日と同じような赤の光が天井から教室を犯そうとしている。

手にした拳銃は見た目以上に重く、とても持ち上げられる気がしない。そうせねばならないのに。これを持ち上げ…

「ねえ、センセ」

目の前の悪魔を撃たなくてはならないのに。

「100点?」

どうしようもない時、私は冷静になれるようである。
引きつった笑いを唇の端に張り付け、私は小悪魔めいてニヤニヤ笑う蜜原を…いや、ミミ・シェルシェールとか言うふざけた悪魔を見据えた。

「0点よ」

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