天才児 うんこ博士と父はいう
※短編小説です。
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うんこ博士、宇宙を語る
トイレのドアが内側からドンドンと叩かれた。ドアの横に座り込んでスタンバっていた父おれは、新聞から顔を上げる。続いてドア越しに「終わったぁ」という幼児の声が聞こえたので、父は新聞を畳んで小脇に挟むと、よっこらしょと立ち上がり、トイレのドアを開ける。
「出たか」
父の問いに下半身スッポンポンで便座に鎮座したもうすぐ5歳児が、おもむろに頷いた。うっかり汚してはいけないので、彼はズボンもパンツも靴下も、下は全部脱いで用を足すのだ。上に着たTシャツも、後ろの裾はまくり上げて襟首に洗濯ばさみで挟んである。以前、シャツの後ろにうんこをひっつけてしまったことがあるのだ。その時、俺たち父子は同じ失敗は二度と繰り返すまいと誓った。あの後、凄まじく恐ろしかったから。
父が「ほれ、立て」と促すと、息子は足を乗せていた便器の前に置かれた「お立ち台」と父が呼ぶ踏み台の上ですっくと立ち上がった。
このお立ち台は、息子が「大」の用を足すときに置いてやる。足が地に着いていない状態で力んだがために、幼児という若すぎる身空で痔になったらあまりに不憫だ。痔は辛いのだ。息子よ。父は身を以てそれを知っているのだ。涙……。まあ、こちらとしても子供のケツの位置が少しばかり高くなるので、尻ぬぐい作業をし易くなるというメリットもあるのだが。
さて、本日も尻拭い作業をするかと、父が小脇に挟んでいた新聞を水洗タンクの蓋の上に置いたところで、
「あのね、パパ」
息子が少々興奮気味に語りかけてきた。
「ん?」
息子がピンと伸ばした人差し指で便器の中を指し示す。そのポーズに、お立ち台なるものの上でポージングを決めているバブル期女子の姿をふと思い出す父。ああ、でも、お立ち台が流行っていたあたりには、もうバブルは崩壊していたんだっけ。あの頃、父は小学生だったな。景気が、物価が、地価が、円が……とオロオロする大人に自分もなるとは、思いもしなかったなぁ。まあ、まだ夢見る小学生だったし。
そんなことを思い出しながら、息子の指の先を覗くと、少しばかり形の崩れた柔な感じの茶色いモンキーバナナが便器の窪みの水溜まりに寝そべっている。あーよしよし。でも、軟便気味だな。
「ぼく、ブラックホールについてある仮説を思いついたんだ」
便器の中のうんこを指差したまま、クールに息子が言った。
「はぁ?」
息子の唐突な言葉に、思いっきり疑問符を飛ばす。
「今ね、うんこしてて、閃いたんだ」
うんことブラックホールと、どういう関係があるんだ。父の疑問符を思いっきり無視して、というか欠片も気付かぬ様子で喋る息子。正に幼児。語ってる内容は、らしからぬが。
「ほう。どんな」
ふふん。こちらは、そんな日常に慣れっこな幼児の親である。息子のペースに合わせて相槌を入れながら、ヤツの肩を掴み、尻をこちらに向けるように体をくるりと回転させる。父こちらは父こちらで通常の業務を粛々と行っていくのだ。
適量にちぎったトイレットペーパーを手に構えると、息子のケツ周りをチェックする。あ、うんこ、裏腿にまたちょっと付いてる。まずはこれを拭う。
「宇宙の生態について理論立てできたと言ってもいいね」
「生態?」
裏腿のうんこ付きペーパーを便器に放り込みながら父は訊ねる。やっぱり今日は軟便気味だ。手間が掛りそうだ。ガラガラと音を立てて新たなトイレットペーパーを引き出し、ちぎる。息子は、父の発した疑問形に、いっぱしに腕組みし、鷹揚に頷いた。実に堂々としている。チンもケツも丸出しだが。
この幼児らしからぬ会話を展開する息子は、再来月には五歳になる。保育園の年中さんだ。だが、ただの年中さんではない。IQ200超えの超天才児である。と言っても、IQの計算方法はいろいろあるらしく、ある計算方法で200超えでも、他の方法ではもっと低い数値だったりするらしい。それに、幼児期に高指数でも、成長するに従って徐々に下がっていくようなのである。それって、ただ単に一般平均に比して、頭脳が体より先に成長しちゃってるってだけの話なのかもしれない。妙に体だけ年齢よりデカい子ってのもいるわけだし。子供の頃、同い年の子より頭一つデカかった奴が、大人になったら一般平均より頭一つ小さくなっていたって、よくある話だ。「十で神童、十五天才、二十歳過ぎればただの人」って言葉もあるわけだし、期待はし過ぎないようにしている。あからさまに期待して、大人になったら結局「ただの人」になっちゃってたら、赤っ恥だしな。し過ぎないようにはしているが、やっぱりちょっとは期待している。
親のそんな心情を察しているのか、いないのか、当の本人の言動は、如何にも天才児っぽい。ただその気になっているだけかもしれない。公園なんかでよく、子供が戦隊ヒーローなりきりでポーズをキメてるのを見るが、それと同じなのかもしれない。
それでもやっぱり、他の子とは違う(と思う)。確かにずば抜けて知的で、論理的で、頭の回転が速い(と思う)。やっぱり天才なのだ、と思う。ソフトクリームを食わせりゃ顔中クリームだらけにし、時折おねしょも、たまにお漏らしもするが。そして、まだひとりで尻も拭けないが……。
ちなみに日曜日の息子のお尻ふき当番は、父(おれ)だ。頭は天才児だが、まだお尻は自分で拭けない。頭脳に身体その他が追いついていない。アンバランスなお年頃なんだろう。
尻を拭きやすいように、息子の体を少し前傾させる。今日の息子のうんこは軟質だ。ビチグソ風だ。女で言ったらビッチ。始末に悪い。ベタベタとした残りうんこが尻にひっついている。こいつ、何食ったんだろう。気を付けて拭かねば、ビッチな残りうんこをベトっと床に落してしまう。父は、慎重かつ丁寧に仕事(しりぬぐい)を開始する。
息子は、そんな自分のうんこ事情にお構いなしで、尻を突き出したどこかのお笑い芸人のようなポーズのまま、自説を喋り続ける。
「マルチバースって知ってる?」
何だそりゃ。どこかで聞いたことがあるような、ないような。
「マルチバース……」
疑問を若干含んだ、しかし、知らないってわけじゃないんだよというニュアンスを込めた「ほう、それがどうした」的な意味で、オウム返しする。リーマン向け雑誌によく載ってる、知ったかぶり会話術テクニックだな。その言葉や話題について、知らぬと言うことを悟らせずに、意味や説明を相手から引き出す。「ただの人」の父にも一寸の大人としてのプライドがあるのだ。息子よ。
そんな父のみみっちいプライドに気付くこともなく、天才もうすぐ5歳児は素直に父の口先に乗ってくれる。やっぱり、そこは幼児は幼児だ。
「多元宇宙論。宇宙は一つではなく、複数存在するっていう説があるじゃない」
うんうん、ああ、それかという素振りで、適当に頷いておく。
「そして、それぞれの宇宙は、他の宇宙を感知したり、認識したりすることもできず、干渉することもできないとされているけれど……」
息子の解説が延々と続く。父は、息子のケツを拭きながら、うんうんと熱心に頷く。でも、ごめんな。正直言うと、よくわからんわ。いや、全然わからんわ。父パパ、バリバリの文系なんだ。文学部日本史学科卒なんだワ。
ねっちょりうんこを拭った紙を便器の中にそっと捨てる。そしてまた、トイレットペーパーを引き出す。
「ブラックホールって、何でも吸い込むって言われてるでしょ」
息子の解説がようやくにして、父でもちょっとは知っている話に辿り着いた。ただし、この先も父のついていける展開になるかどうかは定かではない。
「なら、反対に何でも吐き出すホワイトホールっていうのも、存在するのではないかという説が出ていていて」
うん。それもどこかで聞いたかもしれない。まだ、大丈夫だ。話がわかる。
それにしても、いくら天才児でも、こんな知識をいつどこで仕入れてくるんだか。保育園じゃないよな。TVか。ネットか。ネット! おい、4歳児がネットかよ。うちのPC、規制かけてたっけ。まずい。まずいぞ。いや、スマホか。いやいや、スマホ持ってないだろう幼児コイツ。あ、母親あいつのスマホか。いやいやいや、母親ヤツは己のスマホを触らせないだろう。ってか、触ったら怖い。怖い、怖ぁ~い。
「でね、うんこしてて、ブラックホールとホワイトホールの関係って、口と肛門みたいだなって思ったの。ブラックホールが吸い込んで、ホワイトホールが出す。口が食べ物を取込んで、肛門が『うんこ』――食べ物のカス――を排泄する。ね、似てるでしょ」
「……あ、うんうん」
息子に同意を求められ、はっと我に返る父。
「だから、宇宙っていうのは、実は一つの生命体のようなものじゃないかって思うんだ。銀河は、僕たちで言う内臓とか細胞とかで。と言っても、当然、僕らとは働きも構造も全く同じじゃないのだけれど」
ここで息子は、振り向いて父を見る。「わかるよね?」という顔だ。うーん……宇宙がオレたちの体と一緒だと? 随分とスカスカなボディじゃないか。イメージ沸かない。よくわからない。でも、面倒なので頷いておく。
前傾尻突き出しポーズで後ろを振り向いている体勢は苦しいのだろう、息子はさっと頭を前へ戻して、話を続ける。
「でね、パパ。ぼくらはうんこをトイレに出すけど、ホワイトホールは、何処へうんこを出すんだろうって思わない? そこで、マルチバース。多元宇宙。宇宙が多重で、それぞれの宇宙は干渉し合わないと言われているけれど、もし、接点あるいは干渉点があるとしたら? そう考えると一つの仮説が生まれる」
息子がまた一瞬、振り向く。父はまた条件反射的に頷く。もう、尻拭きが進まないんですけど。
「ブラックホールとホワイトホールは、それぞれの宇宙の出入口なんだ。口と肛門なんだ。ある宇宙のものをブラックホールが吸い込んで、別の宇宙に開かれたホワイトホールから、それが吐き出される。その吐き出したものを利用して惑星や銀河なんかができる。生物の出したうんこをフンコロガシとかの虫が食べたり、植物や微生物が養分にしたりして利用するようにね。人間はトイレにうんこ出して流すから、もしかしたらイメージ沸かないだろうけど、野生動物は野糞でしょ。その野糞がどうなるか想像したらわかるよね」
大丈夫、よくわかる。父が子供の頃、田舎のばあちゃんちの便所は、まだ汲取り式の、所謂「ぽっちゃんトイレ」だったんだ。自然界におけるうんこの末路については、実体験として知っている。それよりむしろ父は、お前の言葉に、はっとしたよ。昨今の日本の子供は、よほどの田舎の子じゃないと水洗トイレしか知らないんだよなぁ。
「こんな考え方もできるよね。ブラックホールが口で、ホワイトホールが肛門なら、銀河が臓器で、それを構成する星々が細胞……いや、銀河が細胞で、恒星が原子核。その周囲を回る惑星が電子……」
あ。また話がわからなくなってきた。だから、パパ、超ガチの文系なんだってば。ああ~。もたもたしてたら、うんこ、ちょっと乾いてきてるじゃないか。やばい、急がねば。尻拭き業務に集中だ。
「ブラックホールが別の宇宙にあるもの、あるいは別の宇宙そのものを吸い込んで――または宇宙とは存在の概念や構成の違う空間、あるいは次元から、宇宙の元となるものを吸い込んで、自分の宇宙を物理的に作り上げる。そして自分の宇宙で不要になったものを、ホワイトホールから別の宇宙なり、空間なり、次元なりに排出する。……正にうんこだよねぇ~」
うんこという言葉以外はさっぱりわからないが、うんうんと言っとく。
「うんこを出したトイレの汚水は、そのまま海や川に流すと、そこを汚染してしまう。故にホワイトホールから出たうんこも、その排出先の宇宙なり空間なり次元なりを、汚染しているのかもしれない」
ここで、息子はふぅと息を吐く。流石に喋り疲れてきたのか。
「トイレのうんこ汚水は、濾過したり、微生物に汚物を分解させたりして、水をきれいにして海や川に流す、あるいは再利用する。同じように宇宙のうんこも、排出先の宇宙世界に、うんこを食べて分解する微生物に該当するような存在があって、うまく再利用しているのかもしれない」
はぁ、そうですか。うんうん。うんこ、拭き拭き。
「実は、既にホーキング博士が、ブラックホールが並行宇宙の出入口であるって言ってて、ボクも基本、考えは同じなんだけど……」
今度はホーキング博士と来たか。流石に父も知ってるぞ。名前だけはな。あーうんこ、拭き拭き、うんうんうん。
「今説明したように、その先は彼と違いがある」
ほう。彼ときたか。全地球的博士と対等のつもりか。拭き拭き。
「……と思う」
聞き取れるか否かの小さな声で息子が呟いたのを、父は逃さなかったぞ。何だよ、その揺らぎは。まさか、これまで理路整然、滔々と説いてきたことの全てがパクリとか、ファンタジーとかいうなよ。ペテン師かよ。お前、稀代の天才ペテン師かよ。あ。でもやっぱり「天才」。女子高生ならここでハートマークが付く。うふ。
ようやく、トイレットペーパーでのうんこ拭い取り作業が完了する。やれやれ。何となく区切りの付いた気配を察知したのか、息子が振り向き、「まだぁ」と聞いてきた。
「もうちょっと」
仕上げのお尻拭き専用ウェットペーパーを箱から一枚出し、息子のケツを拭く。うーん。こびりついちゃってるところがなかなか取れない。あ、裏腿のうんち付いていた部分も拭かねば。消毒、消毒っと。
「ほんと、何食ったんだ昨日」
本日の息子の軟便っぷりに、思わず呟いた。
「…ごめん、パパ。ママのキャンディー食べた」
不安そうに息子が告白した。あちゃー。やはりそうか。父ならまだいいが、母ヤツがうんち拭き当番だったら、ガンガン……いや、キンキンと超音波でめっちゃ怒られ案件。
説明しよう。ママのキャンディーというのは、超ヘビー級便秘体質野郎ママが便秘解消専用ツールとして常備しているノンシュガーキャンディーのことである。砂糖の代わりにマルチトールやソルビトール、スクラロース等の人工甘味料が使用されており、これには緩下作用がある。そのため奴ママが下剤代わりに使用している。腹を壊しやすい体質の場合は、多食は控えた方が良い。ゆえにデリケートな腹の父子われわれは「ママ以外は食べちゃダメ」と厳命されている。以上、説明終り。
「オレンジのがね、キラキラしてすごく美味しそうだったんだ」
天才児と言えども、まだ幼児である。仕方あるまい。
「桃のも」
2個食ったのか。あちゃー。緩くなるわけだ。
「こうなることは、わかっていたんだけどね」
と呟く息子は、ちょっとうなだれている。
繊細な父子と違って、奴ママは超ヘビー級の便秘体質だから少々のことでは腹を下さない。冷たいものを多少食べ過ぎても、少々古くなったものを食っても、全然びくともしない。だから何でもかんでも食う。そして無料ただなら何でも貰う。試供品、テッシュ、割引券……何でも受け取って、バックに入れて溜め込む。で、忘れて使わない。クソも溜め込む。クソで腹パンパンでも、甘いものは別腹と称してスイーツは口に詰め込む。バクバク詰め込む。そして腹に溜め込む。ああ、だから太るのか。膨張しっぱなしなのか。でも、愚痴は溜め込まない。性格なのか。クソを溜め込む体質だから、性根もクソなのか。性格が体質を生むのか。いや、体質が性格を生むのか。卵が先か、鶏が先か。なぜ俺は、そんな女ヤツと結婚した。
ここではたと気付く。あいつ似てないか? アレに。
『物は何でもかんでも吸い込む、食う、貰う――ブラックホール。愚痴は何でもかんでも吐き出す――ホワイトホール』
食ったもんや吸ったもんを体内の特殊な微生物で分解して、愚痴に変換して吐き出す。『ひとりブラック&ホワイトホール』だ!
「パパ、ママのこと思った?」
「えっ」
ヤツのあれやこれやに意識を持って行かれていた父は、はっとして目の前に意識を戻す。息子がこちらをじっと見つめていた。
「もしかして、ぼくと同じこと?」
「……」
「ママってさ、宇宙みたいだよね。何だか」
おお、息子よ! お前もそう思ったか。
「膨張する宇宙。膨張するママ。宇宙はかなりのスピードで膨張しているといわれているけれど――光の速さを超えてるって話もある。で、ボクは思うんだけれど、その宇宙にあるブラックホールとホワイトホールの規模やパワーの違いで、膨張速度の速い宇宙、遅い宇宙があるんじゃないかって。それに、ホワイトホールの吐き出した宇宙のうんこを出した先の宇宙が利用できるよう消化や分解する微生物とか、フンコロガシのような働きをする物質の有無や多い少ないとかでも、膨張の速度が変わってくると思うんだ。ほら、よく食べる人は太りやすいでしょ。でも、よく食べるけど、お腹をこわしやすい人は、そんなに太りやすくない。よく食べて、うんこが出にくい人は、やっぱり太りやすいじゃない」
「「それって、ママみたい」」
声がハモる父子鷹。嬉しそうに「ふふふ」と笑う息子。おお、愛息よ!
おい母つま、お前にこの父子の以心伝心がわかるか。やっぱりこの子は、父の方がいいんだ。好きなんだ。いつも「あのね、パパ、聞いて聞いて」って父と話したがるし。
「ママはね、ちょっと知的なお話をしようとしても『そんなお喋りしてないで、ほら早く!』って、ちっとも聞いてくれないんだもの。『そんなお喋り』ってひどくない?」
だってよ。はっはー。
「お尻拭くときもね、ママはぼくの話は聞かないで、ずっとブチブチ文句言ってるだけなんだもの。お尻拭きもパパがいいな」
父おれは、その辺の子供と遊ぶだけのなんちゃってイクメンとは違うのさ。子供のお話にも付き合えるし、うんこ処理もできる。父子おれたち二人だけでも生きていけるんじゃないか。奴ママいなくても大丈夫だよな。
「でも、パパのご飯はねぇ……ママのがいい」
がーん!
「おいしくない」
ど、どれが。どの辺が。
「カレーとか。何か変なの入ってる」
カルシウムも摂らせようと、煮干しを入れたのがマズかったのか。
「チャーハンに黒いねばねばしたのとか。あれ、昆布?」
海藻を食べなきゃと父は思ってだな。
「パパ、よくそれで一人暮らししていたね」
しょぼん。自分でもそう思う。ああ! そうか。それで奴に胃袋つかまれて欺されたのか。息子よ、お前は大人になって結婚して、後からしまったと思わないように、料理は上手くできるようにしろよ。いや、先ず父の料理の腕を磨こう。夫婦なんて、いつ何時どうなるかわからんのだからな。所詮、他人だし。でも、子供は違う。父の料理の腕前が悪かったがためだけに、愛息と生き別れるはめになるなんて、冗談じゃない。頑張れ父。父子おれたちの幸せのために。
「で。話は戻るけど」
息子が急に顔を引き締めた。回想と妄想の狭間から現実に引き戻された父も、つられて思わず顔を引き締める。ほんと、こういう話の振り方がただの幼児じゃないよなぁ。やはり天才。父は、もう一枚ウェットペーパーを取り出す。
「ぼくの仮説、どう思う。パパ」
「うん。いいんじゃないか。すごいよ」
よくわからないけど。っうか、全然わかってないけど。息子は、ふふんと嬉しそうな笑いを漏らす。
「結構イケてると思うんだ。自信があるよ」
さっき、密かに揺らいでたけどな。子供って切替えが早いよな。
「でもね、ぼく、天才とか言われてるけど、まだ4歳でしょ。もうすぐ5歳だけど。博士とかなわけじゃないし。発表しても、社会は、本気でぼくの説を取り上げてはくれないと思うんだ」
社会という言葉が4、5歳の幼児の口から出ると、やっぱ違和感あるな。普通、幼児は使わないだろう。そこがやっぱり天才なんだな。
「だから、これを小説という形で発表しようと思うんだ」
「ええっ。小説ぅ」
随分と突拍子のないことを言い出した。
「うん」
軽々と息子は頷く。
「4歳児――5歳でも良いけど――の書いた小説なんて、絶対、話題になるでしょ」
そりゃそうだ。間違いなくバズる。
「タイトルも決めてある」
どんな?
「うんこ宇宙の旅」
昭和の小学生か、そのタイトル。正直、ダセえ。思わずぷっと吹き出す父。
「ふふ。面白そうでしょ。話題性と相まって、売れるよ。絶対」
「そうだな」
相槌を打ちながら、息子の尻にこびりついているうんこカスを擦る。なかなか取れない。ちょっと強く擦る。
「痛いぃ」
「おっと、ごめん。うんこが乾いてこびりついちゃってて、なかなか取れないんだよ。ちょっと我慢な」
ゴシゴシ。う~と息子が嫌そうに唸る。仕方ないだろう。我慢しろ。天才児。
「ホワイトホールのケツにも、うんこがこびりついてんのかな」
息子の気を紛らわせようと何気なくそう言うと、息子が叫んだ。
「パパ! すごい発想だよ。そういうことがあるかもしれない」
ほう、父の発想すごいか。天才に認められるほどに。
「いや、ないかもしんないけど」
何だよ。ほめて落すのか。
「でも、もし、そういうのがあったとして、そのこびりついた物質を見つけることができたなら、ボクの仮説を証明する糸口になるかもしれない……そうじゃないかもしれないけど」
どっちなんだよ。
「まあ、どっちにしろ、そういう風に発想していくことが科学なんだ。パパ、発想力はあるんだねぇ」
料理は下手だがな。そうか、わかった。父、発想力が高いが故に、料理が独創的過ぎるのか。天才児の父(おや)だもんな。
よし、こびりつきうんこ取れた。あとはうんこが付いてた裏腿部分も含めて仕上げに全体を拭いて終わりだな。父は使用済みペーパーを便器にポイして、新たな一枚を出す。
新しいのを構えたところで、息子が叫んだ。
「あ。そうだ。ぼくの小説が売れたら、次にパパとママの育児本を出したら良いよ。っていうか、出すの」
お。確かに。天才児の親が本出すのって定番中の定番だな。母(ママ)は余計だが。奴が絡んだら、話があちこちにとっ散らかって、まとまり付かないだろう。父パパだけでいいんじゃね?
「ベストセラー間違いないよね。これも」
息子、ビジネスの才能もあるんじゃないか。
勢いよく息子が振り向いた。目があった。尻を拭く父の手が止った。
「ビジネス書……」
息子が呟く。おお! 息子よ。またしても以心伝心か。この天才児は、間違いなく商才もある。早熟な天才科学者にして天才ビジネスマン。ジョブスみたいだな。いや、ジョブス超えするかもな。
「ビジネス書か。ちょっと分野違いだけど、まあ、ボク、天才だし」
これも間違いなく売れると、息子は小さな鼻から荒く息を吐く。
小説、子育て本、ビジネス書。マルチだな。マルチにビジネスを生み出す……これぞ正しく「マルチバース」じゃないか! すごいぞ息子。
「マルチバースってそういう意味じゃないけど。でもまあ、ビジネスのマルチバースって言えなくもないか」
そう言っちまえ。その方がウケるぞ。
「うん。そうやって引っかけた方が本も売れるし、ボクの仮説も人目を引くし。いいんじゃない」
そうだ。イケる。売れる。ばかばか売れる。
「ははは」
「ふふふ」
笑いが漏れる。期待が否応なく熱く膨らんでくる。
「「うわっはははっ!」」
笑い声が大きく弾けていく。大金持ちだな、父子おれたち。
「ちょっと!何トイレで馬鹿笑いしてんのよ! もたもたしてないで、ケツ拭いたらさっさと出てきなさいよ!」
我が家のブラックホールが超パワーで発動した。父子の熱い野望は、一瞬にして吸い込まれ、しんとした沈黙がトイレの小宇宙に残された。
後日談。
父は、それから天才幼児の息子をトイレタイムに「うんこ博士」と呼ぶようになった。息子はその名で呼ばれると、ニヤニヤとしてまんざらでもないような顔をする。幼児は、「博士」というハイスペックな印象の言葉に「うんこ」というお笑い要素が加わって、面白いと感じているようである。
母はその度に顔をゆがめ、時に「男ってバカよね」と呟くのであった。
〈了〉
(後書きという名の余談)
「十で神童、一五で天才、二十歳過ぎればただの人、四十過ぎたらダメな人。おまけ五十で窓際に、六十過ぎればゴミな人……」
定年亭主を女房どもが「粗大ゴミ」と言っていた平成の世の格言。ただし、自分で勝手に作ったものだが。
今は、定年が六十五になっちゃってるところが多いし、定年後も人手不足と年金目減りで(ゼロになる日も近い)家でゴロゴロなんてしてられない死ぬまで労働時代がやってきつつあるから、定年後の人間は「粗大ゴミ」ではなく「リサイクル品」って言われそう。