僕の愛染明王観(1)
愛染明王というと、恋愛の仏さまとか、愛のキューピットとか言われることがある。でもその割には怖い顔をしている。
僕の師僧の寺の愛染明王は、僕が見た愛染明王のなかで最も怖い顔をしている。どうしてこんな顔して恋愛の仏さまって言えるの?って僕は小僧としてご飯やお茶を運びながら思った。
そしていつのまにか僕は念持仏として拝むようになっていた。年がたてば経つほど、この仏さんとの出逢いは、僕にとって宿命のように思えてならない。
ただ、残念なのは、愛染さんはみんなに誤解されているのが残念でならない。
で、結論からいうと、愛染明王は恋愛の仏さまでも、縁結びの仏さまでも、愛のキューピットでもない。とんでもない勘違いなのだ。
愛染明王は、愛欲という欲望の中でも強力かつ厄介なものを清らかな浄菩提心に変えるという。仏さまなのだ。
愛染明王は、頭の上に獅子を頂いている、その獅子の頭には五鈷がある。その五鈷の根本に鉤がついている。この鉤で激しい愛欲を引っかけて獅子が食らうのだ。
食われた激しい愛欲は、あの忿怒に満ちた表情で抑えられ、三つの仏の目によって冷静さを取り戻し、やがて浄菩提心になる。
その浄菩提心は、五鈷鈴を打ち鳴らし、五鈷杵によって人の欲望を抑え、冷静なこころの弓に智慧の矢をもって射貫かれる。
ざくっというと、そういう手荒いことをする仏さんなのだ。だからあの形相で、弓矢を持ち、五鈷鈴と五鈷杵を持っているのだ。
恋愛成就?んなおめでたい仏さんじゃない。かなり手荒い扱いをする仏さんなのだ。
ところが、最近作られる愛染明王のなかには、獅子の上にある五鈷の根本にあるべき鉤がついてないものがある。愛染明王を知らない人が作るとこういう駄作となる。
実は僕は仏師は愛染明王を作りたがらないという話を聞いたことがある。なぜなら愛染明王を彫った仏師は寿命を縮めるという迷信があるそうなのだ。
そんなの迷信と片付けてしまえばそれまでなのだけど、そのくらい愛染明王って強力で手荒なことをする仏さんなのだ。
と、ここまでは、おもてむきの密教の教え。でも僕は仏さまって僕らの心の外にあるものではないと確信している。空海さんが・・・
仏法遥かにあらず心中にしてすなわち近し
と言っているように、仏は僕らの心の中にある。もっといえば、僕らは仏そのものであり、僕らの周りに居る人、あるものは、すべて仏だって。僕はそう思っている。
だけど、仏である僕ら人間は、けっこう厄介な仏だ。こころは思い通りにならないし、世の中は不条理に満ちている。
そもそもこういう厄介な出来事の根源には、他者を尊重しない、自分勝手な僕らのこころが諸悪の根源とも言える。とってもわがままな心のエネルギー源が愛欲。
この愛欲をコントロールできれば、いろんなことが上手く行くと思うんだよね。とくに歪んだ自己愛がコントロールできれば、僕らはもっと快適に居られるはずだ。
でもそれはとても難しい。愛欲をコントロールするのは、かなりの冷静さと透徹した見識と、かなりの豪腕が必要だと思う。それがあの愛染明王の忿怒の形相と、冷徹な三つの目と、強弓という表現なのだろう。
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