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Dave Neimanとの出会い

 1987年全米ハンマー ダルシマー・チャンピオンの「デイブ・ニーマン」が20年振りに来日する(2024年9月)。

 「 魅惑の音色!ハンマー・ダルシマー ライブ!」

◆出演:デイブ・ニーマン(from U.S.A.) &  亀工房
         
◆日時:9月29日(日)15:00開演   ◆料金:投げ銭+1ドリンク

◆場所:MAUMAU coffee(北杜市高根町清里3545-368)

◆予約・お問い合わせ:マウマウ コーヒー 
  または kamekobo45@gmail.com まで 

 彼はニューヨーク出身で長年、ボストンのケンブリッジに在住。ケンブリッジはハーバード大学の街。
 デイブとは1987年(…37年前!)、アメリカ・カンザス州ウィンフィールドで毎年開催されている有名な音楽フェス「ウォルナット・ヴァレイ・フェスティバル」(since 1972) の会場で、彼がその年のハンマー  ダルシマー・コンテストの第一位(チャンピオン)に「コール」された瞬間に?知り合った(笑)
 ちなみに僕はその時、そのフェスの名物である「ナショナル・フィンガーピッキングギター・コンテスト」に出場するためにはるばる日本からやって来ていたのだった。
 デイブは当時から「いつか日本に行きたい!」と言っており、フェス会場で見かけたアジア人のボクを「たぶんアイツは日本人だろう!」と思って探していたとの事。4日間で延べ10万人は出入りすると云われている「ウォルナット・ヴァレイ・フェスティバル」だが、その大勢の参加者の中で自分はおそらく唯一のアジア人だった筈で、当時は中国や韓国なんかのアジア人がそんなアメリカのど真ん中で開催される、白人ばかりの音楽フェスに来るわけがない、と思われていたようだ。「こんなフェスにわざわざやって来るモノ好きは日本人ぐらいだろう」というわけだ。実際、ここで知り合った人に「キミが初めて会った本物の日本人だよ!」と言われることが結構あったし(ニセモノの日本人って居るのだろうか・笑)、アメリカ各地へのその旅の中で同じセリフを何度も聞いたのだ!
 そんなわけで、デイブは僕を見つけようと、広大に拡がるフェス会場の各エリアを繋ぐコンコースのようなメイン・ストリートに張り込んで、そこを通る人、人、人を観察していたようだ。かくして、まんまと通りがかった(笑)僕をデイブが呼び止め、「ヘイ!キミを探していたんだよ!」という彼は…レイバンのサングラスに無精髭、長髪という出で立ちだった。自己紹介がてら話をしている最中、突然「ちょっと待って!今、大事なアナウンスがあるから…少し緊張してるんだ」というのが、最初の「さて、第一位は…」とデイブがコールされる場面。彼がナショナル・ハンマー ダルシマー・チャンピオンに輝いて、最初に「おめでとう!」と言ったのは僕だったのだ。その時は連絡先を交換してウィンフィールドで別れた。

 その後、僕がアメリカから帰国した1990年の秋頃?にデイブが初来日して再会。久しぶりの彼と日本で会っている、というのも不思議な感覚だった。色々と話している中で「どこか路上で演奏できるところはない?」と彼が言うので、僕の地元である「上野の山」に連れて行った。(地元民はこう呼ぶのだ 笑)
 当時は今の東京都が主宰する「ヘブンアーティスト」の制度ができる遥か前。大道芸をする人もまだまだ珍しかった時代で、演奏を始めると瞬く間に人だかりができた。しかし、間髪入れずに露天商のお兄さんが文句を言いにやって来た(笑)「コラ!おまえら、ショバ代払ってねえだろう!」というわけだ。演奏を聴きに立ち止まった人たちも、事の顛末を見守っている(笑)。交渉の末?お兄さんが「まぁココらならイイんじゃねえか!?」という場所で再び演奏を始めると、またすぐに人だかりができて、聴いてる人たちからどんどんと投げ銭が入り、30分も経たない内?にぱっと見にもかなりのおカネが入っていた。当然、生音だったから、聴衆の人垣がかなり近かったのを覚えている。
 入った投げ銭も気になるし(笑)、上野は物騒なところでもあるので、デイブに「一回、カネを数えるか!?」と合図を送り一旦演奏を切り上げて、東京文化会館の裏手に行って2人で投げ銭を数えた…。
 デイブよりも日本の通貨に詳しい(笑)自分が主体的に数えたのだが、
…結構な金額になっていた。それもあっという間に。
 ボクもアメリカ時代にストリートで演奏したことがあったのでわかるが、向こうでクォーター(25セント)コインを投げ入れる感覚で、日本では100円玉が投げ銭されるのだ。また、日本ではお客さんの方も「投げ銭」という行為に慣れておらず、また他の人の目も気にするからか、500円玉もたくさんあったし、大盤振る舞いで千円札もばんばん入っていたのだ!
 思わずデイブと「やったー!」と顔を見合わせたのをよく覚えている。
ちなみに冒頭の写真は、東京のどこかのお店で演奏した時のもの。どこだったか全く覚えていないが、写真だけが残っている(笑)

 それ以来、デイブは日本によく来るようになったらしい…?
(味を占めた?笑)
と、いうのもボク自身はその後、沖縄の南の八重山諸島に長らく滞在したり、その果てに所帯を持ち、地元の東京を離れて八ヶ岳山麓で暮らすようになった。長女も生まれて忙しい日々の中で、その後のデイブの動向を気にする余裕もなかったし、それを知るすべもなかった。当時はインターネットも一般にはほぼ普及していない時代だった。
 その後、風のウワサで「東京の街かどでハンマーダルシマーを弾くガイジンがよく目撃されるらしい」という話が聞こえてきた。それを耳にして
ニヤリとしつつ「…デイブに違いない!」と思いながらも、八ヶ岳山麓での日々の生活は忙しく、また彼がいつどこに出没するのかもわからないので、中々、会いに行くことはかなわなかった。

 そうこうしている内に数年が過ぎ、赤ん坊だった長女もだんだん大きくなって、自分たちの生活にも少し余裕が出てきた1995年。今となっては、それをどうやって知ったのか皆目思い出せないのだが、ひょんな事からデイブのコンサートが埼玉であると知って、用意万端に備えて山梨から出かけて行った。開場時間よりもだいぶ早めに会場に到着すると、懐かしいデイブの姿があった。(若い頃の5年は長い!今の5年はあっという間だが 笑)
「デイブ!」と声をかけると、不意に現れた僕に驚きながらも、「?!?!?!ヘイ!カツノリ!」と、再会を喜んでくれた。
 そこで色々と話を聞いたところ、あれ以降も彼は定期的に日本にやって来ては東京のあちこちの街かどで演奏して、おそらくは東京に用事があって上京してきた日本各地の人たちから声をかけられ、それこそダルシマーを抱えて、日本全国に演奏に出向いていたそうだ。
 その後、ボクらが「亀工房」として演奏活動を本格化させて日本各地でコンサートを行った際も、ハンマーダルシマーを見て「デイブ・ニーマンさんのコンサートを見たことあります!」というお客さんにたくさん会ったし、デイブを呼んでコンサートを企画した方々に亀工房のコンサートを企画して頂いたこともあった。 ある意味、当時、彼は日本で一番有名なハンマーダルシマー奏者になっていたのだ。
 さて、そんな楽しい再会の嬉しいひとときを過ごしつつ、久しぶりのデイブの円熟した演奏を楽しんだのだった。

 今、当時を振り返ってみると、その頃は情報が少なかったし、個々の連絡手段も限られていた。しかし、だからこそ個々の感性や感覚は研ぎ澄まされ洗練されており、こういう出逢いや再会といった、ちょっとした出来事が心を大きく動かす喜びとなって、それぞれの忘れられないライフイベントのひとつになっていたんだろうな…。

 歳を重ねて、身の周りで友人知人身内がこの世を去ることが増えてきた。
そういうことが普通になってくると、今、ここで自分が元気でいられることが何より有難いことだと実感する。そんな中、20年振りに遠く離れて暮らす友人と再会できて、共に音楽できることが本当に楽しみである。

 












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