見出し画像

科学との出会いをもとめて 第五章 文明


1 迷信

イワシの頭

 「イワシの頭も信心から」ということばがある。なかなかワサビのきいたくすぐりだ。むろんこのことばができたのは、イワシが下魚げざかな中の下魚だった時代のことであろう。

 とにかく、あのにごった目玉の、何の思わせぶりすらもないイワシの頭が信心の対象になることもあるというこっけいさを、信心といういたって厳粛なものにもちこもうとしているのだから、昔の人もすみにおけないと感心したくなる。

 そんな減らず口をたたく筆者も、イワシの頭をおがむ人を見て、冷笑をあびせる気持のもちあわせはない。信仰の自由は、もともと憲法で保障されるより以前から、人類のものだったからだと、大見得を切っておこう。

信心と健康

 信心というものは、まことに妙である。同じような顔をして、同じような家庭をもち、同じような仕事をしている人たちが、まるでちがったものをおがんでいる。おまけにその対象について、互いに悪口をいったり、けなしあったりしている。

 とにかく、信心というものは理屈ではない。イワシの頭に理屈がなくても、いっこうさしつかえはない。他人に迷惑をかけることなしに、それをおがんで満足できるならば、こんなけっこうなことはないではないか。満足や感謝は、心身のストレスを解消して健康をきずく特効薬だと大生理学者セリエの説教にあるではないか。

持ちつ持たれつ

 「持ちつ持たれつ」は、どうやら社会の原則のようだ。ところが、くせ者がこんなところから忍びこんでくる。

 イワシの頭を信心していない人にむかって、イワシの頭をおがみなさいと、強要に近いことをいう人がいる。そして、イワシの頭を信心すれば、あなたの病気はなおるとくる。

 こういうことをいわれると、たいていの人はぐっとこたえる。いわゆる抵抗というやつが頭をもたげるのだ。

 抵抗の心境では、どんなにありがたいものをおがんだって、とてもストレス解消どころのさたではない。そして「イワシの頭なんて迷信だよ」とわめきたくなる。

迷信は違憲か

 「迷信」という字を分解してみると、まよい信じるとなるようだ。しかし、まよわずにおかしなことを信じこんでいる人は珍しくない。それこそが迷信の名にふさわしいように思えるではないか。

 迷信とはどうやらまよって信じるというよりも、まちがいを信じることであるらしくなってきたようだ。

 まちがいを信じることは、べつに憲法にそむくことではないだろう。そうだからといって、それを他人におしつけてもかまわないということにはならない。何かを信じることの強要は、信仰の自由の侵害という行為となるから、どうも違憲くさいにおいがする。

 諸君、だれかに迷信といわれそうなことをおもちの方は、どうかそれを自分の腹にしまいこんで、他人に押し売りすることをつつしむことにしていただきたい。

 その心得のもとでは、どんな大迷信もおそらくだれにも物言いをつけられずに命脈を保つことだろう。

キツネつき

 筆者の親戚に、おかしな食生活を信心した一人の娘がいる。この娘は「ハエつき」になった。ハエがいつもつきまとうといいだしたのだ。ごていねいに、このハエは娘の父親を殺したハエで、それがつきまとっているのだと、現実に一匹のハエを示してくれた。

 頭の働きが脳の栄養によって重大な影響をうけることをしらされたのは、このときのことだ。栄養障害の脳は、ハエに人語をかたらせるのだから恐れいる。

 いつかの新聞に、病気の子どもからキツネを退散させるのだといって、これを圧殺した事件が報道されたことがある。殺人をおかした老婆は、この子をキツネつきと信じ切っていたのだった。

 食生活に気をつけないと、キツネばかりかハエまでがはびこる恐れがあるようだ。

迷信の判別法

 キツネつきと称せられる不幸な人がどこかにいるならば、人間にキツネがつくという現象は、うそかまことかという問題をたててみたくなる。うそならば、これは迷信ということにして、その信心とのおつきあいはやめておくのが賢明というものだろう。

 うそかまことかという問題は一すじなわではいかない場合が多い。しかし、解く方法はわかっている。

 ワクチンを注射すれば、ひどいインフルエンザを免かれるという説は迷信ではない。なぜかといえば、抗体というもので、注射と免疫との関係がたどれるからだ。

 この関係がたどれるかどうかで、迷信か迷信でないかの判別ができる。キツネと病気との関係をすじ道たててたどることができなければ、何としてもキツネつきを迷信としなければならなくなる。

 むろんこれは科学者の考え方だ。だから、科学を信用しない人に、この判別法はとおらないだろう。

農業北海道 一九六四年一月

2 合理主義

泥棒の場合

 数年前のある夏の夜、私の家に泥棒がはいった。その泥棒は、あとで刑事がいったとおり、ベストテンにはいるほど厳重な戸じまりを破って、家人を感心させた。

 泥棒はまず東半分に侵入して五、〇〇〇円を手にしたのち、さらに西半分に侵入したところを家人にみつかって、ゆうゆうと退散した。ドイツではないが、東西の交流を拒否するために、この家にはドアがあって、それに鍵がかけてある。

 この事件で筆者は、泥棒が見上げた合理主義者であることを教えられた。

忍びの原理

 侵入口は台所の出窓だった。ここは丈夫な鉄格子でかこってある。泥棒はポンプがかかるときにモーターの音にかくれてビスを一本一本抜き、格子の下半分を上にまくりあげた。そして、その内側のガラス戸を、鍵でとじつけられた状態のままはずした。この出窓を上下に仕切るパイプ類の棚には、鍋やボウルなどの金物がならび、流しにつづく下段には、びん類がぎっしりならんでいた。

 泥棒は金物にはさわらず、びんのほうを運びだして、台所の外のへいぎわに一列にならべてから、パイプの棚にさわらないように、用心深くその下をくぐって台所の床にはいりこんだ。それから台所の出入口をあけはなち、ぞうきんで足をふいた。

その合理主義のみごとさよ!

泥棒の行動

 この家では、すべての部屋が鍵で孤立する構造になっている。本来ならば、泥棒は台所から一歩も先へは進めない。その夜に限って、応接間につづくドアと、応接間から食堂へのドアとに鍵がかけてなかった。

 泥棒はそのルートによって食堂から二階にあがった。そこに、お手伝いさんとスクーリングの女子学生とがいた。二人になったせいか、お手伝いさんは鍵をかける手数をはぶいた。泥棒は、女子学生の枕元のかばんから現金をぬきとった。

 泥棒は本部が別の室であることを見てとると、いったん庭にでて、すべての戸をドライバーでこじあけてみた。すると、一つだけ小窓があいた。鍵のかけ忘れだった。
泥棒はここから本部に侵入した。

経営者の場合

 会社のような企業体では、調子が悪くなったとき、強力な競争相手ができたときなど、合理化という手をよく使う。それは、労働者の側からすれば、首切りとか給料のダウンとかの別名にひとしいことが多い。経営側はこれによってこそ荒波がのりきれると考える。

 科学の特性の一つとされてきた合理精神は、泥棒や冷血経営者の武器ともなる。泥棒はしっかりした合理主義を身につけていなければ盗みの目的を達することができない。詐欺だってそうだ。経営者が自分の利益をはかるについても、泥棒につうじる精神が要求される。

合理ということ

 合理とは、文字でいけば理屈に合うということになる。泥棒でも経営者でも、いやどんな人でも、理屈に合わせた行動をしなければ、目的を達することはできないにきまっているといえるだろう。

 忍びのコツが物音をたてないことだぐらいの理屈は、理科教育などうけない人にもわかる。ネコだってそのくらいの理屈は心得ている。

 徹夜は翌日の仕事にさしつかえることがわかっていて、徹夜でマージャンをする人がいる。酒をのめば暮らしが苦しくなることがわかっていて酒びたりの人がいる。この種の現象に目をつけて、人間は不合理な存在だなどと公言してすましている人はなかなか多い。しかし筆者は、人間は合理の存在だと思ってみたい。合理が理屈に合うという意味ならば、科学はその理屈を探究するものだともいってみたい。その理屈にはネコでも知っている自明のもののあることは、盗みや首切りの例でよくわかる。

目的と理屈

 科学はもともと、火をつかめばやけどをするとか、米の飯はほうっておけばくさるとか、イネはイネの種からはえるとか、吹けば飛ぶようなわかりきった理屈からはじまっている。合理の「理」はこんなものといってよい。合理の理は合理そのものとはちがう。合理は科学の特性ではない。合理はむしろ、科学から切りはなしたくなるしろものだ。合理精神なら、人間には生まれつき身についている。

 私は、合理ということばを<合目的>ということばに変えてみたいと思うことがある。首切りの意味での合理化は、企業を理屈に合わせる操作というよりも、人件費を切りつめることを目的とする操作と見るのが正しいと思うからである。盗みや首切りを合理精神の成果とするような考えかたをとると、へんな屁理屈までが理屈のなかにまぎれこんでしまって、科学が理屈の探究だなどといったら、笑われるようなことになるだろう。

農業北海道 一九六四年四月

3 先取りの論理の欠落

 田中内閣の支持率が、成立当初の六二%から二二%へと、じつに四〇%の落ち込みをみせたことが、昨年末の世論調査によって明らかになった。この現象に対しては、本来支持すべき価値のなかったものを価値ありと見誤った人が四割もいるという見方もありうるだろう。そしてまた、田中内閣の性格が短時日のうちに著しい変貌をとげたという見方もありうるだろう。一方、内閣の側には、これほどのちょう落の予想はなかったにちがいあるまい。

 いずれにせよこの重大な事実の背後には、われわれ国民にも田中内閣にも、先見の明というか、先取りの論理というか、今日最も切実に要求されている要素の欠落のあることを、率直に承認しようではないか。

 現内閣が発足したときに首相が表明した言葉を私は一日も忘れることができない。それは〝百年の計〟という言い古された言葉であった。誇張ではなしに二一世紀の存在が問題になっている今日、百年の計を樹てうる人物など、鐘と太鼓で全世界を探し求めてもいるはずがない。それをあえて口にしたところに首相の決意をくみとるべきであったかもしれないが、私にとってそれは余りにもうつろにひびいた。先見の明、先取りの論理の欠落の印象がただただ強かったのである。

 昨秋開催されたローマクラブ東京大会の席上ガポール博士は、日本が石油を輸入できるのは今後二〇年だろうといった。それは、輸入量が先細りになって二〇年後についにゼロになるという意味に理解すべきである。このガポール博士は産油国の代弁者でも何でもない。客観情勢に対する分析のうえの計算を示したにすぎないのだ。ということは、ガポール博士を煩わすまでもなく、われわれもまた同じ判断ができるということである。そしてここには、先見の明などと気取る必要はないが、先取りの論理がある。

 例の日本列島改造論において石油輸入量の増加が見込まれていることは周知の事実であろう。昭和六〇年に現在の四倍近い原油の消費がもくろまれている点が国会で取り上げられたとき、首相はそれが経済成長率のパーセンテージに左右される性質の数字であり、何でもかんでも四倍を固執するものではないという意味の答弁をしている。それにしても、基調に輸入量の増加のあることは否定できないだろう。そしてそれが先取りの論理を欠如するものであると、私はいいたい。石油輸入量の減少はすでに現実のものとなって、われわれに目にもの見せているのではないか。
警視庁は最近バスレーンの大幅延長の腹案のあることを示した。この種の発想は美濃部都知事のものであったはずだ。そしてそれを当時は警視庁が反対したものであった。革新思想の特質は一般に先取りの論理であって当然なのである。

バスレーンの延長という先取りの論理は革新側から提出されたがゆえに圧殺され、冷却期間をおいて権力側からあたかも自前のものであるかのごとくしてそれが提出されるというメカニズムは、体制における先取りの論理の貧困を思わせるばかりでなく、先取りの論理を後追いの論理に転落させる悲しい現実を思わせる。
後追いの論理におかれた国民は、底知れぬ深淵におびえつづけなければならないのだ。

東京タイムズ 一九七四年一月十五日

4 敗退する日本の精神主義

 先般ベオグラードで開催された世界水泳選手権大会で、オーストラリアの一五歳の少年スチブン=ホランドが一、五〇〇メートル自由形で驚異的大記録を樹立したことは読者諸君の記憶に新しいことだろう。一方、先年のベルリン=オリンピックでも、オーストラリア水泳陣は圧倒的な好成績をおさめている。かつて水泳王国を誇った歴史のある日本は、ベルリンでもベオグラードでも優勝どころの沙汰ではなかった。

 日本のスポーツ界が〝しごき〟に象徴される精神主義に走る傾向にあることは、大学の体育会や体育大学の体質にあらわれている。さきに高地メキシコシティーで開催されたオリンピックにさいして、日本チームの首脳陣は、低地に強いものは高地にも強いと放言して高地順応を怠った。その結果が情けないものであったことも、読者諸君の記憶のすみにのこっているだろう。日本選手が終始苛酷な練習をしいられたことを思えば、どこかに欠陥のあることを想像せざるをえない。

 スポーツのような過激な負荷を課せられたとき、筋肉が第一に要求するのは酸素である。酸素輸送手段としての赤血球の数が、高地の住人に多いことは早くから知られている。低地の住人が高地に順応するのは赤血球数の増加によるのであって、それには二週間の時日を要する。日本選手が高地で強くなるためにはこれだけの日数が必要だったのだ。この種の情報に耳をかさないのが精神主義の建前であるかにみえる。

 水泳競技のばあい、呼吸が極度まで制約されるところから、筋肉は酸素の補給にあえぐ。この難問が解決すれば成績は向上するはずだ。だがしかし、精神主義はこれにこたえる道をもたないのである。

 生理学を知る者は、穀物胚芽の含むビタミンEが、筋肉の酸素要求量を四三%もカットするという事実を見逃しはしない。ベルリン大会のばあいオーストラリア水泳陣は、半年前から選手にこのビタミンを与えたという。今回のベオグラードの奇跡がビタミンEに負っていることは聞いてみるだけやぼだ。カナダでも、つとにこれを採用しているというから、わが国スポーツ界がぼやぼやしているうちに、大多数の国がビタミンEのご利益にあずかっているかもしれないのだ。

 太平洋戦争からスポーツにまでおよぶ精神主義の敗退は、今後は公害問題で露呈されるだろう。わが国の公害がトップを切っている一因はまさに精神主義にある。光化学スモッグの中心校である東京都練馬区石神井南中学の教師諸君の大多数は、被害者は心身の鍛練のたりない生徒であるときめこんでいる。この発想に科学的根拠がないとすれば、これは精神主義以外のものではない。ここには、光化学スモッグの被害をへらす道は心身の鍛練にあるという信念がある。都のプロジェクトチームの打ち出した心因説は、かくして内部からも支持されたかっこうである。

 日本の精神主義は武士道の伝統であろうから、当然のことながら根は深い。その無力をわれわれすべてが悟るまでの道のりが近かろうはずはない。だがしかし、公害を口にするのは弱いセンチメンタリズムだと豪語して都知事選に落選した人物がいる。精神主義敗退の場面は公害を中心として現われるだろう。そのとき背後から下された鉄槌は、精神主義の敗退すべきことを思い知らせてくれるのだ。

東京タイムズ 一九七三年九月十七日

5 オカルトブーム

学者側にも問題

 ここにスプーンがある。それが空中に投げだされた。そして、放物線の頂点で突如として曲がった。奇跡というものだろう。

 ニュートン力学によれば、スプーンのような硬い物体が曲がるためには外から力が加えられなければならない。仕事がなされなければならない。ところが、空中にあってスプーンに何らかの作用を及ぼしうるものといえば、空気と地球と二つしかない。そこで、空気もしくは地球に、スプーンを曲げることが可能かという問題がでてくる。むろん、答は、ノーだ。そうなれば、空中に投げだされたスプーンが曲がる現象はニュートン力学で説明がつかない。術者は超能力の持ち主でなければならぬことになる。ニュートン力学は全自然科学を巻きぞえにして権威を失墜する形となった。

 論語に「君子は怪力乱神を語らず」という文句があるが、科学者もたぶん君子なのだろう。怪しげな現象が社会問題になったとき、まともにそれと取り組もうとはしない。近頃世間を騒がせたスプーン奇術の場合も例外ではなかった。もし科学者が本気で乗りだしたら、いわゆるオカルトがブームをよぶことはなかったにちがいない。

 科学者らしい科学者が実験に立ち会うとしたら、ただの見物人とちがったことをする。まず、ストロボカメラをしかけるだろう。それも、横から写すものと、上から写すものと、真正面から写すものと、三台にするだろう。各瞬間における三枚の写真を合成して、スプーンの立体像をつくろうとするだろう。これを見れば、スプーンが最初から曲がっていたか、途中で曲がったかが明らかになる。もしも、実際に曲がったのなら、その変形にさいして熱の発生があるはずだ。赤外線写真をとって、スプーンの温度分布を見れば、熱が発生したかどうかがわかる。

あり得ない現象

 だが、そこまでの手数は不要だろう。というのは、スプーンの柄を飛行中に曲げる力などありようがなく、したがって、温度分布の異状もありようがないからである。スプーンの立体像は、その形が終始不変であったことを証明するだろう。

 超能力をもつと称する少年の話が某週刊誌にでている。この少年は、テレビカメラが近づくとスプーンを投げてくれないという。しかもそのスプーンは、床におしつけ、または両手で力を加えて曲げておくのだそうだ。

 空中を飛行するスプーンが曲がっているか伸びているかを肉眼で確認するのはむずかしい。それにしても、放物線の頂点において速度は最低となる。したがって、形の確認ができるとすれば、その点に限るといってよい。最初から曲がっていたスプーンが、放物線の頂点にきて初めて曲がったものとして肉眼に見えたとしてもふしぎはないだろう。空中で〝念力〟のために曲がったスプーンの秘密は、こんなところにあったのだ。

幻想だけの期待感

 去る五月三日付け本紙のトップに〝科学文明に強い不信〟という見出しで、文部省数理統計研究所のおこなった「日本人の国民性」についての調査結果が発表されている。それによれば、科学文明に対する期待感が、過去五年のうちに逆転して不信感に変わったという。

 輝かしい科学技術を軸として展開してきた近代文明にかげりができたということか。アンドレ=マルローはつい最近、「人は技術文明に甘んじて生きることができうるだろうか」との問いを発しているのだが。

 私は著書『文明の解体』(本書シリーズ一九巻)のなかで科学技術の自己運動なるものを想定し、これが資本の自己運動との癒着によって暴走するという見解をとった。そこには科学技術が人類に幸福をもたらす方向に発展する必然性をもたないという論理がある。ここからすれば、科学文明への不信は当然ということだ。ルネ=デュボスなどの科学技術への甘い期待が、資本主義体制下において幻想にすぎないことは、次第に明らかになるであろう。

 科学技術の発展方向への不信と、科学技術そのものへの不信とは次元を異にする。科学技術そのものの信頼性は、絶対とさえいえるだろう。緑の窓口で乗車券を購入する場合ひとつをとってみても、それは自明ではないだろうか。

人心を惑わすだけ

 いわゆるオカルトブームは、科学文明に対する不信を背景としておきたものではあるまいか。ここには人心をまどわす効果以外の何ものもありはしない。いかなる超能力も、自然科学の法則を破るほど強力ではありえないのである。今日の苛酷な物質的条件を克服しうるものはその法則ではなかったか。

 不信は、資本によって動かされる科学文明に向けられるべきであって、科学そのものに向けられては見当ちがいだ。オカルトは泡沫の如くに消えてゆく運命をたどるだろう。

東京タイムズ 一九七四年五月三一日

6 無知な墓掘人の話

 水道の水で顔を洗う、電灯をともす、くるまに乗る。どれをとっても変哲のないわれわれの日常生活の断面である。新幹線を延長する、高速自動車道路を拡充する、防衛力を増強する。いずれも国家的事業として大多数の国民の承認するところだろう。ここにいわゆる豊かな社会があり、バラ色の未来が描かれようとする。人類繁栄の歴史が永遠に続くことを暗黙のうちに諒解するような楽天的な思想をここに見るのは私ばかりではあるまい。この手放しの楽観論が許されるか許されないかという問題は、じつは結論がでている。それを知らずにおこなわれる政治、教育、学問はすべて墓掘人の道につうじると、私はいいたい。「無知こそは悪の根源である」という名言が想起される。ここにいう墓掘人は自分の墓をも含めて全人類の墓を掘る人をさしている。

 ヨハネの黙示録には人類の終末論がある。それはテイヤール=ド=シャルダンあたりによって新しい解釈を加えられたと聞いているが、そこにも墓掘人を告発する思想があるにちがいない。しかし、現在の終末論は一層現実的な角度からいわれる。その第一が公害であることはすでに常識となっていよう。そして、その第二は資源の枯渇である。

 水道の蛇口をひねれば水がほとばしりでることをわれわれは知っている。その圧力がポンプに由来し、結局はこれを動かすモーターに供給される電力に由来すると、一般は意識しているのだろうか。その電力の一部は重力や原子力からくるであろうが、大部分は石油に依存している。蛇口をひねっても、電灯のスイッチを押しても、われわれは、石油を消費し、発電所の煙突から亜硫酸ガスや窒素酸化物などの公害物資をふりまくことを免かれない。それが墓掘人の仕事でないと強弁することは、無知の人でなければできないことである。

 この論理からすれば、くるまに乗ることが墓掘作業であることに弁解の余地はない。汚染物質、発ガン物質をふりまき、騒音をまきちらし、人命をおびやかしつつ石油資源を枯渇にみちびく装置は墓掘道具として代表的なものといってよかろう。そして、水道や電灯は墓掘装置として最もささやかなものである。ここでニューヨーク市長リンゼーが、トイレの水槽に一箇のれんがを沈め、灯下を去るときにスイッチをオフにすることを提唱した一連の構想を想起する必要がある。今日、発電所の新設はアメリカでも日本でも住民運動の反撃をくらっているが、こうすれば既設の発電設備で間にあわせる道がひらけるだろうというのがリンゼーの論理である。

 ポンプや電灯や自動車の発明が双手をあげて迎えられた時代はさほど古いことではない。それはむしろ科学技術の恩恵であった。そこに墓掘作業の萌芽はあったであろうが、それを意識するには、公害問題も資源問題もあまりに遠いところにあった。この距離を急速に縮めて、人類の終末を現実のものとしたのは資本の自己運動であり、科学技術の自己運動である。原罪として告発されたことのある人間の自己運動がこの下部構造となっている。これらを特性づけるエゴイズムが墓掘作業を決定的に確立したのであった。そして、いわゆる文明から隔絶された生活をひっそりと営む一握りの人々をのぞく全人類を、大なり小なり墓掘人に仕立てたのである。資本主義諸国の民衆も社会主義諸国の人民も、上下こぞって墓掘作業にいそしんでいるのが現状である。すべてが無知のなせる業だといったら叱られるだろうが、きびしくいえばそうである。日本は中国の経済成長のお手伝いをする意向だというし、中国は超音速旅客機コンコルドを購入する意向だという。これらは墓掘作業の推進以外の何ものでもありえない。

 参考のために、現代の終末論を紹介しておこう。最もショッキングな発言はスイスの海洋学者ジャック=ピカールのものである。それは、人類が二一世紀まで生きのびることは疑わしいという意味のものであった。これを検討するため、政財界人の国際的組織ローマ=クラブが、マサチュセッツ工科大学のフォレスタル教授を中心とするプロジェクトチームMITに委嘱した研究の結果は、ショッキングというよりは厳粛なものである。人類が滅亡を免かれるための条件は決して生易しいものでないことが明らかになった。それはすなわち一九七五年までに、資源の消費で七五%、汚染発生で五〇%、出生率で五〇%、投資で四〇%を切り下げよということだ。ヨーロッパ経済協同体ECの委員長マンスホルトはさらに、経済成長ゼロを提唱している。話半分ということばがあるが、その手でゆくとしても、資源消費についても汚染物質についても出生率についても、横ばいさえもが許されないことを銘記すべきである。これを忘れた行動はすべて墓掘作業だといいたい。現代文明は墓掘作業から脱出できないのではないかというのが私の憂いである。

 ひるがえって日本の現状を見よう。そこには国家百年の計が高らかに唱えられているが、その第一ラウンドは昭和六〇年、すなわち一九八五年をメドとしているようだ。このとき国民総生産はいまの四倍の二八〇兆円となり、マンスホルトの提唱は不景気風として一蹴されたかっこうだ。むろん、MITの勧告などは黙殺されている。墓掘部隊の出動を告げる進軍ラッパはすべての弱音をかき消してしまいそうだ。

 話を具体的にするために石油関係に的を絞ることとする。MITの予測によれば、石油資源の枯渇は、現在の消費水準でいくと、おそくも三〇年後ということになっている。しかしわれわれは、現在のペースを守ろうとはしていない。年間二億キロリットルの消費が昭和六〇年には七億五千万キロリットルと現在の四倍に近い。これの輸送のために、アラビアから日本の港まで、二〇万トンタンカーが三キロメートルおきにならぶ計算となり、海洋汚染はさらにエスカレートするだろう。いまでも年間四〇〇万トンないし一、〇〇〇万トンの石油が海にこぼれているというが、それはもっと増加するにきまっている。伊豆七島沖の深さ四〇〇メートルの海底が油でべっとりとよごれているというが、その範囲は一層拡大するだろう。廃油ボールの核が魚卵であるとすれば漁獲の減少は必至だろう。

 一方、石油資源の枯渇が目前にせまれば、石油の入手が困難となり、価額の驚異的上昇が予想される。昭和六〇年、自動車の台数は現在の二倍の四、〇〇〇万台を見込まれ、自動車用高速道路はそれに見合うように計画されている。だが、ガソリン代が目の玉のとびだすほどにかさんだとき、はたしてそれだけのくるまが走りまわるだろうか。自動車のない高速道路、のろのろ運転の新幹線を見るのは、おそくても昭和六〇年代のうちだろう。交通機関はまだ我慢ができる。燃料費の高騰から、農業用機械や漁船が思うように使えなくなったとき、いかなる事態が発生するだろうか。少なくともアメリカやカナダに余剰農産物がなくなったとき、食糧自給率わずか三〇%のわが国は饑餓に追いこまれるだろう。石油の燃焼からくる浮遊塵が日光をさえぎり、気温の低下をもたらしている事実も、農業を考える場合ゆるがせにはできない。近年わが国の年平均気温は毎年〇・一度ずつ低下してきたという。

 これは石油だけの話であって、ほかにも問題はいくらもある。要するにわれわれ各人は忠実な墓掘人として一刻も休むことなく働いているわけだ。この認識があって墓掘作業の拡大を意図する人間がいたら、それは極悪人として告発されるに値いするだろう。もしそれが無知のいたすところであればその人間は退去を求められなければなるまい。

 われわれがおしなべて墓掘人であることの意識、そしてまた、何が墓掘作業であるかの判別――ここに現代人の資格があると、私は考える。無知な墓掘人ほどしまつの悪いものはない。

清泉女子大新聞 一九七一年十一月十一日

7 科学者のみた昔話

 昔話といえば、登場人物のどこかに、人間として共感をよぶ要素がある。そこには、人間とは何かという問題の答えがちらついている。では、そもそも人間とは何だろうか。これは、科学者をもふくめて、われわれすべてにとって最大の課題であろう。

 人間は、歴史とともに変わってきた。そして、これからもまた変わるであろう。《昔》をとりあげるとき、このことをふまえなくてはなるまい。

 一方、人間の心には、昔から今日まで、決定的な変化を見せない部分がある。そうかといって、無鉄砲にこれを推していくと、人類の遠い祖先であるサルから一貫して不変なものがあるような話にもなってくる。そこで、初めに設定した、人間とは何かという問題の原点まで立ち返って、あまり遠くの祖先のことは考えないことにするのが無難ということになろう。

 人間そのものをとりあげるとき、ニュアンスとしては人間の精神生活に焦点をあわせる傾向がある。しかし、どっちみち、精神生活のようなものは外面にストレートにあらわれる性質のものではないから、結局、はっきりした実体はつかみにくい。よくわかるのは行動である。行動の背後に精神生活があるとしてよければ、人間とはどういうものかをみるには、人間の行動をみればよいことになりそうだ。行動科学という学問がこのごろはやってきたが、これは人間そのものをつかまえる一つの手であるにちがいない。

 千葉康則氏は、著書『行動科学とは何か』(NHKブックス)のなかで、人間のすべての行動は無条件反射にむすびついていると主張する。では、無条件反射とは何かとたずねられたら、生まれつきの、親ゆずりの行動というか、本能というか、どちらの表現でこたえてもさしつかえない。後者は、カビくさいにおいがしみついているところから、とかく科学者にはきらわれる。

 人間とはどういうものかという問題に直面するとき、われわれは、人間の無条件反射はなにかを知るために、親ゆずりの行動のリストがほしくなる。本能の概念が観念論の産物であることの当然の結果として、そのリストは、実験ぬきで頭からひねりだされることになっているので、いわば手さぐり的である。そういうわけで、無条件反射のリストを本能のリストで代用するのは冒険ということになる。結論から先にいえば、無条件反射の完全なリストを、人間はまだ手にいれていないのである。

 そうだからといって、無条件反射の具体例が一つもあげられないなどということはない。模倣反射、食餌反射、性反射、探究反射、膝蓋腱反射、体温調節反射などは明らかに存在をみとめられている。そして、このような具体例は、まだいくらでもあげられる。それにしても、ここにあげた無条件反射が、遠い祖先にもあることは、たやすく想像できる。それを考えれば、人間とはどういうものかという問題を解くにあたって、無条件反射のリストを用意しても、それが決定的な役割りをもたないことに気づく。

 昔話を論じるにあたって、筆者がこういう回り道の論理を展開したについては、むろん理由がある。それは、《昔》以後の社会、つまり文明社会の特性として、無条件反射にもとづく行動にたいする合理的な制御があるとみるということである。これを裏返えせば、昔話のなかには、文明社会的合理的制御以前の無条件反射的人間、つまり原型的人間があるとみるということである。平たくいえば、昔話のなかには素朴な人間がいるということになる。

 筆者はこのごろ、無条件反射につながりある人間の行動を、《人間の自己運動》とよぶことにしている。ノーベル生理医学賞受賞者セント=ジェルジはその著『科学・倫理・政治』のなかで、人間の脳は、何が真理であるかをみるようにつくられたものではなく、何が有利かをみるようにつくられたものであるとのべている。大脳もまた遠い祖先の遺産としての面目をたもっているのだ。

 人間の自己運動をみるとき、その原動力として、《欲望》をとりあげなければならなくなる。それが、無条件反射にむすびつくものであること、セント=ジェルジの指摘する脳の働きにむすびつくことは、いうまでもあるまい。人間の欲望は、食に対して、衣に対して、住に対して、性に対して、また、富に対して、権力に対して、行動をかりたてる。昔話のなかには、この種の行動に対する文明社会的合理的制御がなく、それが昔話を特色づけているようにみえる。そこには裸の人間がいるということである。

 昔話の登場人物としてわれわれの目につくのは、欲ばりじじい、欲ばりばあさん、結婚を切望する男女、権力や金力をふりまわす人間、ぬれ手であわをつかむことばかり考えている男、なまけどおしで幸福を夢みる人間、人をだまして金を手にいれる人間などである。そしてこれに、奇跡とか呪術とかいわれる前文明的発想がからみつきたがる。このような神秘的なしろものに依存しようとする気持ちも、恐らく、欲望をなかだちとして無条件反射にまで糸をひくものであろう。

 昔話をテーマとして、こんなことをくどくどのべる下心は、昔話の提灯持ちなどしたくないということである。人間の自己運動まるだしの人物の行動にあきあきしたということである。

 ニュージャージー州スチブンス研究所の環境破壊をめぐるシンポジウムの席上、海洋学者ジャック=ピカールは、人類が二一世紀まで生きのびられるかどうか疑問だとの発言をした。人類をここまで追いこんだ元凶は、人間の自己運動であり、そこから派生する資本の自己運動、科学技術の自己運動であろう。これをチェックすることなしに、われわれがあと三〇年を生きる望みは薄いと私も考える。われわれは前方を見なければならない。このとき、うしろを向いて昔話を味わうようなことに、どれほどの意義があるというのであろうか。

 NHKの招きによって今秋来日したケネス=ボールディング教授は、文明後社会の概念を提起している。科学者の立場をとるにせよ文学者の立場をとるにせよ、昔話を読むことの意義が、昔の人間、裸の人間、文明前社会の人間の行動に接して、原初に立ち返ってみる興味にあるのは否定できまい。今日を文明後社会と規定するとき、文明前社会は余りに遠くへだたっている。それが郷愁をよぶにたりるものであるとしても、それとこれとのあいだには灼熱の文明社会がある。

 私は、文明社会の特性として、資本の自己運動と科学技術の自己運動とをあげる。文明後社会の課題は、これらの自己運動をいかに制御するかにある。その方法いかんに、人類の運命はかかっているのである。

 顧みて他をいうという古語がある。当面の問題から目をそらして脇見をすることであろう。昔話のたぐいが脇見の対象であったとしたら、何をかいわんやである。ことに、それが出版資本の自己運動のえさとして魅力ありということであったなら、これもまた何をかいわんやである。近年、進歩陣営の作家がこぞって民話に走ったことを、理論社の小宮山量平氏は慨歎している。

 昨今、神話を教育にとりいれることが論議をうんでいる。神話教育反対の立場をとる上田正昭氏は、その著『日本神話』のなかで、宮廷による神の独占をあげ、記紀神話が天皇制を正当化するものであることをあげる。これも貴重であるが、より高い次元から、神話の歴史化を文明後社会のアナクロニズムとして告発したらどうだろうか。現代を、神話や昔話にかかわっていられるのんびりムードの時代だと、私は思わない。

よい本 一九七一年 五十三号

8 忍術と子どもたち

 みなさんは、『忍者帳』と名づけた大時代なもののあることをご存じでしょうか。これは雑誌『冒険王』の、ことしの九月号の付録で、いわばチャチな本です。しかし、とにかくそんなものが存在して、こどもたちの興味をひいていることを見のがすわけにはいきません。

 むろん、忍者とは忍術使いのことです。

 じつは、わたしも忍術というものには興味がありました。少年時代に、例の立川文庫のおかげで、猿飛佐助とか霧隠才蔵とかの忍者になじみがあったせいかもしれません。

 一〇年ほどまえのことでした。ふと見た新聞に、浅草のあるお寺で、忍術の公開があることを知って、そこへいってみました。探偵作家クラブの催しで、非会員は入場させないというのを、むりにいれてもらいました。忍者だったら、押し問答などはしなくても、あっさり潜入したことでしょうが、わたしは玄関で大汗をかかなければなりませんでした。

 このときの出演者は、その後テレビでも紹介された甲賀流一四世の藤田西湖という忍者でした。わたしはおしまいまで見ていましたが、とうとう姿をけす場面はありませんでした。つまり、忍術の字があらわしているような、ふしぎなことは全然なかったわけです。ほかの人はどうだったかわかりませんが、わたしはだいぶ不服でした。

 この忍者はまず、手首や指をぶらぶらにして見せました。関節をはずしたのだそうです。そしてそれは、繩をかけられたとき、それをぬけるために必要なことだと、説明されたような気がします。ただし、それを役だてる場面は見せてもらえませんでした。

 あごがはずれたり、肩がはずれたりする人はよくありますが、それはふつう習慣性になります。もし、習慣性になることなしに、どこの関節でも自由にはずせたら、見世物としてはおもしろいかもしれませんが、よほど特別な人でないかぎり、実用に役だつことはないでしょう。

 西湖先生が繩ぬけをして見せなかったのは、関節をはずしただけではそれができなかったせいではあるまいかと、邪推もしたくなります。

 ところで、その公開実験の最後には繩ぬけがあったのです。しかしそのとき、西湖先生はもうひっこんでしまって、若い弟子があらわれました。これを、江戸川乱歩先生ががんじがらめにしばったわけです。

 その若者は、そのままびょうぶのかげにかくれてしまいました。そして、しばらくして、繩をといた姿でゆう然とでてきました。この作業のときはじめて、忍者は忍者らしく、姿をけしたのでした。忍術というものが、文字どおり人目をしのぶわざであったことは、このときの参会者にとっては、心のこりでした。

 西湖先生はこのほかに、イヌの鳴き声をだしたり、新聞紙をまるめた筒で尺八の音をだしたり、タバコを鼻からすって煙をはきださなかったり、ガラスのコップをたべたりして見せました。それぞれ、ちょっとまねのできないものではありましたけれど、どうも忍術を見せられたという感じがしませんでした。

 ところで、忍者帳を開いてみますと、いわゆる忍術のやりかたが、ちゃんと書いてあります。忍者がおもに使ったのは、火、水、木、金、土の五遁の術だということです。

 火遁の術は、煙玉をなげつけて、相手が煙に気をとられているすきに姿をくらます術だそうです。

 水遁の術は、水に石をなげて、水にとびこんだと思わせて、反対の方向ににげだす術だそうです。

 木遁の術は、木から木へかくれながらにげたり、木の枝や葉で変装する術だそうです。

 金遁の術は、金具で大きな音をたてて、相手の注意をそらして、姿をくらます術だそうです。

 土遁の術は、わざと反対のほうに足あとをつけておいて、どぶのなかにかくれるような術だそうです。

 心理学では「注意の分配」ということをいいますが、五遁の術を考えてみると、強い刺激をあたえて、注意の分配をしくじらせることをおもな原理とするようです。それらは、科学の種のある人間手品とでもいいたくなるものなのです。

 どっちみち、こういうことは理くつがわかっただけでは、実地にうまくいく道理がありません。練習をつんで、はじめてうまくいく可能性がでてくるのです。

 ふっと考えると、日本の古い時代の科学は、忍術という名の技術に実をむすんだのではないかという気がしてきます。忍術には一分もすきのない合理性、もしくは合目的性が一貫しているからです。

 忍者帳には、「忍びこみ極意」なるものがあります。そこには、草むらの虫が鳴きやんだら、虫の声をまねしろとか、戸をあけるときには油か水でぬらせとか、もっともしごくなことが書いてあります。

 またその本には、遠くのもの音をきく術として、地面に深さ三〇センチの穴をほり、そこに小石を一ついれてその上に長い棒をたて、穴をうめてから、棒のはしに耳をあてる方法が書いてあります。それは、遠くの足音をきくためには、うまい工夫といえましょう。

 またその本には、遠くに火が見えたら、それを手のひらにのせてながめて、火が上にいけば遠ざかるし、下にいけば近づくのだと書いてあります。これなども、感心するばかりの工夫です。

 戦国時代に実用にされた忍術となると、科学よりは修業です。アサの種をまいて、芽がのびたら、毎日それをとびこえる練習をしろとか、首に長さ五メートルの布をつけて、それが地面につかないように走る練習をしろとか、胸に笠をあてがって、それがおちないように走る練習をしろとか、水をはったおけに顔をつっこんで、水にもぐったときにこまらない練習をしろとか、昼間はねむって、くらやみでものを見る練習をしろとか、相当に手きびしい修業がたくさん書いてあります。

 近年はともかく、明治以前に、日本には発明はないにひとしいといわれています。しかし、日本人にも発明の頭があって、それがもっぱら忍術に生かされたと考えるのは、けっしてとっぴではないと思います。

 鉄菱てつびしといって、鉄条網の切れはしのようなものがあります。それを地面にまきちらして、敵の足をふせぐのは、ちょっとした工夫です。

 水グモといって、足にしばりつける大きな円板があります。これで水の上を歩くのは、ちっぽけではあってもすばらしい工夫です。

 綱にいかりをつけて、それを高いところにひっかけるのも、気のひかれる工夫です。

 西欧の当時の発明にくらべて、これらのものはおそまつしごくです。しかし、忍術の原則はあくまで科学であり、その独特な道具はあくまで発明品です。そして、どれを見ても原理は単純素朴で、わかりやすいものばかりです。悪くいえばこどもだましです。こどもだましで、しかも科学的であるからこそ、忍術がこどもにうけるのではないでしょうか。

読書指導のしおり 一九六二年 二十一号

9 学問はこれでいいのか

未熟な経済計画は悲劇

 東大の関寛治氏が年頭の毎日新聞紙上に発表した論文「七四年危機と社会科学の運命」は出色であった。近代経済のなしえなかった一九二九年の世界恐慌の予測に成功したマルクス経済学も、最近のインフレ分析には失敗を重ね、その信頼度は太平洋戦争中の大本営発表と同じだとの酷評をうけた、とそこには述べられている。マルクス経済学は一九五〇年代の高度成長の見通しについても失敗したという。ここで私は、学問とは何かという問題にとりつかれた。

 近い将来、関東地方に巨大地震のあることはすでに常識となっている。地震学はそれを告げるまでの進歩はとげた。しかしその時期の予測となれば沈黙せざるをえない。それは地震学の未熟と評価されるべきだろう。

 本紙に紹介されたショルツ理論がアメリカで発表されたのは昨年のことであった。これは地震の時間的予測の理論であって観測データの分析からかなり高い精度で時期を予測しうるものである。ここにわれわれは地震学の画期的な進歩をみたのであった。地震の予測能力が、地震学を〝学問〟の名に恥じないものにまで高めるための必要条件であったことを、改めて思うのである。

 予測といえば、われわれが日常経験する天気予報がある。それの外れるケースはめずらしくないとはいえ、気象学に予測能力のあることは否定できない。

 気象学上の今日的問題の一つに異常気象がある。これがどこからきたのか、人間の営為と係わりなく小氷河期がやってきたものか、人間のつくりだした環境破壊が招いたものか、気象学は何も語らない。この現象に対しての解釈能力を、気象学は欠いているのだ。ここにおいて、解釈能力もまた学問の条件の一つであることを知る。最近、台湾坊主という名の低気圧の発達構造を解明すべく国際的プロジェクトが組まれた。この事実は気象学の未熟さを一般大衆に印象づけることであったろう。気象学が解釈学として完成したとき、天気予報の的中率が飛躍的に高まることは、いまから断言してよかろう。

 地震学のショルツ理論は、地震の直接の原因として岩石の破砕を想定することによって、解釈学としての一歩前進をもたらすものであった。そしてこの成果こそが、予測を可能にする道をひらいたのである。解釈能力と予測能力とは、地震学や気象学のみならず、広く自然科学、社会科学の全領域に要求される条件ではなかろうか。解釈学として未熟な学問は予測学としても未熟という関係も、当然の結論としてでてくる。

 この冷酷な論法でいけば、自然科学も未熟、社会科学も未熟と断ぜざるをえなくなる。これだからこそ、学問の研究に意義があるという古びた言葉に永遠の価値があるのだろう。もし仮りに、この未熟な学問に全幅の信頼をおく人間がいたら、それは愚かというべきかもしれぬ。

 そうかといって、すべての学問が未熟だと速断してはまちがいである。宇宙飛行士は月の土をふみ、石や砂を採取して帰った。これはアポロ計画の筋書きであった。一般に、計画というものは完璧な予測能力なしにはありえない。月着陸船は、いつどこにどんな速度で月面におりるかが予測されていた。いや、計画されていた。そして、計画通りに事は運んだ。とするならば、アポロ計画を可能にした物理学は、予測能力においても完璧、解釈能力においても完璧、と評価せざるをえない。かくして物理学が学問の名に恥じない学問であったということは、その対象とするいわゆる物理現象を分析する方法がそこに確立していたということにほかならない。

 計画経済ということばがある。そしてそれは現実に政策に織りこまれる性質のものだ。もしその基礎に経済学がなかったなら、それは根拠のない思いつきにすぎないはずだ。一方、経済学者の現状分析をみると、議論の割れる場合がまれでない。これだけをみても、現在の経済学の解釈能力に限界のあることは明らかである。その未熟な経済学の上に経済政策が計画されなければならないとすると、われわれは筋書きのない悲劇中の国民たらざるをえないだろう。

 民衆に経済生活破綻の印象を与えることはいわゆる失政であって、政権担当者の嫌うところである。政府はこの点を頭において、経済の未来に対して予測し計画するわけだが、そこに登場すべき学問が心もとないのである。アポロ計画に匹敵するレベルの計画経済を可能にする学問はないものだろうか。学問に要求される予測能力は、物理学のような自然科学には期待しえても、社会科学には期待しえないものだろうか。

 このような問題提起は、私のような自然科学の畑にいる人間に特有な現象であって、普遍性をもたないものなのかどうかを私は知りたい。

学問は「実践の指針」

 学問は教科書に納まるべきものではなく、実践の指針たるべきものである。学問の花が多彩に咲き乱れたところにおきたアウシュウィッツの虐殺は、それまでのすべての学問の無力さをあばいたとする羽仁五郎氏の所説に、私は同調する。哲学も倫理学も、教科書に記され、知識の殿堂に祭りあげられて人間生活から隔絶したところにあった。ガス室が、そして原爆が、数百万の人命を消すことがあっても、学問はそれを予測しえず予測しようともせず、泥をかぶっても平然としている。知識の殿堂は世俗の出来事に係わることをいさぎよしとしないのだ。

 もしも学問が実践と結びついたものであれば、人類の歴史ははるかに賢明な道をたどることであろう。実践はつねに計画によっておこなわれる。そこには予測があり見通しがあるはずだ。となれば、実践的学問には解釈能力はむろんのこと、予測能力も計画能力も備わっていなければならないことになる。それらすべてが学問の条件として要求される。

 いまや人間活動の動向が、人類を終末に追いこむか否かの運命をにぎる鍵となった。すべての学問は実践の学問を指向することを要請されていると私は思う。学問が教科書的であれば、人間の自己運動、資本の自己運動にゆだねられた計画によって社会は動かざるをえない。とはいっても、人間の自己運動に対しては自己規制の機能があり、資本の自己運動に対しては独占禁止法がある。自己運動がストレートに発動するならば予測はむしろ容易であろうが、これに対するチェック・コントロールが多元的であるために、事態は曲折し予測は困難にならざるをえないのだ。

 歴史を動かす要因は何かという問題についての私の考えは、拙著『文明の解体』に展開されたところであるが、そこでは、自然、人間、資本、科学技術の四者の自己運動が設定される。これらの絡みあいによって歴史は発展すると私は考える。油田の枯渇は自然の自己運動であって、中東諸国の石油政策は自然の締め付けとして理解される。この締め付けが苛烈の度を加えることは自明であって、これが石油政策にますます強く反映することは十分に予測できた。この局面の打開のための武器は科学技術であるが、これの機動力は資本の自己運動と結託する度合いによって左右される。

 自己運動にインパクトを与えるシステムは多種多様であり、しばしば偶発的にあらわれることが、社会現象、経済現象の予測を困難にしている。バンコクやジャカルタに勃発したスチューデント・パワーは日本資本の運動をチェックしようとしたものであり、中東諸国の石油政策は国際石油資本の運動をコントロールしようとしたものである。かつて国際世論はベトナム戦争を強行するアメリカ資本の運動に歯止めをかけ、フランスは自国資本防衛のためECという名のコントロール・システムの通貨機構からの離脱をはかった。いずれも必然的でないともいえないが偶発的との印象が強い。

 チェック・コントロール・システムの発動は矛盾を解決するものではなく、それを一時的に引きのばすにすぎず、むしろ危険をより深く潜行させ、より慢性的、より悪性にする要因を積み重ねるようだと関寛治氏は考える。ここで悪性とよばれることの実体は、民衆の苦悩であり、資本主義体制の腐朽であろう。そのこと自体のマクロな予測のできる人はいても、時期の予測のできる人はいまい。チェック・コントロール・システムについては、発動の時期も規模や効果の大小も予測困難だからである。しかしなおチェック・コントロール・システムは多彩なことが歓迎されるのであって、予測はそれによってますます困難になる。具体例をあげれば、選挙という名のチェック・システムは、保革逆転が実現して初めて効果をあらわすのであるが、その予測がまたつきがたいのである。

 田中首相の物価鎮静に関する見通しが、すでに二回も大幅に狂った事実をとりあげれば一目瞭然だが、政治は多分に場当たり的であり近視眼的であり脱学問的なものだ。そうかといって社会科学もまた予測能力を欠くとあっては何をかいわんやである。

 関寛治氏はまた、現在の問題をとくことのできるような社会科学と行動科学の誕生のみが、次の時代の人類にとって指針になりうるのであって、既成の概念理論は今や全く崩壊の危機に瀕していると説く。人間の自己運動、資本の自己運動の重圧をもろにうけ、しかも、民衆の意識の向上までをふくむ大小のチェック・コントロール・システムに左右される社会現象を対象とする科学に、自然科学の理想とするミクロの予測能力を望むのは原理的に不可能であろう。ただ解釈能力が向上すれば、歴史の推移をマクロに予測する能力は向上するはずだとはいえる。この方向の努力によってわれわれは人類の指針となる実践の学問を早急に手に入れなければならぬ。その学問こそは人類を救うにたりる真の学問であろう。

東京タイムズ 一九七四年二月二十八日

10 21世紀は存在するか

ヨハネ黙示録の終末

 「二一世紀は存在するか。これは真剣に疑問である」とのショッキングな発言をしたのは先般来日したスイスの海洋学者ジャック=ピカールであった。彼の根拠は、海洋汚染を中心とする環境破壊にある。公害が次の世紀を人類に約束しない場合のありうることを警告したものだ。ヨハネ黙示録の示す終末が現実の姿をとりつつあると受け取る向きもあったろう。目にも耳にも入らぬ向きもあったろう。馬耳東風と受け流す向きもあったにちがいない。ピカールの問題提起は、のっぴきならぬ事実関係を、のっぴきならぬものとして評価する能力ありやなしやのテストを各人に課したものであった。そしてまたこの小論文も、読者諸君にそのテストを課するはずである。

日本への問いかけ

 二一世紀は存在するかという問題は、本来全人類に投げかけられたものであった。しかしわれわれ日本人はこれをとくに日本人に投げかけられたと考えるべきだ。何となれば、公害に関するかぎり、アメリカの一〇倍、後進諸国の一〇〇倍の水準にあるからだ。二一世紀が約束されているか否かが、全人類の問題であることは言うまでもないが、それは日本人にとって、特に切実でなければならない。終末論テストに合格しない人物は、政治家としての資格は無論のこと、すべての指導的位置にあるための資格を欠く者と断定せざるをえない。今村昌平氏はそのプロダクションにおいて、『二一世紀は存在するか』という題名のテレビシリーズ番組を企画している。機会ある者は各人各様にみずからが合格者であることの証しを立てるがよい。私はその試みとして『文明の解体』を書いているが、今村プロの企画は本書を軸として展開されている。
注――この企画は石油ショックによって頓挫した。

歴史への参加こそ

 二一世紀は存在するかという問いが、気象観測のごときものであってはならぬ点は、特に強調されなければならない。イタリアの哲学者ベネデット=クローチェは、歴史上の予測は天気予報とはちがうと喝破したではないか。次の世紀の存在、非存在は論議の問題ではない。それは実践の問題なのだ。二一世紀を確実に勝ちとることになるのは、二一世紀を存在させようとする人間の努力の結果でしかない。各人の歴史参加の果実として、二一世紀は存在するのだ。今村プロのテレビ番組にも、この観点が貫徹するはずである。

 二一世紀が存在するための条件は何か。それは現代の最重点課題でなければならぬ。農林省食糧総合研究所の西丸震哉氏は、食糧の面からの危機を警告する。無論それは食品汚染の問題をも包含している。西丸氏によれば、今世紀末までに日本の人口は四、〇〇〇万人になってしまう。いま生きているわれわれの大部分にとって、二一世紀は存在しないということだ。いずれにせよ、この予測はクローチェのいう天気予報であって、現状のままずるずるべったりに万事が進行するという仮定のもとに行われたものにすぎない。すべての人間が手をこまねいたとき、歴史学の性格は気象学に似てくる。

中国に学ぶこと

 食糧危機は量的にも質的にもやってくる。量的な危機は異常気象、作付規制、魚介乱獲などに由来する。質的な危機が汚染によることは言うまでもあるまい。ここにあげた項目のなかで異常気象をのぞくものはすべて人間の手のとどくところにある。もし異常気象による不作が克服しうるなら、人口四、〇〇〇万人説はくつがえるのだ。

 干ばつによる被害は西アフリカの場合が有名だが、これは世界的規模でおこっている。中国が天文学的数字におよぶかんがい用井戸を掘り、干ばつをものともせずに作柄を確保したとのニュースは快い。クローチェが生きていたなら、双手をあげて中華人民共和国の体制を賛美したことであろう。

リンゼーの〝ケチ〟

 二一世紀を存在させるための条件は何か、その必要にして十分な条件を提示せよといわれたら、私もまごつかざるをえない。だが、必要条件を一つずつあげてゆくことはある程度まで可能であろう。ニューヨーク市長リンゼー氏が、電気機器のスイッチを手まめに切れとか、トイレの水槽に煉瓦れんがをぶちこめとか、路上駐車のときエンジンを止めろとか、多くのケチの教えを発表したことは有名である。最近ロンドンでは、建設中の高速道路をぶちこわしつつあると聞く。

 これらは、次の世紀まで生きのびるための十分な条件ではないが必要な条件ではある。われわれは必要条件を求め、それをこつこつ積みかさねることによって、十分条件を達成するという方法をとるのが賢明であろう。西アフリカの災害は、工業化を志向する政策が農業を顧みず、中国に見られた井戸掘りを怠ったことへの自然の報復だといわれる。干魃ばつのさいの井戸掘りは、生き残るための必要条件であったのだ。

第五氷河期か?

 だが、二一世紀のための必要条件は、こんな卑近なところだけにあるのではない。西アフリカの干魃は、ポルトガル沖アゾレス諸島にがんばる高気圧のなせるわざであるようだ。近年グリーンランドにおける氷山の発生が記録的に活発化し、その漂流の限界が四〇〇キロ以上も南下した。アゾレス高気圧にこれが関係している疑いは濃厚である。

 では、この氷山の発生は何とかならないものだろうか。われわれは過去四回の氷河期を知っている。それは、四五、〇〇〇年ないし九五、〇〇〇年の間隔でやってきた。そして最後の氷河期がすんでから、まだ三〇、〇〇〇年しかたっていない。とすると、地球の寒冷化を氷河期の到来と結びつけ、これを天気予報的に取り扱おうとする企図は非現実的というべきだろう。天文学の知識からしても、いまの現象を氷河期に直結するのは無理だ。氷河期が無関係なら太陽活動はどうか、というのも発想としては不可能でない。

要因の総点検必要

 しかし、ここにすっきりした相関関係が出されてはいないのである。とどのつまり、地球の寒冷化が天体物理学的なものなら天気予報も可能なのだが、それもままならぬということである。歴史参加という観点から異常気象をとらえようとするならば、むしろ、人為的な要因にまず目を転じるべきである。地球がうける太陽熱の一〇分の一に相当する熱量が、燃料の燃焼によって発生している事実、浮遊塵が太陽光線の一〇%近くをさえぎっている事実などが、気象に関係しないわけはないではないか。そして、それが正常な気象を乱していないはずもないのである。それが異常気象の原因のすべてであるという必要はないが、一部であることにまちがいはない。それをどうにかする努力がありうるだろう。アゾレス気団の退散が、人間の手のとどくところにないときまったものではないのである。

 異常気象を助長し、食品汚染をエスカレートするような要因はしらみつぶしに摘発し、これを消去してゆく努力は、無事に二一世紀を迎えるための必要条件である。しかしそれは、言うは易く行うはむずかしい。そのむずかしさの前にお手あげになれば、必要条件の放棄であって、二一世紀の放棄となる。われわれの日常の一挙手一投足が、人類の未来に、いや二一世紀の存在にかかわってくるのである。
 われわれの日常生活を守るための努力は、しばしば住民運動の形で結集される。これは、二一世紀まで生きのびるための必要条件を、大衆が発掘する努力でもある。もし、その見解に誤りがないならば、政治は住民運動を尊重してそれにこたえなければならぬ。それのできない体制があったとすれば、それは否定されるだろう。歴史参加に道をひらく体制こそは、われわれの求める必要条件である。

〝文明後社会〟

 『文明の解体』のなかで私は、現代を〝文明後社会〟と規定した。文明後社会とは何かといえばそれは文明社会ののちにくる社会のことであって、価値体系の相違によって特徴づけられる。そこでは、二一世紀を存在せしめるための条件が、価値体系の形で表現されなければならない。文明社会において価値高きものの大部分がここでは大幅に没落する。経済成長が謳歌されるのは文明社会の価値体系のなかのできごとであって文明後社会のものではない。経済成長の否定は、二一世紀を人類に約束するための必要条件の一つなのだ。これは直ちに少なくとも先進諸国における豊かな生活の否定につながる。かくして、リンゼー市長のケチの精神が肯定されるのである。

 発電所の新設、高速道路の延長、新幹線の拡充、すべては文明後社会においては時代錯誤と軽蔑される。便利もスピードも太く短い文明社会の一場の夢にすぎなかったのだ。

 価値体系の変革をかくまで要求するものは公害に加えて資源である。電力も交通もエネルギー資源の食いつぶしの上に立っている。そして、石油資源の命はあと三〇年にすぎない。一九八五年の石油消費量を現在の三倍近くまで引き上げるような田中角栄的な計画は狂気の沙汰である。これが産油国の規制や価格吊り上げによって挫折しないとしたら、それは奇跡であろう。

原子力さえも告発

 ある人は石油にかわるものとして原子力を神格化するだろう。しかし、現在の原子炉で消費すればウランは二〇年分しかない。高速増殖炉が成功すれば一、〇〇〇年以上ももつだろう。しかし、その危険性のゆえに、営業にこぎつけない高速増殖炉に対して、アメリカでは反対運動がもちあがっている。原子力発電所が、放射能ばかりでなく熱汚染によって諸国で告発されている事実を見逃してはなるまい。石油資源の食いのばしは、公害の面からしても未来に光明あらしめるための必要条件の一つである。

 数年前、財界人の国際的組織ローマ=クラブが、資源についての見通しをマサチュセッツ工大のプロジェクトチームMITに委嘱したのは周知の事実であろう。その答申によれば、投資額で四〇%、出生率で五〇%、汚染発生で五〇%、資源消費で七五%のダウンが一九七〇年代に実現しないかぎり人類の未来は保証されない。このクラブのメンバーにはわが経団連あたりのお偉方の名前も見える。政権に密着しているはずの彼等がそれを握りつぶしたのか、評価できなかったのか、それとも、耳打ちされた当の政府首脳がそれを無視したのか、あるいは理解できなかったのか、私は知りたい。巨船日本丸が、ナイアガラ瀑布の落下点にむかって突進していることの責任を財界がとるはずもないが、政府となれば責任を免かれる道はないだろう。

社会主義でも救えぬ

 文明後社会を、資本の自己運動ならびに科学技術の自己運動がメリットを失った社会と、私は『文明の解体』のなかで規定した。MITの答申が資本主義の好みに合わぬのは当然であろうが、それが確かならいわゆる自由主義体制は生き残る体制でないことになる。さりとて救世主気取りで登場するであろう社会主義が、十分条件を満たす体制でも何でもないことは明白である。たぶんそれは必要条件の一つにすぎないだろう。

 われわれはいま、光化学スモッグを呼吸し、汚染食品を食っている。それもだんだんひどくなるだろう。しかも枯渇を承知の上で資源を消費する。二一世紀を存在させるための十分条件として示されたMITの答申を無視するとき、われわれ日本人は、二一世紀をまたずして、軍備の撤廃、電力の節約、マイカーの全廃、新幹線のスピードダウンを要請されるだろう。それなくしては農業も漁業も壊滅に追い込まれ、食うに事欠くのである。

東京タイムズ 一九七三年九月八日

11 「自然、人間、科学、資本」

人類の歴史を動かす四つの自己運動

 今日のテーマの「自然、人間、科学、資本」というのは、私の著書『文明の解体』でとりあげた四つの柱になっていますので、『文明の解体』をめぐる話になろうかと思います。

 まず、今の日本、世界をみて、いろいろな動きがあって、私たちの気にくうもの、気にくわないものとありますが、それでは人類はいったいどうなるのかとか、日本はどうなるのかと思うと、例えば、田中角栄が首相になった時に、百年の計とか言いましたけれど、さて百年の計なんか立てられる人がどこにいるのかと思っていましたら、一〇年もたたないうちに自分がひっくり返ってしまいました。

 何かものごとをしていこうとするにあたっては、いったい歴史はどういうふうに動くかということを見通さなければいけないと思います。そうすると歴史というものは、すべて初めがあって終わりがあるわけで、人類の歴史も、初めがあって終わりがあるに決まっている。いつかは滅びなければならないと思います。どうなって滅びるかというと、例えば気温が非常に低くなるとか、自然の脅威というか、そういうものは必ずあるわけなんです。天体から申しますと、太陽はこれからだんだん温度が高くなって地表のものを全部焼きつくすと言われています。これは一〇〇億年も先のことですから、私たちはじかに関係ないのですが、それよりも前に人間は滅びるに決まっていますが、問題はどういうことで滅びるかということです。

 人類の歴史が始まっていろいろ経過してきたわけですが、それでは今どういう時期にあたるかと言うと、現在は人類の花の咲いた時期だと思うのです。だからそういう時期があれば、これから下り坂の時もあるだろうと考えられます。

 そういうことを総合的に考えて人類の歴史というものを大きく見ていく。イタリアに、ベネデット=クローチェという哲学者がいて(第二次世界大戦の直後に亡くなったのですが)、歴史というものは天気予報的な扱いをすべきではないと言いました。つまり天気予報というのは、あしたどうなるかを、あるいは長期的にはどうなるかを、観測データから出して行くのですが、歴史というものはそういうことのできるものではなく、人類の歴史というのは人類が動かしていくものである。気象状態というのは人間が動かして行くものではない。そういうことから非常に違うのだということです。

 歴史というのは、私たちが参加して方向を決めるものである。たとえば総選挙があれば、どこに政権が行くのかを私たちが決めます。そういうものがさしあたり日本の歴史に大きな作用をすることは明瞭ですが、歴史というのは天気予報とはちがい私たちが創るものであると、クローチェは強調いたしました。

 そうすると人類の歴史がどうなるかということは、私たちがどうするかということで決まってくると、一面においては言えるのですが、マクロに見れば自然の脅威というようなものが一方にあるから、なかなかこれは大ごとであるというのがわかると思います。

自然の自己運動 ―資源枯渇と公害―

 今日の演題で最初にあげた「自然」というのはそういう脅威をもたらすような自然をさしているのです。私の本の中では、「自然の自己運動」ということばを出しています。そして「人間の自己運動」、「科学技術の自己運動」、「資本の自己運動」、この四つの自己運動を唱えて、この四つが歴史を動かし、きめていくというふうに考えるわけです。

 「自己運動」ということばは、私が言い出したともいえますが、それは物理学者がいわせたものといえます。物理には自己運動ということばがありますので、結局物理学者的な発想になると思います。この本を書いたあとで調べてみましたところ、レーニンは『弁証法の諸問題』の中で自己運動ということばを使っています。それと私のものとがぴったり同じ概念ではないけれども、同じことばがよそにあるということを知って私も安心しているのです。

 そういう「自然の自己運動」というものがあって、これは自然のしめつけともいえるわけで、歴史の現段階が先ほども申しましたように、花の咲いた時期であるとすれば、これから散っていく下り坂の時期にあたります。何によって下り坂になるかといえば、私は、自然の自己運動の中で、資源の枯渇や公害をあげます。ひとによっては、人口の爆発が人類の歴史を凋落させるものという見方をしておりますが、私は先の二つの方が人口の爆発よりも大きな意味を持って来るのではないかと思っています。こういうことを自然の自己運動と言っているのです。例えば資源、石油を例にとれば、石油をどんどん掘る。掘れば少なくなりついには枯渇する。これは自然の理であり、自然とはそういうもので、使ったらそれだけ減る、そういう真理を自然の自己運動といっているのです。

 では公害を自然の自己運動というのはどういうことかといいますと、例えば除草剤をまくというようなことをすると、除草剤が何かの害をする。これは自然の法則で起こって来て、人間の力では何ともしがたいものです。また毒を飲めば死ぬというようなことを自然の自己運動とするわけです。汚染した空気を吸い、汚染した水を飲めば、身体がどうかなる。それは人間の自己運動というよりも、自然の自己運動です。自然が自分の法則によって起こしていくすべてのものを自己運動というわけですから、そういう立場からすると、資源の枯渇と公害の問題を結果する自然の自己運動が、人類の運命にとって、脅威になるだろうと思います。

 アメリカのケネス=ボールディングという人が、日本に来て話したことがありますが、『二十世紀の意味』(岩波新書)という本を書いています。この人は反共、反カトリック主義者で非常にアメリカ的発想だと思うのですが、この本の中で、今は〝文明時代〟ではなく〝文明後の時代〟である、文明に続くあとの時代であるというように述べています。私も文明後時代を考えます。彼もそう思っているのであって、文明の時代はすでに去りつつあると思います。

 夏になると国電などに冷房車が走りますが、私は冷房車が走るのは、そう何十年もあとまで続かないと思っています。だから冷房車がふえることは、私たちの気持からいえば、非常に快適でうれしいことですが、それは自分の首をしめている面もある、それは資源の枯渇の上に立っているのである、新幹線もつまりはスピードをダウンしなければならない時期が来ると、私は思うのです。

 マクロに見て、そういうものはすべて自然の自己運動として、資源の枯渇という面からしめつけられることであって、人間の意志ではどうにもならないことです。そういうことすべてを自然の自己運動と私は考えます。それが人類の歴史をだんだん落ち目にしていくだろうと思うのです。ですから道路網、高速道路網の整備拡張とか新幹線網の拡張とか、そういうことを考えるのは、本当は文明後時代にはふさわしくない、自然の自己運動を知らないからそういうようになったと考えたいのです。

経済成長はもう許されない

 そこでエネルギーに例をとりますと、経済の面から言えば、経済成長がエネルギー消費を高めています。二、三日前テレビで言っていましたが、エネルギー消費は年に世界で五%ずつ上がると、そういうことをこともなげに言うこともできる。佐藤栄作や田中角栄の時代に、昭和元禄なんていうことばもあったし、経済成長が非常に大きな数値を示したことがありました。グラフの上で、経済成長とエネルギー消費が平行して上がっていく。しかしこれが無限に続くはずがありません。自然の自己運動によって資源がなくなれば、エネルギー消費が増えるなんていう動きが続くはずがなく、どこかでさがるに決まっています。経済成長だって止まるに決まっています。なんとなれば、経済成長のためには、物資がいりますから、鉄鉱も石油も必要だろうけど、こういうことは自然の自己運動が許さないわけです。上昇するものはすべて危険であって、私たちの首をしめるものと考えます。安定成長というようなことばがあって、それでもなおかすかに成長するというが、しかしマクロに見た場合はどんな成長も許さないわけです。もし成長するとすればこれはみかけの成長であって、貨幣価値が下がり、ドルとか円とかのかせぎがそれをおいかけるんだけれども、実質上はおいかけられないことになるだろう。それでなければ首をしめることになる。ほんとはこれは下り坂にしなければいけないわけなんです。

 自然の自己運動について、そういうことばを使っても使わないでも、一番心配しているのは自然科学者なんです。スイスにジャック=ピカールという海洋学者がいますが、彼は海洋の汚染と海洋の資源とをにらみあわせて、二一世紀が今のような消費レベルで迎えられるとは思わないというんです。二一世紀というのはもっときりつめたものになるだろうと思っています。

 イタリアにオリベッティという事務機械やコンピューター会社があるのですが、そのオリベッティが主催して、「ローマ=クラブ」というのを作って、天気予報的ではあったが未来の推測をしたわけです。そこで二一世紀というのは非常に疑問に満ちた世紀であると、お互い認識しあったわけです。資源の枯渇の問題では、石油資源はあと三〇年で石油はなくなるということで、一九八〇年代になったら日本は石油を売ってもらえないだろう、そして一九八五年あたり以後になったら、日本に石油は全く入ってこないだろうという人さえでてきました。

 しかし最近中国や北海あたりに大きな油田が発見されてきまして、油田が将来発見されるということも考慮しますと、七五年ぐらいの間は石油はもつだろうといわれています。七五年というと今生きている人の一生は大丈夫だと一応考えられもしますが、しかしそう資源が底をつきそうになった場合は産油国が石油を簡単に売るとは思いませんので、七五年より前に石油を買うことは非常にむずかしくなる。そうすれば、農業用機械も漁船も、石油で動かすことはできなくなります。飛行機が石油以外で飛ぶことは考えにくいので、飛行機も飛ばないというように、交通機関にも影響が出て来る。

 新幹線が今東京と大阪を三時間で結んでいますが、リニアモーターというのを開発して、東京と大阪を一時間で結ぼうという話がでています。これは速度が三倍になるわけです。速度が三倍になるとエネルギー消費は速度の二乗に比例するので九倍になります。ただ所要時間が三分の一になるので総エネルギーは三倍にしかならないけれど、単位時間あたりのエネルギー消費は九倍になるわけです。

 そういうものが許されるはずがなく、そういうことから自然の脅威ということを考え、資源の枯渇とか公害とかに表われた自然の自己運動が、人類の歴史を下り坂にもっていくだろうというのが私の考えです。

人間の自己運動

 こうして冷房がほしいとか、大阪まで一時間で行きたいとか、そんなことを考えるからいけないんだという話がでてくると、ここに「人間の自己運動」というものを置きかえるわけです。つまり人間の自己運動というのは、非常にありきたりのことばを使えば、人間の本能的な要求です。暑い時にはもっと涼しくならないものかとか、寒い時はもっと温かくならないだろうかとか、もっと早く目的地に着けないだろうかとか、というような人間の欲求、そういうものを「人間の自己運動」と名づけるのですが、そういうものがあるからこそ、早く走ってみたり、温めたり、冷やしたりというエネルギーの消費が起こってくる。エネルギーだけではなく、物資の供給も起きてきます。いわゆる豊かな生活をという願望があれば、そこからどうしても人間の歴史をしめつけるような要因がでてくるわけです。

科学技術の自己運動

 「科学技術の自己運動」について申しますと、科学者というのは、ほうっておくと、例えば新幹線を設計した技術陣というのは、それが完成すると、もっと速いものはできないだろうかと、勝手に、人に頼まれなくても考えるわけです。方程式を先へ先へと進め、馬車馬的なところを持っています。むろん頼まれてやる人もいますが、頼まれなくてもそういうふうに考える人もいるわけです。

 例えば電話をかけるのに先方の顔が見えた方がよいだろうと言って、テレビ電話を考えるなど、科学技術をどこまでも野放しにしておくと、人間の自己運動をどんどん推進する方向にいくのではないか。つまりこれは抱き合わせになっているわけで、人間の自己運動から科学技術の進歩は出てくるのだと思います。

 その中の一番象徴的なのは、スケート競技でしょう。出発はピストルの合図でします。フライングといって先にとび出したりすると、反則になります。ではゴールインする時はというと、一〇〇分の一秒の測定をしているわけです。ゴールインしたというのはどこで判定するか、その方面の友人に聞いてみたら、鼻の先とか胸とか、みんなちがうというのです。だから手足と首を切り離して、胴体の一番先の線がゴールの線を通る時を測定することになったというわけです。でもスタートの時は大ぜいが一斉に一〇〇分の一秒以内の誤差で出発することなどないのですから、これはまったくおかしなもので、時間の測定はゴールだけで精密な測定をしているのですね。

 科学者とか技術者というのは、そんな非常にくだらないことへ進んでいくおそれがあるのです。それを科学技術の自己運動といっているわけです。新幹線のスピードアップもそうだし、そういうようなのはいっぱいあります。国民総背番号制とか、電話の押しボタンとか、そういうことはみんな科学技術の自己運動の中で考えられてきたんです。

資本の自己運動

 最後に「資本の自己運動」ですが、資本というのは抜け目がないのですから、例えば、国民総背番号をやると、その機械を作ればたくさんもうかるわけですから、科学技術の自己運動とすっかりゆ着して、ぜひやってくれということになります。自己運動というのはそれ自体の自己目的的なものですから、国民が反対するかどうかなんてことは知っちゃいないわけです。前にも出ました冷房の問題でも、冷房車によって国鉄は費用がかかるわけですが、冷房装置をつけることを一生懸命売りこんで、しかも人間の自己運動を利用して走らせ、その結果値上げの材料にして運賃を値上げしなくてはならなくなる。そういうように、電話にしても、いろいろ金のかかることをして、値上げをするわけです。金のかかることをなぜするかと言えば、資本の自己運動であるわけだし、もうかるからであるんだし、科学技術者というのはそれに容易に乗っていくわけです。そういうことによって私たち人類の歴史というものは落ち目になることを急いでいるような気がするのです。

 東海地震が近いと言われています。それも地球の自然の自己運動です。そういうものが、人類あるいは日本の歴史に東海地方の歴史に、強いかかわりを持ってきます。このように自然の自己運動というのは、この四つの中で一番強いですね。そうすると自然の自己運動をしじゅう横目で見ながら、私たちはすべての自己運動を規制しなければいけないのです。なぜかというと規制しなければ人類の滅亡が早まるからです。そう考えると経済成長の政策的な動きというのは、すべて自然の自己運動に対しては、非常に冒険であるということです。私たちはなるべく成長しない方がよろしいですね。

自己運動のチェック・コントロール

 そして今、自由世界を守るという話がありますが、どういうことかというと、それは自己運動を守るということだと私は思います。いわゆる自由ということは、自己運動の自由であり、これが自由主義であると、私は言いたいですね。ですから私は、自由主義は人類を喰うだろうと、思っているのです。

 資本の自己運動に関しては、独占禁止法などとかいうのがあって、それを規制していこうとしています。しかし独占禁止法の制限は、何だかんだといろいろゆるめられてきている。それから人間の自己運動というのは、戦後の教育というのがそうですが、なるべく自由に行こうというようなことになっています。

 自己運動というものは、他にもあってもいいわけで、五つ六つと挙げてもいいのですが、四つの柱を立てた根拠は、これだけあれば十分だと思って、この考えをまとめたのですが、この四つはみな私たち人類を喰うだろうと思ったからです。

 そうすると、その自己運動に対して、私たちが規制しなければいけないですね。規制ということばが一番いいかどうかわかりませんが、チェック・コントロールということです。一つの自己運動に対して点検して制御することが必要である。自然の自己運動についてはしょうがないけれども、人間の自己運動、科学技術の自己運動、資本の自己運動に対しては、チェック・コントロールすることが必要だろう。それでなければ人類の歴史は、がけっぷちに立つと私は思っています。

人為的な気象異変

 根本順吉さんの書いた『氷河時代が来る』という本が売れたりしていますが、氷河時代は前にも四回ほどあって、その氷河時代が来ることは自然の自己運動であります。天文学的な地球の位置の問題で、陸地が北半球に集中していますから、北半球が太陽の熱をたくさん受けるかどうかで決まってくるのです。地軸が二三・五度傾いていて、それが少しずつ〝みそすり運動〟といって、傾きながらまわっているのです。このために北半球が太陽から熱を受ける度合いは周期的に変わるわけです。今までの氷河時代というのは、少ししか熱を受けないような天文学的位置に来た時だったのです。そのデータから計算しますと、過去の氷河期の年代は計算とぴったり合うのです。

 ところが今氷河期が来ると言っているのはどういうのかというと、これは自然の自己運動にはちがいないのですが、主として公害から来ているのです。だから気温が低下するにしても、今までの天文学的なものではないわけです。天文学的には今は氷河期が過ぎていくらもたっていなくて、だんだん暖かくなる時なんです。だから氷河期がくるのではなくて、だんだん暖かくなるのではないかという説もあるのです。そういうように意見が二つに分かれたということは、私たちが自然の自己運動に対する十分な知識を持っていないからと言うことになります。

 地球のまわりに二酸化炭素がだんだん増えてきまして(太平洋の真中のハワイあたりで調べても前よりだんだん増えてきています)、太陽熱が地上にとどきにくくなるのです。

 それからまた一面、地球が輻射によって熱を放射すると、それをまた反射して地上にもどすということもあって、熱をよく受け入れないし、熱をよく発散しないという矛盾した条件があるわけです。熱をよく受入れないのと、発散しないのと、どちらが優勢かということがまだよくわからないんです。

 実は二酸化炭素だけではなく、浮遊塵というのがあります。これはだいたい人為的なもので、例えば畑で何か焼いた時出てくる灰は割合い大きいから、あまり高く舞い上がらないで、機械からでるもの、飛行機、車の排ガスなどの中に入っているものは非常に微粒で、上昇気流にのって上がって、一日に一センチメートルしか落ちないのです。一日に一センチメートルですから、三メートル六五センチメートルでも一年かかりますから、うんと高いところの「ちり」はなかなか落ちてこないのです。そういう「ちり」がいっぱいあって、今だいたい五〇〇万トンあると言われています。もしこれが五、〇〇〇万トンになったら地球上の平均気温は四度になり、冷えてしまって植物は全部育たないという説があります。これは植物学者が言っていることです。ですから今の一〇倍のほこりが上がったらだめだということなんです。

 結局温室効果と、雨傘効果との二つの兼ね合いをどうみるかによって、氷河期が来るかどうかの意見がわかれるのです。氷河期が来たとすれば、これも自然の自己運動なのですが、昔の自然の自己運動の氷河期とは性質の違う、間接的に人間が作った氷河期なんです。

 二酸化炭素とか浮遊塵みたいなのがだんだんふえて、それが首をしめるかどうかは今のところわからないけれども、空気が濁ってきていることだけはたしかです。

 アメリカの標高一、九三〇メートルのウイルソン山天文台に、今はちがいますが、世界最大を誇った望遠鏡があった。こんな標高の高いところでも五〇年間観測して、ほこりがでて空気の透明度が八~九%落ちたということです。そのほこりが何をするかは、ほとんど究明されていないとはいえ、それが人類の歴史にとってありがたいこと、良いことをするとは考えられないと多くの科学者は考えているわけです。ですからチェック・コントロールというのは、すべての自己運動に対して必要だと思うのです。

地震に備える

 それでは、地震みたいなものに対してどうなるかというと、この自然の自己運動を私たちがコントロールするのはむずかしいけれども、地震があっても人為的に被害を少なくすることなら不可能ではありません。

 関東の大震災のことを今も心配している人がいますが、大正一二年の関東大震災当時、私は大学生でした。今は地震研究所があって地震学が非常に組織的に研究されるようになっているのですが、それは関東大震災のあとにできたもので、当時地震学を勉強しているのは、東大物理学科の学生だけでした。私が物理学科の学生時代、東大に大森房吉という世界的に有名な地震学者がいまして、この方の講義を聞いたのです。大地震があった当時、文部省に震災予防調査会というのがあって、物理学科の学生で東京にいる者は集まれと声がかかったんです。私と和達清夫(元気象庁長官)と藤岡由夫(元埼玉大学学長)と、東京にいるのは三人でした。大学は休みなので、文部省の車に乗って、東京から横浜にかけて震災の状況を全部調べた。同時に火元を調べた。火元を調べるには聞き込みをやりました。その時はもう罹災者はその土地に帰って、掘立小屋を作ったりしていましたから、ここは何時ごろ燃えましたかと、ずっと聞いてまわってその時刻をつないでみるのです。そうするとまん中が火元とわかるわけですから、そういう方法で東京中をずっと調べたんです。火元が三百何ヵ所ありました。

 その時のことを少し話しますと、平屋でつぶれた家は一軒もないです。二階屋はつぶれたのも、つぶれないのもあったんですが、そのつぶれ方が、一階はつぶれたけれども二階はそのまま、どこへ行っても全部同じなんです。ということは、非常に重要なデータで、地震というのは火事さえ気をつけていれば、それほど恐くはないと思うのです。木造の家がつぶれることもあるけれども、机の下や柱のかげになれば助かる確率は多いでしょうから、死ぬようなことはあまりないのではないかと思います。

 地震研ができてからずっと家屋が耐震的になってきた。昔は壁に筋かいが入っていませんでしたのに、現在は入れろと勧められているのも関東大震災に学んでいるからなんです。また、その時は瓦が非常に多く落ちてきましたが、今はひっかけ桟瓦といって桟に瓦をひっかけるようになっていますけれども、それも震災以後のことです。そういう意味で、振動だけによる被害というのは昔よりずっと少ないはずなんです。だから火事さえ出さなければ地震はそんなにこわくないという気がします。

 そうすると自然の自己運動によって私たちが受ける災害というのは、ある程度私たちの知恵によって逃げることができるのではないかと考えます。私は練馬にいますが、火事でどこにも逃げられないとなったら一〇〇%だめだと考えています。

 それから関東大震災の時をみますと、時刻はだいたいお昼で、炊事をしていた。当時炊事は七輪とかそういうものがよく使われていたので、それがひっくり返って火が出たというわけなんです。今は冬だったら石油ストーブという非常に危険なものがあるので、東京都内だけで三万ヵ所以上燃えあがるだろうと言われています。

 それからまたこの間横浜で大規模な火災実験をした。それによると、車は自分から火を出さなければ、家が燃えても、そばに置いてあったり、駐車場に置いてあったりしても、すぐには燃え移らなかった。おそらく車は自分から火を出すことはないですね。

 やはり私たちが、自然の自己運動について十分知らなくてはいけないですね。そこに自然科学の価値もあるわけですが。

科学技術と資本の自己運動の結託

 そして科学技術の自己運動が非常に問題になってくるのは、資本の自己運動と結託した場合です。例えば今地震の予知について非常に真剣にいろいろ研究されているけれども、それをあまりやっても金もうけにはなりません。地震計を作るなんていうのはあまり金もうけの対象にはなりません。それからまたガンの予防というようなものも、そういうのはあまり進まないわけです。そして変な新幹線とか、国民総背番号だとか、そんなものは進むわけです。科学技術は全部デメリットばかりではないのですが、変な方に行くのは政治と結びつくとき、資本と政治は結びつくものですからそういう場合です。科学技術の自己運動が、資本にゆがめられた時に困ったことを起こすのです。地震の災害を防ぐ方法とか、予知の方法とかいうような科学知識は私たちにとっては恩恵になるわけです。ですから科学技術の自己運動は、あながちいけないというわけではありません。資本と切り離されなければあぶないということです。

 ところで先ほど、自己運動を四つ並べて、そういうものを自由にし、自己運動を放任することが自由主義であると言いましたが、それは、「自由主義」を批判するというような立場から言っているのであって、「自由」というものは悪いといおうとしているのではありません。というのは私たちが求めている自由というのは、決して自己運動の自由ではないということを強調しなければならないのです。別に自民党の悪口を言わなければならない理由はないのですが、自民党の場合には、自由世界、自由主義を守るということを非常に強く打ち出して、金科玉条にしていますが、自由とははたしてどういうものなのでしょうか。

自由とは疎外のないこと

 「疎外」ということばがありますが、私は、自由は疎外と関連していると考えます。疎外とは何かというと、自分から出たものが、自分に対立するということをいいます。たとえば協同組合を自分たちが合議して作った。その協同組合が自分に対立する。そうすると自分たちはこんなつもりで作ったのではない。こんなはずではなかったというのが疎外なんです。

 日本の国は、主権在民ということになっていて、自分たちから出たもので、私たちが作ったんだといえます。日本のやり口というのは政府のやり口と言ってもいいわけですが、それが自分と対立するなら疎外されたと言っていいわけです。それが疎外の正しい意味です。自由とは、疎外のないことだという規定があります。それはいわゆる自由主義の自由とはちがう。

 私たちは主権を持っていて、何かこうしたいということがあるとすると、一方国家もそういうことを思っていて、そういうことを国家権力がやるということだったら、私たちは疎外されていないわけです。そういう疎外されないことが自由の実体である、そうあるべきだと私は思っているのです。

 疎外ということばは、もともとドイツ語のEntfremdungエントフレムドンクで、他人として遠ざかるという意味です。自分から出たものが他人となって遠ざかることです。ヘーゲルが作ったことばでドイツ語でこういうように決めたわけです。

 私たちがだれか代議士を自分たちの意志で当選させたところが、ぜんぜん赤の他人として思いどおりのことをしないというような場合、疎外されたと言うんです。疎外というのは非常にさびしいことです。そういうことがない、自分の思うとおり、自分のやろうとしていたとおりになる、そういうのが真の自由だと思います。そういうものをこしらえるべきではないかと考えます。

エネルギーと汚染の問題

 自然の自己運動の中で、私たちをしめつけていくものとしては資源の枯渇があげられます。石油がなくなったら、原子力があるではないかというが、今のウランの使い方でいくとそれも二〇年しか持たない。そうすると、日本が原子力開発をいくらやっても、二〇年しか持たないというリミットがあるわけです。核燃料が作れませんから、これはどうにもしようがない。

 ところが、原子力発電所でプルトニウムができるのですが、このプ(ブ)ルトニウムが核燃料になるので、それをうまく連続して使うようにする。これを増殖炉という。増殖炉にすれば一〇〇倍以上も使えるので、今のウランで二、〇〇〇年ぐらいもつわけです。

 しかし、これは非常な危険性を伴うので、アメリカでも反対運動が起きています。この事故が非常にこわいので、これがまだ商業ベースにのる前から、もう止めた方が良いという意見もあります。

 それではどこからエネルギーを求めて来るか、それについてはいろいろな考え方があって、科学技術が導入されるのですが、もっぱら資本によって開発されるのですから、もうかるように作らなければ何も進まない。太陽熱の利用が見なおされ期待される時代が来るともいう。太陽熱炉というものが非常にもうかれば資本が肩入れするでしょうが、太陽熱でぼろもうけできる可能性は非常に少ないですね。

 それから潮の満ち引きのエネルギーを使ってみようという意見もありますが、しかしこれも資本がもうかるようにはなかなかいかない。せいぜい建設資本がもうかる程度のことでしょうから、なかなか進まないで、結局増殖炉のように公害の大きいものの方に、資本が目をむけるようになると思います。

 いずれにせよ、エネルギー問題はどうしても増殖炉に目をむけなければならないようになりましょうが、そうでなければウランがなくなってしまいますし、日本はウランを買えなくなりますね。

 そうすると今度は核融合炉というのが、今世界中で問題になっているが、これは原料が水素で、水素は水の中にあるのですから、原料は無限にあるわけです。そこで資本も科学技術者も世界中が核融合炉の研究をしていますが、これは非常にむずかしいのでいつごろできるかまだわかりません。一億度という高い温度の持続が必要ですが、こんな温度にたえる物体はありませんから、容れ物を作らないで空間に一億度のプラズマを閉じこめなくてはいけないのです。一億度というのはすべてのものが飛んでしまうような高い温度ですから、いろいろ工夫がいるわけです。融合炉ができたら、話はつくのかというと、これまたいろいろな汚染が今から心配されています。だから汚染なしにエネルギーを手にいれるとすれば、太陽熱か、潮の満干、波力、地熱などに限られるわけです。

クローズドシステムと循環系

 また公害が問題になってくるので、私たちはクローズドシステムというのを非常に高く評価せざるを得ないのです。これはどういうことかというと、たとえば宇宙船では全部が閉じられています。閉鎖系といってもいい。こういう宇宙船みたいな中で、たばこをすえば、限られた空間の中に煙がたまって困るので、たばこはすわないようにしよう。やたら物を燃やさないとか、おしっこはまたきれいにして飲むとか。循環というか、閉じられた空間だということを覚悟すれば、よけいなものは出さないようにしなければなりません。

 たとえば農薬にしても、農薬が土壌中にずっと残っているとしたらまかない。どこかへ逃げてくれればまいてもいい。だから大きな宇宙船を作り畑でも作るとしたら、農薬なんかまきませんね。

 つまりそれがどこかへ行って無害になってくれるだろうと、甘く考えているからいろんなことをやって平気でいるわけです。閉鎖系として考えることによって公害はなくすことができる。

 これは中国あたりでは非常に高いレベルで実践されています。中国の紙パルプ工場では廃液を捨てないで、みんな何か化学物質にして利用している。

 私たちが人類として発生した時には一つも公害なんて出さなかった。大小便は作物に還元する、つまり循環系であったわけです。だから、閉鎖系のなかでは循環系でないと困るわけですから、水も、はいた息も、大小便も循環する。何も害になるものは作らない。そういうことをすべての面でやったらいいだろうという考えもあるのです。

 たとえば脱硫装置です。石油や重油に硫黄分が残っていると、例の亜硫酸ガスになって大気を汚すので、原油の時から脱硫しています。そこからとった硫酸で私たちの硫酸の需要は全部間に合ってきて、一つの循環系ができたわけです。

 とにかく循環系を作る、そういう方向にすべて考える。農業機械を使うと、浮遊塵になる排ガスを出すことになって循環系に入りませんから、止めるべきだと思います。

 私がこれまで展開した話は、自己運動とチェック・コントロールシステムの話でありました。自然の自己運動によって、資源の枯渇が進んできたら、結局エネルギーは貴重になり、めったに使えない。中国へ行ってきた人の話に、電灯が全部暗い。駅の構内でも、まっくらみたいだと言うのです。わが国でも、エネルギーの節約ということがだんだん強く叫ばれなくてはならなくなるだろうと思います。そうすると省力化というようなこととは結局は逆の方向へ動いて、農業用機械を止めるとか、非化学肥料化をするとか、結局資源を長もちさせることだと思うのです。

 石油がなくなったら、電気でやればいいではないかと言うが、発電所で電気を起こすには石油を燃やすわけですから、バッテリー充電の電力は石油か原子力ですからね。電気自動車に代えても、節約にはならないのです。

 たとえば、かつてのニューヨークのリンゼイ市長は、使わない電灯やテレビはすぐスイッチを消せ、水洗トイレの水のタンクの中にレンガを一つ入れろ、そうすれば水がそれだけ減る。水道の水だって圧力をかけるためには電力を使っているので、そういうようにすべて節約しようではないかとか、買物に来た場合でも包装は止めようとか、ニューヨーク市民に示したことがありました。そういう節約が全人類が生きのびる道になるだろうということです。

人間の回復のための歴史参加

 歴史がだんだん逆もどりというか、文明時代は去って、文明後時代に足をふみこみつつあるのではないでしょうか。その場合に私たちは何を考えたら良いのか。いずれにしても人類の歴史を見通した上で考えることが大事だと思うのです。

 私の考えによれば、自然の自己運動、人間の自己運動、科学技術の自己運動、資本の自己運動、そういうものが人類の歴史を決めていく、あるいは解明していくであろうということです。その中で私たちは手ばなしで自由主義というものを野放しにしていたら、自分の首をしめるだろうと。〝自由〟というのは〝疎外〟をぬけ出すこと、あるいは〝人間の回復〟ということでもあります。豊かな生活というのは、快適な生活というよりむしろ人間の回復であって、疎外からぬけ出すことではないでしょうか。そういうものに価値を置いていかないと、何かみじめなものになると思うのです。人類の運命というものは、政府のやり方が気に食わないというようなことで、あまりほがらかになれないようなら、ますますこれは困るではないかと、そんなことを考えています。『文明の解体』の中に、それらのことに関連して、いろいろなデータもかなり入れてありますが、そういうものを書いた中で、文明とは何かを批判してあります。人類の歴史というものを展望せずに、いろんなことをするということは、たいへん困るのではないか。政治をする側に対してはもっと声を高くして言いたいのですが、百年の計ということばは昔からありましたけれども、今百年の計を立てるということは不可能である。どんなことがあるかわかりませんから。百年たった時は今とはすっかり事情がかわってしまうでしょう。そのことでクローチェが言うように、人間の歴史というのは天気予報とはちがい、私たち一人ひとりが創るものである。歴史参加を言っているわけです。

 最近サルトルが文学も参加の文学でなければいけないと言っている。参加とはどういうことかというと、歴史を作るために参加することであって、歴史を動かしていこうと、そういうふうでなければいやなんだと、『文学は何が出来るか』に書いております。これもけっこうだし、科学から何が出来るか、人間は何が出来るか、農業は何が出来るかもけっこうです。つまり歴史参加の意味で、何が出来るかということをよく考えて、できることをやってみようではありませんかと申し上げたいのです。

協同組合研究月報  一九七七年三月

12 実践の哲学と科学者の遺言

羽仁 五郎はに ごろう 歴史学者
三石 巌みついし いわお 物理学者

終末に対する洞察力

編集部
 羽仁先生の著書『都市の論理』『抵抗の哲学』、三石先生の『文明の解体』は、学問をいかに実践の場に投影しようかということで苦労なさっている著書です。その志向が一部の人たちに牛耳られている学問の党派によって否定されています。学問は学問の中にだけ存在するという学究者にとっては、当然『抵抗の哲学』も『文明の解体』も『都市の論理』も批判の的になるだけです。そこで、あらためて考えてみたいのは学問のあり方です。羽仁先生の持論によればアウシュヴィッツによっていままであった学問は、すべてとはいわないがかなりの部分が否定されたわけです。そういう認識に立ったうえで学問とは何であるか、それが実践と経験のなかにいわば予見をふまえた上で大胆な投影を、現実の実践のなかにどう生かしていくかということを語っていただきたい。

羽仁
 この『文明の解体』というのは非常に驚くべき本だ。ぼくは読んでびっくりしちゃったんだが、最初の偽わらざる印象というのは、やっぱり『資本論』を読んだときのような感動、それからレーニンの『帝国主義論』を読んだときのような感動。ぼくはそういう意味じゃ、マルクスの『資本論』やレーニンの『帝国主義論』なんかと並んでこの本が、現代に積極的に活動するすべての人たちに読まれることを希望する。
 この本の構造は広大だ。大きなところに立ってやっている。この本をつらぬいている自己運動の論理というのが、その自己運動をまず自然の自己運動、人間の自己運動、科学技術の自己運動、それから社会というか資本の自己運動というふうに論理を展開させているのだが、マルクスの『資本論』もそうであり、レーニンの『帝国主義論』もそうであるけれども――いままでの普通一般の学者のは要するに教科書なんだが――およそ教科書とは性質の違う本なんだ。それはぼくの『都市の論理』も教科書とは違うんだ。だから東大の西洋史教授の木村正三郎君なんかは、ぼくの『都市の論理』に書いてあることは高等学校の西洋史の教科書に書いてあるようなことが書いていないといって苦情をいうんだが、そういう読者の誤解はあると思う。君のこの本も、つまり教科書に書いてあるようなことは書いていないんだ。
 いわゆる教科書的な学問、概論的な学問、講壇的な学問はアウシュヴィッツでもってまったくだめだということがわかった。それはつまり実践と結びついていないからだ。

三石
 『抵抗の哲学』には著者が感動しないようなことは読者も感動しない、受け売りはだめだと書いてあるけれども、僕の本にはまさに一つも受け売りはないし、著者は感動のなかで書いたわけだ。何に感動したかといえば、突飛に聞えるかもしれないが人類の歴史はすでに下り坂である。その危機感が書かせたんだ。クロォチェ流にいえばそれは気象学的な観測にすぎないだろう。そうするとやっぱりわれわれが下り坂をきめる主体なんだな。そこで一日も早く下り坂に対する処置をとらずばなるまいというのが僕の動機だ。だからどんなにずさんであって未熟であってもかまわないと思って書いちゃった。とにかくいままで考えていたことをぶつけてやろうと遺言のつもりで書いたんだ。科学者の遺言ということだな。

羽仁
 いま君がいった人類が下り坂ということだが、最近典型的な学説としては三つか四つ出ている。この君の本にも書いてあるが、一つはピカールの発言。ピカールという人は、ぼくらの若いころにバチスカーフを発明したA・ピカール教授の子供だが、そのピカールのおそらく人類はあと三〇年ぐらいしか生存しないだろうという発言だ。それから第二は、ローマ・クラブがマサチューセッツ工業大学の研究所のフオレスタル教授に頼んでコンピューターで計算した……。

三石
 あれは地球のモデルをつくったというんだけれども、いかなるモデルかぼくは知らない。要するに資源的な面と人口の面と両方からはじいたんだろう。

羽仁
 そこでいまの調子でいけばあと二〇年か三〇年で人類は終わると計算された。三番目は、OECD(経済協力開発機構)委員長のマンスホルト。最近、経済と人間社会についてのユネスコ国際会議をやったディスカール・デスタン。それからいわゆる経済成長というものをゼロにしたほうがいいというゼログロース。これらは要するに欧州共同体委員長のマンスホルトなり、あるいはイギリスの経済学者エズラー・ミシャンなどがいっていることは一致して、現在のような状態でそのまま進んでいけば、人類の寿命というものはおよそあと三〇年ぐらいしかないと。
 君の本の序文に、北極圏の気温が一九五八年から一〇年間に九度の低下をし、この寒冷は次第に低緯度に波及しつつある。それから台風の発生の極端に少ない年のあとに極端に多い年が続いている、そしてボルネオは初めて乾季を忘れたとある。それからこの本の最後に出てくる実に驚くべき予想、現在の調子でいけば、あと一〇年たたないうちにアラビアから日本まで二〇万トンのタンカーが原油を積んで三キロおきにずっと並んでくると、これはそれぞれ相当科学的な根拠に基づいた予想で、いわゆるこないだ流行した未来学みたいなものとはまったく違うんだな。
 この人類の終末に関する科学的な予想、これは予見じゃないんだ。これは第一に君に伺いたいのは、この科学的な根拠が、普通世間の人は、まあそんなことをいうけれどもそんなにまでならないだろうというだろうが、たとえば関東地方に一九二三年の関東大震災のようなものが近い将来にくる、そういうエネルギーが関東の地下に蓄積されているというものの科学的な根拠がどの程度まであるのか、たんなるいわゆるおどかしではないんだ……と。

三石
 ぼくが計算したんじゃないけれども、それも地震学の上では常識になっている。地形の歪みの量から計算すればそういうことになるんで、おどかしどころの話じゃないんだな。

羽仁
 いままでの考え方では、つまり一種の終末論だ。この終末論が最近、だんだん支配的になってきたということは、人類の歴史の上で、イエス・キリストがあらわれてくる前の旧約の時代に終末論が支配的にあらわれてきて、そしていまの『新約聖書』にある「黙示録」というものがその時代に生まれたんだな。この「黙示録」というのをいま読むと、みんな実際びっくりするだろう。いまを書いてある。空はすっかり濁り、水の中には毒が含まれてきている。それで世界は滅びちゃうというんだが、まるでいまを予見したような……。実際ぼくは、いまだれでも「黙示録」をちょっと読んでみるといいと思うんだ。

三石
 ぼくもこないだ、偶然に開いてみたんだ。洞察ということだろう。いまこそ洞察が要求されていると思うんだ。

羽仁
 実際『旧約聖書』に書いてある「黙示録」的な思想あるいは終末観というものは、古代にあらわれた一つの思想あるいは世界観であるんだが、現在はそれが、思想じゃないんだ。具体的な事実になってあらわれているということが、いわゆる昔の「黙示録」なり終末観と違う点で、その他の点はまったく同じだと思うんだ。それがあの二、〇〇〇年くらい前に予想されていたが、その時代には思想として、あるいは予見として考えていたということが、現在は現実になってきている。

三石
 ぼくは自然の自己運動というものを見ている。それはぼくが自然科学をやってきたことの総決算のような気がする。そしてその自然の自己運動が人類を終末に追いこむというのが、ぼくの考え方なんだ。自然のしめつけという言葉を使っているんだが、旧約聖書の場合、ぼくとちがって情報の整理も収集もあったんじゃない。洞察があったと思う。君がさっきいったように、世間の人はまあそんなことをいうけれどもそんなことにもならないだろうと楽観する傾向がかなり強い。この自然のしめつけの現実のなかで、二、〇〇〇年前の人の洞察すらないという感じだ。ぼくとしてはこいつは我慢がならないんだな。その憤懣をぶつけたのが『文明の解体』といってしまってもいいかもしれない。君のいうとおり終末はすでに思想じゃなくて現実の問題なんだ。大した洞察力もいりゃあしない。

下部構造としての自然と人間の自己運動

羽仁
 そういうときに君の『文明の解体』をぼくは『資本論』なり『帝国主義論』とおんなじような意味で独創的な思想だというのは、君が受け売りじゃない独創的な思想を述べている。ぼくは君をずいぶん昔から知っている。自由学園で一緒に仕事をしていたころに君がいわゆる自転車の科学をやっていたね。あれはファラデーのローソクの科学とか、あるいはガリレイの新科学対話というふうな思想のつまりまったく教科書的でなく、概論的でなく、生まなましい実際の生活のなかから切り開いていく。つまり生活のなかから、実践のなかから理論を発見していくということを五〇年来君はやってきているんだが……それが今度この『文明の解体』というものになってきたんだな。
 その点のところがぼくは、やっぱり学者に一番訴える点、アウシュヴィッツで破産を暴露したような、まったく役に立たない学問、一言でいえば大学の学問といっていいんだろう。したがって学生から解体を叫ばれているようなそういう学問とまったく違う学問をわれわれが要求している。それがこの君の著書にも出ていると思うんだ。

三石
 自己運動という言葉をいかにして思いついたかというと、これは物理学上の概念で、たとえば振り子は振動する。これは振り子自体のアイゲンベウェーグンクといっている。これは日本語にすれば自己運動ということだろう。アイゲンというのは英語にしたらエゴイスティックじゃないか。振り子の振動はエゴイスティックな動きなんだな。自然現象というものはみんなエゴイスティックに動いているとぼくは見るんだ。だけども、たとえば落体の運動とか、あるいは電気の伝導とかそんなものをだれもアイゲンベウェーグンクだなんていいやしない。振り子の振動みたいなものにかぎっているわけだ。振り子の場合だと素朴に考えて、いかにもこれはエゴイスティックなんだな。勝手な周期でやっているじゃないかと、そういうことからきているんだ。日本語に訳した場合には自己運動といったためしはないんだ。固有運動というんだ。
 例の大学紛争当時、君が盛んに動いていたころにぼくは女子大にいたんだ。そこで大学祭があって、全共闘だの民青だのの活動家の男の学生を壇上に上げてパネル・ディスカッションをしたことがある。そのとき、ある男の学生が自己運動という言葉を使ったんだ。これが物理学上のこれと符合する点もあって、これはいいことをいってくれたと思ったんだ。しかし、たとえば市井三郎氏の『歴史の進歩とはなにか』のなかにも自己運動という言葉が使われている。それからみても自己運動という言葉には市民権がある、それならこれでいこうと考えたわけだ。
 で、ぼくの自己運動というのは素朴にいえば一人歩きというほどの意味なんだ。どうも歴史というものは、手を拱いていても一人歩きできるようだ、というのがぼくの直感なんだ。むろん一人歩きを許さないという立場もあるけれども、何もしなくたって歴史は一人歩きするというのがぼくの発想なんだ。人間もそうだし、自然もそうだし、科学技術もそうだし、資本もそうだと。

羽仁
 毎朝中央線に乗ってきて、東京駅丸の内で降りるあの群衆、あれは自己運動というのか。

三石
 状況によっては主体的にストライキに参加するというような意識的なチェック・コントロールの用意がなければそういうことになる。何やらそういうものが歴史を動かしている一番基本的なもんじゃないかという気がしてしようがなかった。ぼくの史観はそこから始まっているんだ。そうするとたとえば革命の歴史みたいなもんでも、どうやら自己運動じゃなかったかという気がしてくることがあるんだな。それも『文明の解体』で論じたことなんだが。
 先ほど学問という問題があったけれども、たとえば物理学の専門家でございということは、物理学のこと以外は知らなくてもいいという免罪符のごとき役割りしかないだろう。そういうものは一切だめなんだ。やっぱり現代は何か、それから歴史を動かすものは何か、そのことを教えることこそが教育なんだろうと考えるんだ。ぼくは『文明の解体』によって、試論であってもこれを実現しようとする気持があった。ここには誤謬もあるだろう。しかしクロォチェがいっているように真理をめざした誤謬ならば、その上により高次な真理が生まれてくるだろうということで捨て石と思って大胆不敵になったわけだ。だから、不完全なものでもかまわないという構えだ。この終末期にあたって一言日本人がそれについていわなかったら世界に相すまないという気がぼくはするんだな。日本人がその終末に追い込むための主たる勢力でありはしないかとぼくは思っている。それだのに日本人がだれも気がつかなかったというんじゃ、全人類に対して申しわけが立たないということがあった。

羽仁
 さっきの話にもどるんだが、物理学上の自己運動というのは、振り子の場合にはそうなんだが、しかし……。

三石
 周期的運動のほかの物理的な現象についてはほとんど自己運動とはいわない。

羽仁
 たとえば……。

三石
 たとえば素粒子の運動にせよ、放射能の現象にせよ、野球のボールの運動にせよ、そういうものについてひとつもそういうことをいわない、いってみてもメリットがないからな。

羽仁
 メリットがないなんていわないで、どういう点が違うんだ。

三石
 例のガリレオが発見した振り子の周期というものが糸の長さだけからきまるだろう。いかにもこれが自律的にきまってくるように見えるある法則を具体的にまのあたりに見せているということから、アイゲンベウェーグンクという言葉が出てきているんじゃないかな。

羽仁
 落体の場合でも電流の場合でもちゃんとした法則はあるだろう。そっちには使わない……。

三石
 あるけれども使わない。

羽仁
 つまり本質的には同じだけれども、使わないのか。

三石
 そういうことだ。それをぼくが、本質的におんなじなんだから全部に使おうと、こう思ったわけだ。ぼくに独特な自然観というほどじゃない。大局的に自然を見れば、そういう自然観は当然でてくるという前提でぼくはものをいっている。『文明の解体』を見たある大学教授がぼくを現代のアリストテレスだといった。自然観の性格ということになれば、全くちがうと思うんだが、すべての物の見方の出発点という意味ではそういってもらいたいところなんだ。

羽仁
 そこから四つの自己運動というふうに考えているのはどういうわけかな。

三石
 ぼくの見方でいけば自己運動はあっちにもこっちにも転がっている。何も四つに限定する必然性はないともいえるだろう。しかし現実には四つに限定したわけだ。構想を練っている最中に、権力の自己運動もあるじゃないかというような助言をしてくれた人もいる。官僚の自己運動をいった人もいる。ぼく自身のなかにもいくつかの自己運動が頭をもたげた。結局はそれを洗いに洗ったわけだ。複合的なものを捨てて純粋なものに絞ったつもりでいるんだが、はたしてこの四つが必要にして十分な自己運動だという保障があるわけじゃない。しかしこの四つがあれば、歴史の原動力は揃ったという実感はぼくにはあるんだな。
 ぼくは四つの自己運動を一応等価においている。等価ということは恒常的な等価ということじゃない。場合によってどれが優位になるかわからないという意味で一応等価という表現になってくる。企業が公害問題をおこしたとき、企業側からすれば資本が優位にたち、被害者からすれば人間が優位にたつだろう。こんなぐあいに自己運動の価値は時と場合で変動せざるをえないんだな。それを考慮のうえで一応等価とする。
 しかし、四つの自己運動を構造的に捉えて、上部構造、下部構造という見方ができるんじゃないかと思うこともある。例のマルクス流にいけば、下部構造と上部構造というのがあるが、ぼくの場合には自然の自己運動と人間の自己運動を下部構造にして、その上に科学技術の自己運動と資本の自己運動を上部構造として乗せようとした。という見方もできるかもしれない。
 ちょっと余談になるんだが、ぼくのところに『文明の解体』を読んだといって、一三年間、マルクス・レーニン主義を中国でたたき込まれたという人物が来たんだ。この本を見て彼はこんなになつかしい本はないというんだな。つまりこの本の内容が自分がロシア人から中国で学んだマルクス・レーニン主義と非常によく似ているというんだ。要するにぼくのいう自然の運動というものを非常にたくさん資料として使って論じたらしいんだな。そしてスターリンに『土台と上層』という本があって、そのなかには独自の運動という言葉があるというんだな。その独自の運動といっているものはこの自己運動だろうと彼は見ている。スターリンの場合にはその上部構造に独自の運動があるということなんだ。上部構造は下部構造からきているに違いないんだけれども、それでもそれ自体独自の運動をしているというんだな。たとえば音楽は下部構造とかかわりはあるとはいえ、独自の歴史を持って上部構造として、独自の運動をしているというわけだ。そうするとぼくの科学技術の自己運動というのは、スターリンのいう独自の運動になるだろうと、彼はいうわけだ。しかし資本の自己運動のほうは、マルクス・レーニン主義からいったら、上部構造の自己運動としてみるにはちょっとぐあい悪いんじゃないか。

羽仁
 いや、そういうこともない。

三石
 そうすると自然の自己運動と人間の自己運動とが土台にある、下部構造としてあるというふうにみたらどうかなと、ぼくは考えるんだ。

羽仁
 マルクス主義でいう下部構造と上部構造というのは、いま考えてみれば、マルクスなりレーニンなり、あるいはスターリンなりの理論のなかのとくに強調された点だけが考えられていたところがあるんだ。それは一言でいうと、つまり生産関係というものが下部構造だ、それで文化的なものは上部構造だということだ。生産関係は時代時代によって変わってくる。だから古代だったらその奴隷生産というのが下部構造で、その上にギリシア文明というものが乗っかっていた。それから中世だったら農奴生産というのが下部構造で、その上に中世のカトリック文明というものが乗かっていた。近代は資本対労働、つまり賃労働というものが下部構造で、その上に現代のルネッサンス以来の近代文明というものが乗っかっていた。それから現代だったら独占資本によって支配される労働が下部構造で、その上に現代の文明が乗っかっている。こういう意味の下部構造と上部構造、それからいまのスターリンがいっていた場合なんかは、言語というものは上部構造だと、そして上部構造としての独自の運動というものを持っているというふうにいわれていたんだ。
 だけれど、この君の『文明の解体』という本を中国で勉強した人が非常になつかしいといったというのは、いま中国でソヴィエトの人が教えているというのか。そうするとそれは、早くいえば経済学的な部面だけを強調しているものに対して、最近は唯物弁証法を本来の元の形、自然弁証法から統一的に研究しようという動きがだんだん強くなっていると思うんだ。だから日本では、たとえば宇野弘蔵君なんかの経済学、あれはマルクス主義のいまの下部構造と上部構造のなかの経済的な生産関係の上に学問というものが乗っかってくるという点だけをいっているので、もっとさかのぼっていえばそういういまの下部構造、つまり生産関係にあらわれてくる自己運動というのかな――君の言葉でいえば――自己運動よりもっと先に自然の自己運動というものがあるわけだ。その意味では自然弁証法なんかで研究されていたわけなんだ。それの一番究極的なものは最近の原子核物理学なんかでだんだん実証されているような物質の運動、つまり物質というものはニュートン物理学でいわれたような神の意思によって運動が与えられたんではなくて、物質自体が世界のあらゆる運動、したがってわれわれの文化の運動、思想の運動というものの根元をなすのが物質の運動であると。それじゃどうしてその物質のそういう運動が起こるかといえば、原子核分裂あるいは中性子とか中間子とかのそういう運動、つまり物質というのは古い考えだと、物質というものがあってそれが運動すると、たとえばニュートン物理学なんかの場合には落体の法則なんかがそうで、一定の重量を持ったものが落ちて運動をするというんだけど、アインシュタインの場合にはそうではなくて、相対性理論ではいわゆるE=mc²というそれが運動であるということ。だから逆にいえば、運動がすなわち物質であるという考え方、そういう意味で唯物弁証法というものは、相対性理論なりその後の原子核物理学なんかの発見によって、経済学的な方面に偏よっていた唯物弁証法というものが、統一的な世界観として研究されてきたということがいえると思うんだ。その立場からいえば君がいっている『文明の解体』の理論というのは非常におもしろいんだ。だから中国で勉強した人はなつかしいというだろうし、ぼくはさっきいったように『資本論』なり、『帝国主義論』なりが現代においてこういう君の論文のような形をとることがありうるんだなという点で非常に興味があるんだ。
 しかも君は必ずしも『資本論』だの『帝国主義論』だのをくり返し読んでそういうものに達したんじゃなくて、君自身の独創的な思索によってこういうものに到達した。だから君のいっている自己運動というのはいろんな意味が含まれていると思う。いまの物質の自己運動と、それから下部構造の自己運動と、上部構造の自己運動――上部構造の自己運動なんという場合には、普通はたとえば文学としての構造を持っているという意味のいわゆる構造主義の理論なんかで、また当然横道へそれていってしまったようなそういう構造というふうな考え方にもつらなっているだろうし、それからそれはフッサールの現象学なんかの場合には、現象学的還元というふうな思想のなかにもそういう問題が含まれていると思うんだが、君がいっているその四つの自己運動、これは非常におもしろいと思う。で、これでみな考えてみるということで、現代の問題をみんなが自分で考えていく。そういう意味で非常に有益なんじゃないか。

三石
 その男いわく、その自己運動というものこそが弁証法的なものである。弁証法そのものであるといった。発展の論理として。

チェック・コントロールシステムの必要性

羽仁
 それで、この第一段階ではこの四つの自己運動があるということを明らかにして、第二の段階で君はどういうことをいおうとしているんだ。

三石
 それが一応、つっぱなしてあるということになっちゃった。つまりチェック・システムとかコントロール・システムとかをあげてはあるものの、詳細に論ずることをやめたわけだ。なぜやめたかというと、それこそが各自が考えるべき問題だと思ったわけなんだ。いかにしてチェックするか、いかにしてコントロールするかということをぼくが……。

羽仁
 ちょっと待てよ、その自己運動というものはチェック・コントロールしなければならないものなのか。

三石
 ならないものであるとするんだ。チェック・コントロールを前提とする自己運動なんだな。

羽仁
 それをもしチェックしたりコントロールしないとどうなる。

三石
 しなければ、クロォチェのいわゆる気象的学な予報が当たる。つまり人類は一目散に一直線に破滅にいくだろうということだ。

羽仁
 それで第二の問題は、人類が破滅に向かって自己運動を全体としてやっている。それをどうコントロールするか、どうチェックするかという問題なんだな。

三石
 そういうことはみんなで考えようじゃないか、という問題提起、それで終わっている、ということだ。むろん、一方において解答に必要な情報を提供しているつもりだが。

羽仁
 そこで終わっているところがなかなかおもしろいと思うんだ。つまりそこで終わっているということは、君がいま考えられている公害についてのいろいろな考え方というものは四つの自己運動を考えていないということだろう。

三石
 そんなことはない。

羽仁
 たとえば大石前環境庁長官なんかの場合には、四つの自己運動として考えていないだろう。

三石
 現実には考えていない。つまり世間が、という意味で。実際には自己運動の結果以外の何物でもないということをいいたかったんだが。

羽仁
 大石前環境庁長官なんかは、この四つの自己運動のうちのどれを考えているんだろう。

三石
 何にも考えていないと思う。

羽仁 つまり現象としてしか考えていないというのは、現在の公害論に共通する問題じゃないか。だから武谷君の理論に従えば、現在ある公害論あるいは現在ある世界の終末論というのは現象論だということだ。だから君は、武谷君の三段階論の実体論をこれに展開しようとしているんだな、そして本質論を展開するといってそれを中途でやめている。

三石
 それはぼくがさぼったというよりも、それこそがみんなで考えるべき問題じゃないかと、その問題提起で終わったということなんだ。実践に待つということなんだ。

羽仁
 問題提起というよりも、この『文明の解体』で君が明らかにした四つの自己運動の理論を実践のなかでどう発展させていくかということだよ。だからいままでのような公害に関する、あるいは人類の滅亡に関する現象論では、それを実践のなかで展開するということはできないんだ。

三石
 そうだと思う。つまりそこで意識の問題だということをしきりに強調しているわけだ。

羽仁
 逆のほうからいうと、現在、公害あるいは人類の終末というのをチェックする、あるいはコントロールする作用をなすものとしていままで考えられていたものは、共産主義あるいは共産党あるいは労働運動あるいは労働組合あたりだろう。だからその四番目の自己運動であり、かつ四つの総合的な最後のものである資本の自己運動というものをチェックするのは労働者だと、それから労働組合だと、あるいは労働運動だと、あるいはそれを基礎にした共産主義運動あるいは共産党だというのがいままでの理論なんだ。ところが、これが存外、チェックしないんだな、現実において。このチェックしないという事実、これは君はこの本であんまり書いていないね。

三石
 『抵抗の哲学』にはずいぶん書いているけどね。

羽仁
 ぼくはおもにそこを書いたんだ。
 七月三日の『京都大学新聞』で公害企業と労働組合の問題を扱っている。ここで昭和電工の労働組合がいかに公害闘争ができないかという事実を述べているんだ。これは昭和電工の労働組合がとくに腐敗していて、メチル水銀による公害と闘うことができないのか、それとも労働組合の本質にそれと闘うことができないものがあるのか、これはまだわからないんだ。それで昭和電工の場合には、最近、全昭電青労共闘会議というのができたんだが、この組合が公害闘争をやらないのみならず、むしろ会社側のご用組合のようになっている。早い話が組合の役員になると会社の役職がつくという状態に現在あるんだ。そのうえ会社がユニオンショップなんだ。だから会社が首にする必要はないんだ。組合が除名すれば自動的に会社では首にするという形でやっているんだ。だから公害闘争ができない。それに対していまその青年労働者が、まだ二〇人か三〇人のグループなんだが、そういう組合のなかで公害闘争をやろうとしている。この問題について君はさっきの四つの自己運動の理論からどう思う。労働組合というものが公害闘争は本質的にできないのか、それとも腐敗している労働組合はできないが、腐敗していない労働組合ならできると思うか、どっちだ。

三石
 そこは非常にぼくにとっては難問だけれども、要するに『文明の解体』の最初の部分で視点の問題というのを扱っているんだ。ぼくのこの視点という言葉は、その中国で勉強してきた人にいわせればマルクス・レーニン主義では立場と観点という言葉をよく使うが、立場と観点を総合したもんだろうといったんだ。英語でいうポイント・オブ・ビューだな。この言葉をちゃんと使うとものごとがはっきりするというのがぼくの持論なんだ。結局、ぼくがここでどこから見るかという視点を確立しろということなんだ。そして視点の原点を基本的人権のみによって生きる人間の視点におく。それも生きるための最低の線だな。そこでクロォチェがいっているところの美しい生活とは何ぞやということになる。ぼくは基本的人権のみによって生きる人間の視点を各人が原点に持つことだとそれに答える。そうすると自分自身が基本的人権のみによって生きているかどうかということを常にチェックすることが必要になる。たとえば昭和電工の場合に、その企業に従属した視点をとっているかぎりそれは正しくない。足が地についていないと考える。保身のために視点を企業に従属させるところに追いこまれても、原点が基本的人権にあることを忘れなければ、公害闘争は組合にとっても不可能ではないといいたい。その意味では労働運動は本質的に市民運動と別物ではないはずともいいたい。だから基本的人権の視点を忘れたものは、運動でも、政党でも正しくないんだな。君のいうアウシュヴィッツ以後はとくにこれを強くいいたい。だから労働組合とは何ぞやといったら、その組合がいったい基本的人権によって生きるものの視点に立っているかどうか、企業に視点が従属していても一時的にでもそこから離脱することができるかどうかを常にチェックしろということをいいたいわけなんだ。その基本的人権の上に立っていない労働運動はちょっと困るとぼくは思っているわけだ。公害を受けるとは基本的人権が公害によって侵されることをいっているわけであって、常に基本的人権まで立ち還らなければだめだということになる。
 要するに、ここでの鍵は労働者であることの意識、国家から疎外されているという意識、基本的人権を抑圧されているという意識なんだ。それがなかったらチェックもコントロールもありえないだろう。形だけじゃ実践のエネルギーはでてこないよ。
 ある共産党の国会議員の話だが、彼はしきりに階層分析をいま一生懸命やっているんだといっていた。階層分析というようなことで労働者というものを何がなんでも労働者だとする考えはぼくにいわせれば間違っているんだ。その労働者が基本的人権の視点に立っているかどうかが問われなくちゃならない。意識を重視するとぼくがいうのは、そういう意味なんだ。実践論でいけば階級の認識よりも視点の分極のほうが重い。これが選挙のような場面で実証される。視点の明確でない政党にあるいは自分と対立する視点の政党に労働者が投票するということだな。階級は意識を受け付けないが視点は意識次第でどうにでもなる。

羽仁
 さっきの唯物弁証法というものが経済学的な面でだけとらえられているということと並行して、労働組合運動というものは主として経済闘争としてだけとらえられていたというか、むしろ資本の側からそういうところへおい込まれていたわけだ。つまり経済闘争なら認めるが、政治闘争なら認めないというやり方からきているんだな。最近は日本の良心的な若い裁判官なんかは、必ずしもいわゆる政治闘争というふうなものが非合法だという立場をとらない。その点でいま日本の現状では、労働組合運動というのが経済的な要求に限るべきか、それとも政治的な要求も正当な要求であるということを認めるかというところが争われていることが資本と労働との自己運動の関係では、なかなか解決しないんだ。解決しない間に公害がどんどんひどくなっていくことによって、客観的に労働組合が経済的な闘争だけしか認められないところにおいこまれ、公害はいよいよひどくなってくるんだ。そのことから裁判でも良心的な裁判官が、政治闘争というようなものを認める傾向にある。
 ごく最近の判決では、芝浦工業大学が昨年、学生大会をやっていたら、大学当局が警備――機動隊、警察官、ガードマン――などを学生大会の中に入れたんだ。学生がそれを問題にして大学当局と交渉をやったが、誠意のある答えをしないので三時間ぐらい学長を監禁したというんだ。それで、不法監禁で告訴されたわけだ。それに対する判決が、大学の自治というのは学生の自治を無視することはできない。その学生の自治に対してそれに干渉するような行動をとろうとしたことは、明らかに学生の自治に対する干渉だ。したがって学生が抗議することは当然であり、その抗議に対して大学側が誠意のある回答態度をとらないということから三時間にわたる不法監禁というふうな事実があらわれた。それは確かに不法監禁という罪にあたるようにみえるけれども、しかし何のためにそういうことが起こったのかといえば、学生の自治を侵してきたということからきている。それに対する抗議としてはそれは正当なものであり、したがってその不法監禁の罪はなり立たないという無罪の判決をしているんだ。
 ところが、石田最高裁長官なんかは、そういう学生の政治的な運動を無視しようとしている。ごく最近の全国の裁判所長の裁判官会議なんかで石田最高裁長官が、最近法を破ろうとする動きがますます強くなってきた、それに法廷の秩序を乱そうというような動きが非常に強い、これに対して厳格な態度をもって臨まなきゃならんというような訓示をやっている。この訓示は最高裁判所長官の訓示とは思えない。あまりレヴェルの高い訓示じゃないんだ。法を破ろうとする者を許すなとか、あるいは法廷の秩序を破る者を許すなとかいうのは、交番のおまわりさんでもいえることだし、あるいは一般の裁判官でもいえることだし、とくに最高裁判所長官がいうことではない。
 現にイギリスなんかの格言では、最大の正義――ハイエスト・ジャスティス――はマーシー――慈悲だというふうにいっている。そういう意味でも最高裁判所の長官というのは、多少そういう意味の人間的な、あるいは憲法的な、少なくとも憲法の立場に立って、それで法を破ろうとするというそういう低いレヴェルの判断よりも、その法が合憲であるか違憲であるかということも含めて、したがって憲法に違反するような法律というものに対しては破るのが当然であって、破らないほうが悪法に対しては罪を犯すということになるんだから、あらゆる法律とか条例とか政府の一切の行為がこの憲法にもし違反する場合にはそれは無効だという立場のほうが、ただ法を破るなという立場よりも高い立場なんだ。
 ところが、最高裁長官がそういう高い立場に立たないで低い立場に立っている。そしてむしろ第一線の若い裁判官のほうが高い立場に立って、さっきのように不法監禁の事実が確かにあるけれども、学生の自治に対する不当な侵害に対する抗議は正当なものだ、したがって無罪だという判決が出てくる。こういうのが出てくるのは、君のいうその四つの自己運動、それに対するチェックとかコントロールとかいうものが働いている事実が現にあるんだ。

三石
 良心的裁判官という言葉があったが、良心的とはぼくにいわせれば不正に対して、つまりこの場合ならば違憲に対してフィードバックしてチェックするという態度になる、ということは良心的裁判官なるものは、ぼくのいうチェック・システムだということになる。良心的でない裁判官は自己運動を許すわけだから、ぼくの論理からいえば歓迎すべき存在とはいえないわけだ。最高裁なんていえば、本来ならば最高のチェック・システムでなけりゃならないだろう。
 学生の自治ということだが、ぼくにいわせれば学生が基本的人権の視点に立っているということがあるがゆえに自治が尊重されるということになる。自然科学の法則、つまり自然の自己運動の法則は一〇〇年たっても不動だが、ぼくは基本的人権をこれと並べたいと思っている。これは真理の一つなんだな。

羽仁
 比較的レヴェルの高いと考えられているマルクス経済学を大学で教えている教授たちもいるわけなんだが、そういう人たちの場合にもそれが資本の自己運動というものをチェックするもの、あるいはコントロールするものを学問的に必ずしも取り上げていないんだ。つまり独占資本の自己運動をぼくの『抵抗の哲学』のなかの定義に従えば気象学的に述べているにとどまっている、それの実践的な論理を明らかにしていないという点にあるかな。

三石
 逃げているんではないか。

羽仁
 逃げているのか、学問のつまり論理の問題じゃないか。実践とはなれた理論というものはそういうふうになっちゃうんじゃないか。

三石
 つまり現代性がないということを意味するだろう。クロォチェにいわせれば、学問の本質は現代性だ。ということは現代性を欠く学問は有効性を欠くということだろう。君の「アウシュヴィッツ以後」ぼくの「文明後社会」では自己運動は困る点が多いんだ。その認識がたりなければ現代性を欠くことになっちゃう。そこでぼくの論理だと、チェック・コントロールがどうしても強調されてくるんだな。独占資本の自己運動の気象学的観測だけじゃどうもね。

総公害に対する統一戦線を

羽仁
 いまアメリカでマクガバンがついに民主党の大統領候補に指名されたというような、ありえないことがアメリカでは現実になっている。日本ではあんなことはありえないと思っているんだ。第一、アメリカの民主党というのはこのごろ、いまの日本の社会党より共産党と同じような、当然政権に近よることができないような状態にあるというふうに一般にみられていたろう。しかもそのなかで出てきたマクガバンという人は、現実に政権を取る見込みのまったくない民主党の、しかもまた泡沫候補だというふうに考えていた。そのマクガバンがニクソンに肉迫している。ニクソンがキッシンジャーの活躍で訪中、訪ソに成功したといってもヴェトナム戦争を終わるという見通しを持たない以上は、今度の大統領選挙で優勢確実だとはいえないというところまで、マクガバンがおい上げてきたような現実が、アメリカでは現在あるんだ。これは確かにチェックあるいはコントロールの作用を果たしているんだな。

三石
 認識の実践面として現われたとみてよいのではないか。

羽仁
 現在、君の『文明の解体』なり、あるいはぼくの『抵抗の哲学』なりがアピールしようとしているのは、いままでの考え方ではそこから実践的なエネルギーが生まれてこない。そういう考え方を打破して、それでそこから実践的なエネルギーが生まれてくるような理論をつくっていくというその手がかりを与えようとしていると思うんだ。
 それで、現在そういう客観的な状態にあるんじゃないかということが、今度のマクガバンの場合にいえるんじゃないか。日本ではいま、まだ学生が選挙というものをまったくあきらめていると思うんだ。で、選挙に対する実践的なエネルギーというものは全然生まれてこないんだ。ところがアメリカの場合には、いわゆる相当前衛的な闘争をやった学生たちが、現在その選挙に向かって実践的なエネルギーを高めているということがあるんだ。

三石
 それがマクガバンによって証明されたといっていいだろう。選挙というものは、公然と与えられたチェック・システム、コントロール・システムとして絶対に尊重されるべきものだと思う。これを軽視するのは敗北主義じゃないかな。われわれはどんなにささやかなものでもチェック・コントロールの機会を逃しちゃいけないんだ。そのことをマクガバンが証明したということだろう。

羽仁
 マクガバンの動きを過大に評価するということもナンセンスだけれども、しかしこれを過小に評価するということも同じようにナンセンスだと思う。

三石
 とにかくここまでの歴史的事実というのは、かなり重味があるだろう。

羽仁
 ああいうマクガバンがニクソンに肉迫してきているというのは、アメリカの学生なり青年労働者なり、あるいは女性なり、あるいは黒人なり、いままで政治の舞台というものに何の希望も持たなかった、つまり政治不信のどん底にあったような人たちのところからそういう新しい政治的な動きが起こってきた、というふうにみることができるんじゃないか。それがどこまでいくかということは過大に評価することはできないが、しかしそれが少なくとも現実のエネルギーになりつつあるということはいえるんじゃないか。

三石
 そしてマクガバンの指名というものは、大統領選挙を待たずして北爆なんかに関して何らかの影響を与えるとすれば、これをチェック・アンド・コントロールの効果として評価できるわけだ。

羽仁
 ニクソンが勝つためには、いまのヴェトナム闘争の見通しというものをはっきり出すことよりほかに方法はないだろうね。

三石
 そこにますますおい込まれたということは、資本の自己運動に対するチェック・アンド・コントロールの効果として評価できるんじゃないかな。

羽仁
 だから君のいう自己運動のおそるべき破局、そういうものに対してそれをどうチェックし、どうコントロールするかという実践のエネルギーというものが、現在われわれのなかに、すべての人たちのなかに高まってこなきゃならんということを君は証明しているわけだ。

三石
 『抵抗の哲学』のなかにクロオチェは感情を重く取り上げることを否定している、それは非常にいいと思う。

羽仁
 現在、感情を取り上げる動きもかなり強いわけだ。怨念主義だな。つまりその科学的な分析なんかをやっていても運動は弱い。それよりも怨念運動のほうが強いという考え方もある。

三石
 そういうことも大いにある。その怨念運動というのは、結局その怨念のゼッケンをつけた人の痛々しい姿を見ればわかるというようなことになる。つまりわれわれの視覚に訴えるわけだ。

羽仁
 あるいはその公害でもって現在、悲惨な生活をしているその本人の場合には、科学的分析もくそもない。その公害の本質を自分で体験しているというこの体験主義、これもぼくはいままでのいわゆる教科書的な、あるいは概論的なあるいは講壇的な学問に対して、そういう怨念あるいはそういう体験、それが決定的なもんだという主張は非常に大きな意味があると思うんだが、しかしその怨念の運動なり、あるいは体験の運動なり、そういう闘争が決定的になっていくには科学的なものが……。

三石
 決定的なことは、結局いま現代の最大の特徴というのは怨念的なもの、あるいは経験的なものがすでに限界にきているということなんだ。限界にきているとは何かというと、つまりわれわれがあしたイタイイタイ病なりカミネ油症なりにならないという保証はない。つまり今日、われわれが受けている汚染物質、公害の原因物質というものがいったいどこまでわれわれを侵しているんだかわからない点が重要だ。肌ではひとつもわからないものが潜在的問題になっている。不気味なことをいえば、東京都民あるいは工業都市の住民のなかに公害でガン細胞を持っている人間が相当いるんじゃないか。しかしそれは当人がガンになってみなければわからないわけだ。そのときまでは反公害闘争に手を出さないというようなそういう意識のもとにおいては、公害はいくらでもエスカレートするだろう。つまり公害に対しても資源の枯渇に対しても常に先取りが必要なんであって、その先取りに対して気象学的な観測ではなくて、実践的な活動を展開しなくちゃいけないというのがぼくの考え方なんだ。そうかといって怨念運動を評価することにおいて人後におちるつもりはないんだが、これに先取りの機能のないことに注意する必要があるだろう。そうかといって先取りのための情報の収集、整理を普遍化するのには非常に困難があるだろう。

羽仁
 それについて君が書いているなかで典型的なのは、いわゆる自動車で無公害車なるものをつくっていくと自動車の数がますます激増していくことによってナンセンスだということだね。

三石
 そんなことは簡単な論理なんだが回りくどく見せかけて、錯覚をおこさせたり逃げ道を用意したりが実情だろう。
情報の収集、整理が困難とはそのことをさしたつもりなんだ。

羽仁
 そうすると無公害車をつくるということはもちろん必要だが同時にそれは自動車の数を制限するということと並行していかなければ無公害車だって――これは武谷君の安全性の理論なんだが――完全に安全なんじゃないんだからね。いわゆる許容量というものは、武谷君の理論からいえば成り立たない。どんなに微量なものでもそれが蓄積することによって危険なものになっていく。したがって完全な無公害車というものは不可能なんだから、きわめてかすかな公害であってもそれが量的に増大することによってやはり破滅的なものになっていく。おそらくまだ一〇年たたない間にアラビアの油田から日本まで二〇万トンの原油運搬船が三キロの間隔で並んでくるだろうと。そういう状態にいけばそういう石油公害をゼロにすることができない以上、どんな微量なところでそれを押えたにしても、それを量が増大することによって破滅的なものになっていくというこの認識が、現在東京都なんかで問題になっている自動車の数を制限することができるかできないかということに対する実践のエネルギーになってくる。

三石
 無公害車というのは資本の視点からの発想であって基本的人権の視点からの発想じゃないということをぼくはいいたいわけだ。で、結局、公害に関する科学的知識というものの普遍化というか、普及というか、それも非常にむずかしいことじゃないか。その壁を押し破ろうとするより、まず基本的人権の視点の固守の線でいわば統一戦線を組むという考えはどうだろう。
 終末論をブツと人間なんてそんなバカなものじゃないと反撃されるケースが多い。しかしバカじゃないとは状況に敏感にフィードバックしてチェック・コントロールすること以外のものじゃないんだ。そのフィードバックの回路に公害の知識を入れるのは一般には困難だし怪しいことになっては困るから基本的人権の視点を入れたらどうかというのが、ぼくの現実的な実践論なんだ。美濃部都知事とマイカー族との対話集会でぼくから見て不満足な傾向があらわれたが、人間はバカじゃないという話が幻想に近いことは、この種の機会にいくらでも証明されるんだ。このとき基本的人権、それも最低の人権の視点を原点とすればもっと実りはあったんじゃないか。何といっても目標はチェック・コントロールだ。
 ある大学教授は公害に関して流されている情報というのは信用できないというんだ。だから無視することになる。また別の大学教授の述懐なんだが、教授なかまで公害を論じると俗物だといって軽蔑する空気があるんだそうだ。学問の本質は超時代性だといいたいような話になった。そういうなかで公害がエスカレートしていくんであって、ニューヨークのリンゼー市長が公害講座をじゃんじゃんやれといっているのは傾聴すべきだろう。良質の情報は少しでも多い方がいいにきまっているんだ。しかし、そこにも問題はないじゃない。たとえば宇井純氏の自主講座にしても、ある特定の公害についての闘争の話であって、視野は非常に狭いところに絞られるんだな。ぼくは総公害というものを提唱しているんだ。トータルな公害がわれわれをむしばんでいるんだが、そのうちの一つでさえ全く肌に感じられないところの死角から忍び込んでくるのが普通なんだな。とてもこれはいわゆる公害知識の普及ということでおいつかないんじゃないか、という心配が非常に大きいんだな。

羽仁
 『朝日新聞』の六月の二日の「天声人語」のなかで、イギリスの経済学者E・J・ミシャンが自動車公害を論じて、都市の交通問題は社会福祉問題であると、この問題の相談相手に交通専門家を選ぶのは実は適当でないのだと、これは岩波から出ている、『経済成長の対価』という本のなかでいっている。現在、この自動車公害、現に東京都の自動車公害というか、光化学スモッグなんかの問題に対して警視総監は、必ずしも光化学スモッグの原因が自動車の排気ガスであるかどうかがはっきりしないし、かつまた東京都内の自動車の制限というものがはたしてどういうふうに実行できるかと、あるいはうっかりそれに手をつけるととんでもない混乱が起こるかもしれないということで、要するに警視庁は東京都内の交通の面で自動車制限ということに反対しているんだ。美濃部君はその反対を押しきって、その自動車制限ということを実行しようとしている。現在ハワイなりアメリカなりで、あるいはヨーロッパでもそうだが、自動車制限ということが現実に実行されているんだ。
 ぼくはここにも実はぼくが内心おそるべき、マクガバンと匹敵するようなちょっと予想もできなかったような現象があらわれていると思うんだが、それは自動車産業というのは、とくに独占資本の自己運動だ。この独占資本の自己運動をチェックしコントロールするということは、共産党なり労働組合がやらなきゃならないことなんだが、それに対して有効なチェックもコントロールもやっていない以上、この独占資本の自己運動としての自動車生産の無間地獄的な増大、これは日本では現実に自動車を制限するということはほとんど不可能だろう。この自動車企業によってまた自民党政権というものが成り立っているんだから、だからこれは道路をみたって道路公団にしたって、住宅公団にしたって自動車企業とタイアップしてああいうことをやっているとしか考えられない。あるいはインフレ政策だってそうだという。それは君のいう総公害になっている。
 これをチェックするということは、ぼくはほとんど絶望じゃないかというぐらいに考えていたんだが、四、五年前にヨーロッパを旅行したとき(ぎ)にそれが絶望じゃないと思えた。現に西ドイツなんかでは自動車制限がかなりいろんな方法で実行されてきてたんだ。その一つにはバス・レーンの確保、それから一般の人がいわゆるマイ・カーを利用しないでバスを利用する。ぼくはハイデルベルクにかなり長くいたんだが、数年前ハイデルベルクにいたときと比べてタクシー代が全然要らなくなっちゃったんだ。バスが整備されてきたんで、タクシーに乗るのは非常に大きな荷物を持って、つまりハイデルベルクに到着したときとそこを立ち去るときと二度使っただけで、あとは毎日バスで十分だということになったんだ。
 バスの活用によってマイ・カーがいらなくなってくるというふうな方法、もっと積極的自動車制限ということが今度はハワイなりアメリカなりで実行されて、日本でもおそらく……現にこのあいだ、警視総監が自動車制限に反対していたその翌日、光化学スモッグが爆発的に出てくると、警視総監も沈黙せざるをえないという、そういう光化学スモッグの自己運動が、逆にチェックなりコントロールなりの作用を持ってくる。

三石
 自然の自己運動が一番強いというのが、ぼくのここにあげた主要なポイントなんだ。自然がチェック・システムとなって人間の自己運動をしめつけるということだ。

羽仁
 だから結論的には、君の『文明の解体』というのは、自然の自己運動と、それから人間の自己運動によって地球はみずからを救うだろうというような考え方も成り立つんじゃないか。

三石
 それはぼくの本のなかには全然ない。なかったんだ。

羽仁
 それがもし実現するとすれば、人類は半分絶滅状態に等しくなってこそ自然の状態が回復されるんだな。

三石
 そうすると終末論にかなり近い形になる。キリスト教のだがね。

羽仁
 だから自然の自己運動によって救われるという考えは、人類はほとんど滅亡状態になって地球が救われるということしかない。

三石
 半絶滅状態を経過しての救いを避けたいとするさっきの重大な問題点、いわゆる科学知識をテコにしてチェック・コントロールすることができるかどうかだけれど、それは非常に無理なんだから、いまの自動車を政治的に制限するのが賢明ということかもしれない。それによってチェック・アンド・コントロールができるんだから、むしろそういう措置のほうが現実的になってくるんであって……。

羽仁
 つまり科学知識の普及はなかなかむずかしいということじゃなくて、いま現象的に起こってくる問題を大衆が理解するには科学的な知識が必要だということなんだ。大衆が科学的知識を持っている場合には、君があげているかなりいい例は、新潟のイタイイタイ病の場合だ。昭電の会社のほうでは模型をこしらえて、それで農薬説を基礎づけたわけだ。ところが君は、それに対して反証として模型を利用する場合に模型が意味をなすための条件をあげている。模型の場合には現実の動きとはまったく違う動きをするんだ、というあの君の証明によって一般の大衆も農薬説というのは間違っているということの確信をもつわけだ。
 だから、科学知識を普及して、大衆が科学的な常識を高めるなどということは学問的に成り立たないんだ。そうじゃなくて、大衆が体験のほうから、あるいは闘争から必要とする理論を学者が絶えず提供できているかどうかということが問題になってくる。

三石
 そう。それはつまりフィードバック・システムはその形でいいという意味になる。

羽仁
 そうなんだ。だから大衆が先験的にある理論を出して、それを大衆が学んで間に合うかどうかというふうな問題じゃなくて、現実のほうから理論が必要とされているんだ。それに対してどういう科学的な確信に裏づけられるかどうかというとそれは必ずしもないんだ。

三石
 ぼくがぶちまけたい悩みはやはり残るんだな。そういうことだと大衆はいつになっても先取りができない。チェック・コントロールのなかみに先取りの要素がないと、公害問題も資源問題も抜本的には片づかないわけだろう。

羽仁
 体験からの大衆の要求を先取りした学問なり科学なりが、実践の場に下りてこない限り、黙示録の予見が、現実として現代を覆いつくしてしまうことは確実にいえるね。

現代の眼 一九七二年二月

13 科学の最前線のあり方

未来はバラ色か

 生き甲斐ということばがあります。生きている人間ならば、このことばの重みを知らないなどということはありますまい。その日その日を、生き甲斐を感じて送ることができたら、誰だって満足に思うことでしょう。

 野球のゲームで殊勲をたてた選手がテレビの画面にクローズアップされたとき、よく、「最高の気分です」といいます。最高の気分になる瞬間は、生き甲斐を感じる瞬間なのだろう、と私は思うのです。

 いっぽう、シラケということばがあります。「シラケている」瞬間は、生き甲斐を感じない瞬間なのではないでしょうか。シラケは、生き甲斐の消えたエアポケットのように、私にはみえます。好んでシラケを求めるなどという人は、いないのではないでしょうか。

 生き甲斐を感じる瞬間、最高の気分にひたる瞬間というものは、誰しもしばしば経験するにちがいありません。何かの試験の難関を突破したとき、事業に成功したとき、望みの相手と結婚したとき、マラソンで優勝したとき、ステージで万雷の拍手をあびたとき、新しい家に入居したとき、料理の腕前をほめられたとき、その当事者は、最高の気分を味わって生き甲斐をかみしめることでしょう。

 生き甲斐が貴重なものであるならば、私どもは、社会が生き甲斐を保障してくれることを願います。そこで、いまの社会、未来の社会が、生き甲斐をはたして保障してくれるものなのかどうかは、私どもの深い関心事となります。未来の社会が、もしシラケに明け暮れする社会だとわかってしまったら、味気ないことになってしまうでしょう。

 未来社会のイメージを描くことは、一九八〇年代に限定したところで、容易なことではありません。それにしても、エネルギー資源、とくに石油の枯渇が、だんだんに強く私どもの生活を圧迫することだけは、確かです。その結果、冷暖房の温度が制約され、夏を秋のすがすがしさで送ることも、冬を春の日のぬくもりで送ることも許されなくなります。

 遠洋漁業の漁船は思うように動けなくなって、マグロのすしなどは手がとどきにくいことになるでしょう。ビニールハウスはぜいたくなものになって、冬のイチゴなどは高級果物店でたまにお目にかかれるものになってしまうでしょう。

 夏の電車が冷房なしでは、以前のものを経験している乗客はぶつぶついうでしょう。マグロのトロに目のない人は、それがめったに口にはいらなくなれば、欲求不満におちいるかもしれません。そういう人たちも、まさか、生きている甲斐がない、などといいだすことはないでしょう。そうかといって、そういう状態が、生き甲斐のマイナス要因にならないとまでは、いいきれません。

 はっきりいえば、それをおもしろくないこと、きゅうくつなこと、と感じる人にとって、これは生き甲斐のマイナス要因になるということです。

 そこで問題は、われわれの未来はバラ色か、灰色か、どちらかということになってくるでしょう。むろん私どもは、未来をバラ色にしたいと願います。それをあきらめれば、シラケがやってくるでしょう。

 科学という学問にもしも大きな力があるのなら、科学によって、灰色と見えた未来をバラ色に変えることができてよい、と私は考えます。

 では、最近の科学の動きはどうなっているでしょうか。新聞で主なトピックを探してみると、DNAという名の二重らせんの遺伝子分子は、これまで右巻きとばかり思われていたのに、左巻きのものが発見された、というニュースが、朝日、読売の第一面トップ記事にあったことが、強く印象にのこっています。プラズマの高温の持続時間を一〇〇倍までのばすことに成功した、という記事もありました。科学というよりは技術の領域にはいるものですが、国鉄のリニアモーターカーが時速五〇〇キロという世界記録をたてた、という記事も記憶に新しいことです。

 科学技術の最前線の情報として新聞紙上に報道されたものをつぶさにひろっていったら、それは大変な数になります。私としても、それを覚えているわけではありません。しかし、素粒子の研究についてのもののあったこと、統一場理論の発展についてのもののあったことなどを、かすかに思いおこすことができます。

 そのような多彩なもろもろの科学の成果、ないしは科学技術の成果が、未来の灰色をバラ色に転化する作用をもっているかどうかに、私の目は鋭く光ります。私は、この選別は、いくら厳しくしても厳しすぎることはない、との主張をしたいのです。

歴史を動かすのは何か

 私は『文明の解体』という本を書いておりますが、そこでは、人類の歴史を動かすものは何か、という問題を提起しています。そして、その要因として、自然の自己運動、人間の自己運動、科学技術の自己運動、資本の自己運動の四つをあげました。

 ここでの当面の問題は、このなかの、科学技術の自己運動と資本の自己運動の二つにかかわってきます。科学技術の自己運動とは、科学技術が自分勝手にひとり歩きする、ということです。リニアモーターカーの開発は、その打ってつけの例になります。

 国鉄はさきに、世界に誇る高速電車として新幹線を開発しました。これの東京・大阪間を走る所要時間三時間を、三分の一に短縮したいという目的から出発したのがリニアモーターカーです。

 モーター(電動機)という装置は、もともと回転運動をたてまえとします。その回転運動を、直線運動(リニアモーション)に転換したモーターが、リニアモーターです。その転換のアイディアというものは、科学技術者の頭から自然発生的に生まれる性質のものです。これを自己運動と名づけると、ここに科学技術の自己運動とよぶものの性質がはっきりするかと思います。科学技術の自己運動は、科学技術者の頭から自然発生的に生まれる運動だといってよいのです。だからこれは、日の目をみることなく、線香花火のように消えることもあり、時流にのって花をさかせることもあり、という性質をもっています。

 時流に乗るとは、はっきりいえば、資本の自己運動と手を組むということです。資本の自己運動とは、資本の自己増殖性といってよいもので、要するに、資本はカネを吸収してふくれあがる、というほどの意味です。

 リニアモーターカーの例でいえば、これの開発でもうかるという見込みがつけば、そこにカネの紐がつく、ということです。それを私が、時流に乗るといったのは、資本が時流をみるのに敏感だというほどの意味からでした。
いずれにしても、リニアモーターカーは、時速五〇〇キロの壁を、みごとに突破しました。それが、世界の注目をあびたことにまちがいありません。

 荒っぽい計算で恐縮ですが、リニアモーターカーの速度が、予定どおり、現行の新幹線電車のそれの三倍になった、と仮定しましょう。車体の重さが等しいとすれば、このとき、運動エネルギーは、三の二乗の九倍になります。しかし、走行時間は三分の一ですから、エネルギー消費量は三倍ですむという計算になります。

 ここで、東京・大阪間を走る時間を三分の一に短縮するために、エネルギー消費が三倍になったという関係を問題にしないわけにゆかなくなりました。どういう問題かといえば、これで未来がバラ色になるかどうか、ということです。窓外の景色は弾丸のように流れて目にとまらず、旅行気分にひたるいとまもなく目的地に到着するというスピードに、生き甲斐を感じさせる何物かがあるというなら結構ですが、もしそれほどのメリットがないとするなら、これは、エネルギーの浪費あるのみ、というさんたんたる結果になってしまうでしょう。

 個人的な見解ですが、私は、新幹線電車についていえば、冷暖房の節約ばかりでなく、スピードダウンもありうると思っています。それがつまり、いわゆる省エネ時代の世相であって、リニアモーターカーの開発などとんでもない話なのです。

物質文明の終焉

 では、素粒子の発展のような科学の最前線のできごとはどうでしょうか。物質の窮極の構成因子として素粒子をみるとき、その種類は限られた少数のものだ、と最初は想像されていました。ところが、いざ素粒子の探究にかかってみると、その種類は、予想に反して、一〇〇、二〇〇とふくれあがってきました。そこで、その相互関係の追求ということになりましたが、それはクモの巣のようにこんがらかっています。素粒子論でノーベル賞をもらったファインマンが、「それがたまたま夜の街灯の光のなかにあったからみつけただけのことにすぎない」という意味の述懐をもらしたことが思いだされます。

 こんなわけで、素粒子の世界は藪の中にありますが、そこには多くの物理学者が集まっています。そして、その世界の研究はほとんど全く自己運動的に進行しているのです。

 素粒子論の研究が、驚異的に進歩したのは、原爆開発の時期においてでした。これは、戦争という異常事態のなかで、科学技術の自己運動が、資本の自己運動と手を組んだ結果でした。

 素粒子論が実質的にスタートしたのは原爆後といってよいでしょう。この本格的素粒子論が金儲けの種になるとは、誰しも思いません。したがってそれは、資本の自己運動と結託することなしに、科学技術の自己運動として孤立した形です。そうなるとこれの性格は、統一場理論の研究などと同じ枠にはいります。

 素粒子論や統一場理論などがどんな発展をみせても、一般市民の生き甲斐を高めるものではないとするのが無難でしょう。しかし、その発展の中に身をおく研究者にとって、それはすばらしい生き甲斐になります。冷暖房がなくても、マグロのすしがなくても、その生き甲斐はいささかもゆるぎません。しかもここには、格別なエネルギーの消費もないのですから、社会全般からみて、何のデメリットもないわけです。

 このような純粋な学術的研究などは、資本の目には魅力がなくても、個々人の生き甲斐に大きく貢献する点で、芸術やスポーツと同等の価値をもつことができます。未来がバラ色であるかどうかを問題にするとき、いちばん重要な要素として、私はこのようなものをあげたいと思います。

 科学技術の自己運動は、資本の自己運動と手を組んで物質文明の花を咲かせました。そこでは、あらゆる生活上の便宜さが提供されています。快適な衣食住が保障されています。ところがその反面、莫大なエネルギー消費が伴います。そしてまた、環境破壊がついてまわります。その結果、物質文明は下降を迫られています。『文明の解体』のなかで、私は現代を「文明後時代」と規定しました。それはつまり、物質文明の恩恵を忘れなければならない時代ということです。この時代をバラ色にするためには、寒くても、ひもじくても、額に汗して漁船をこいでも、生き甲斐が見い出せるような構えをとることができるようでなければダメ、ということです。

これからの科学の値打ち

 高温のプラズマをつくり、その時間をのばす、というような研究は、エネルギー問題の解決に関係しているので、個人の生き甲斐の問題にとどまるものではありません。未来のエネルギー源として、理想的なものは核融合だといわれますが、この反応を実現するためには、プラズマの温度を一億度とし、その持続時間を一秒以上としなければなりません。現在の研究は、これを達成する途上にあって、今回の筑波大の成果は、九、〇〇〇万度を一〇〇分の三秒持続した、というものです。これに対する資本の関心は次第に高まっていくはず、と私は思います。

 左巻きDNAの発見のようなものは、どう考えたらよいのでしょうか。

 正常の右巻きDNA分子では、炭素や窒素の活性原子が内側におさまっているのに反して、左巻きの場合、これらが外側に露出しています。発ガン物質や病原体の分子があると、それがこの炭素原子や窒素原子と結合して事故をおこすのではないか、と想像する人があらわれました。

 この想像も、それからまた、この想像があたっているかどうかの検証も、科学技術の自己運動として、当然おこってくるべきものといえます。そのことは、門外漢もちゃんと心得ていることでしょう。

 この研究は、いまの段階では資本の自己運動と無縁のものです。しかし、左巻きを右巻きになおす働きの化学物質がみつかる見込みがたった時点で、製薬資本が研究費のつぎこみを策すことでしょう。そして、その研究は、ガン対策として脚光をあび、加速されるはずです。

 この研究は、現段階では当事者やそれをめぐる人たちの、生き甲斐に値するものですが、もし、有力な抗ガン剤の実現というようなことになれば、生き甲斐の範囲は、個人レベルから社会レベルにまでひろがります。そこで、このような科学の前線は、未来をバラ色にする性質のものとして歓迎されることになるのです。

 未来を灰色にぬりつぶすことが保障されている最大のものは軍事科学です。このなかには宇宙科学をふくめてよいでしょう。高速戦闘機、ICBM、ABM、バッジ・システム、ロケットなどが、それの製造段階でも使用段階でも、物質やエネルギーの莫大な消費を伴うことは常識になっています。軍備を必要悪だなどといって正当化するのは、もう時代錯誤なのです。

 脱工業化社会ということがよくいわれるようになりました。工業が、物質やエネルギーの消費の上に成立するからこそ、こういうことばがあるわけでしょう。そうなれば、第一番にカットされるべきものは軍備ということになります。

 私どもは、物質やエネルギーを切りつめつつも、そこに生き甲斐がもとめられる社会、シラケムードの拡散しない社会をつくらなければなりません。そこに役割りをもつことができないようでは、科学の値打ちも地に落ちます。科学の最前線は、エネルギー危機の救済に向かって、健康をむしばむもろもろの要因にむかって、全力をふりしぼって進められなければなりません。

IBMユーザーズ 一九八一年一月

あとがき

私の生い立ち

 私は、東京の本郷丸山新町に一中学教師の長男として生まれた。一九〇一年一二月二九日のことである。この家の小さな庭には、よくセキレイがきた、と母はいっていた。

 私に物心がつかないうちに、父は小石川丸山町(現在の文京区千石)に自分の家をたてた。いま私の住む家は、この建物を移したものである。

 家から三〇〇メートルも歩けば、小川があり、牧場があった。夏の夜にはホタルが家に飛びこんできた。国鉄巣鴨駅は、当時からあった。

 一九〇八年、私は明化小学校に入学した。学校はこどもの足で二〇分ほどの距離にあった。入学当時の私は、M君とI君をさそうことにしていた。M君の家をのぞくと、威厳にみちた白い鬢の老人が、一心にヒゴをひいていた。この人物はM君の祖父で、幕府直参の旗本だ、とあとでわかった。

 当時の小学校には、手工という教科があった。その時間には、粘土をこねたり、豆細工をつくったりした。豆細工とは、ふかしたエンドウ豆にヒゴをさして、犬の形にしたり、籠の形にしたりの、自由な工作のことである。いつのことだったか、豆細工をしながら、このヒゴは君のおじいさんのつくったものかもしれないといったところ、M君はひどいけんまくでそれを否定した。当時は戸籍上の差別があって、M君の家は士族、私の家は平民であった。

 入学式をおえて数日後、記録にのこる大雪がふった。そしてその朝、一台の人力車が、私の家の門前についた。玄関にはいった車夫は、M君を乗せたのだが、軽すぎて転覆の恐れがあるから、私に乗ってくれ、というわけだ。おかげで、その朝ばかりは遅刻せずにすんだ。

 時代ものんびりしていたが、同行三人ものんびりしていた。私たちは毎日遅刻した。そして、三人そろって立たされた。私はその罰をいっこうに気にしなかった。担任の先生も寛大であった。

 後日談になるが、M君は小学校を卒業すると、一流書店Mに勤めた。たぶん酒のせいだろうが、そこをしくじって屑屋になった。一九三〇年頃のことだったろう。ある日、私のところに警察から呼び出しがきた。M君が死んだから始末にこい、という文面だった。彼には身寄りが全くなかったのだ。当時の屑屋は、人がはいれるほどの大きさの籠をせおっていた。M君は、ある家の玄関に腰をおろし、籠にもたれるようにして死んでいた。

 一方、三人組のI君とは、三年の途中でわかれたきりになっている。I君は、父の同僚の令息であった。小学校に洋服をきてかよったのは、このI君と私の二人だけだった。

 三年の途中で、私がI君とわかれたのは、新設の林町小学校に私が転じたためである。当時の私は弟や友だちと、木登りばかりしていた。裏庭が一、〇〇〇平方メートルほどの畑になっていて、そのはしに、桐の大木が何本かあったのである。勉強などは全く眼中にないのだから、学校の成績がよかろうはずはない。この点で、父は大いに気をもんでいたはずである。

 明治の時代の小学校教師は、今とちがって、胸を張り、目を輝やかせていた。禄を失った武士の子孫である士族が、教育者への道に活路をもとめたことによる。

 活気にみちた林町小学校訓導陣に、ただひとり不景気な顔をした人がいた。このM先生は、理科の担当であった。四年からはじまる理科の最初のテーマは「アブラナ」であった。私がナノハナとして知っていた植物が、理科で扱うことになると、アブラナと改名されるのが、私には不可解であった。私は、アブラナとナノハナとはちがう植物だろう、と考えることになった。

 ある理科の時間、M先生は、水をいれたバケツを教室にもってこられた。これを振りまわすと、バケツがさかさになっても水はこぼれない、との前口上があったとき、私たち生徒は異常に緊張した。

 M先生は、バケツを振りまわそうとして、すぐにあきらめた。そして、前にやってみればよかった、としょげた。

 M先生は、恐らく平民だったのだろう。

 それはともかく、このバケツの実験は、私がはじめて見た理科の実験であった。

 少なくとも林町小学校に関するかぎり、理科の設備は皆無であった。

 私は絵がきらいだった。上級になると、水彩画がはじまったが、私はとうとう絵具を買わず、色をぬらなかった。図画の担当のT先生は、私を四角な大火鉢のところに招いて、豪傑笑いをしながら、絵の話をしてくれた。

 私の小学校時代、市電(現在の都電)は白山下までしかきていなかった。私は、弟たちといっしょに小一時間も歩いて、電車見物にいったことがある。その頃の電車は、終点にくると、車掌が電車をおり、綱をひっぱってトローリーポールを反転させたものだ。末の弟はそれにいたく感動して、大きくなったらポールまわしになりたいといって、みんなを失笑させたものだ。

 現在の国電の線路は汽車が走っていた。われわれ兄弟は、たった一度だけ、父につれられ汽車に乗って動物園にいったことがある。その頃、上野は山ノ手線の終点だった。

 父は信州の水呑百姓の末っ子であった。いわゆる青雲の志を抱いて上京し、生計をたてながら哲学館(現在の東洋大学)に学んだ。卒業後、学長井上円了博士の意をうけて、京北中学の創立に参画し、同校の幹事となって、漢文を教えていた。父の漢文は哲学館で修得したものではなく、故郷の寺小屋で教わったものと想像される。

 東京都中野区にある哲学堂は、博士の遺産である。その広い敷地は、現在、都の公園になっている。

 どんな風の吹きまわしだったか、こどもの私には見当のつかないことだが、父は、問題のある生徒を訓育するつもりで、別棟の塾舎を建てた。塾生はいつも五、六人はいただろう。おかげで母は、料理番として転手古舞のしまつとなった。父は、土曜の晩には塾生を座敷に招いて四書を講じた。小学生である私もそこに坐らせられ、孟子や論語や中庸の講釈をきいた。むろんそれは、私にとってはちんぷんかんぷんであった。そうかといって、そこから得たものがゼロだ、などとは思っていない。

 いまとちがって、当時はいわゆる児童図書が一点もなかった。父の書斎で私がみつけた本は、中学の理科の教科書と、東大教授荒川文六博士のあらわした『荒川電気工学』という専門書と、『魯敏孫漂流記』とであった。いずれも私の愛読したところである。

 私の家には従兄が寄食していた。彼は東大工学部電気工学科助手であって、電気にくわしかった。教室から電池をもってきて、私の家の門にベルをつけてくれた。当時の電池は手入れがやっかいであった。塩化アンモニウムの水溶液をみたしたガラス瓶のなかに素焼の筒をいれ、その中心に炭素棒をたてる。炭素棒のまわりには炭素粒と二酸化マンガンとの混合物をつめなければならない。この炭素棒が陽極になり、それとならべて素焼の筒のそとにたてた亜鉛棒が陰極になる。これが、出窓の上に三個ほどのせてある。従兄にとってこれのおもりは、いやになるほど大変だったようだ。

 結局、門のベルは長続きしなかった。私はあきらめきれず、教科書と首っぴきで電池としたしくつきあった。亜鉛棒が小指よりも細くなっても、新品は手にはいらない。悲しいけれど、あきらめるより仕方がなかった。結局、私はこのルクランシェ電池に見切りをつけ、重クロム酸電池を組み立てたりしたものである。

 当時、乾電池は貴重品であった。それは、新書版の本を四、五冊かさねたほどの大きさのもので、その貫録はこども心を圧倒した。従兄が大学からもってくるものは廃物に近い。錐で孔をあけ、そこから水を注入して再生させたものだ。

 当時はおもちゃのモーターなど売ってはいない。絹巻銅線やブリキは手に入ったので、モーターをつくってみたこともある。しかし、一から十までがこどもの手作りでは、形をまねるだけで精一杯だ。とても、回転するモーターなどはつくれなかった。第一、電源にこまるのだ。

 私はよく、電球のソケットから電気をとった。そのためにショートをおこして、停電させることがしばしばだ。そういうとき、従兄はこわい顔をして、私をたしなめた。神妙にしているのは二、三日で、ほとぼりがさめると、またソケットに手をつっこんだ。

 私の家の照明が、石油ランプから電灯になったのは、小学校三年生のときだったと思う。たぶんそのとき、従兄はそれがエジソンの発明であることを私に教えたのだろう。私はエジソンにあこがれ、発明家を夢見るようになった。

 当時、小学校を卒業すれば、大部分の人は家業につくか、就職するか、どちらかであった。余裕があれば高等小学校に進学する。私は父が教育者であったがために、中学コースを選ぶことになった。六年生は二組あったけれど、中学に進学した卒業生は、私をふくめて三名しかいなかった。私の小学校がスラム街にあったせいではなかったか、といまでは思っている。

 中学は開成である。当時の校舎は駿河台下にあった。私の家から学校まで、急いで四五分はたっぷりかかる。雨の日も風の日も、私は徒歩で通学した。道路は舗装してないので、雨降りの日の路面は全くひどかった。そのかわり、自動車はなかったので、ぬかるみを拾って歩いても、安全は保証されていた。

 往復の時間は、私の思索のゴールデンタイムであった。何か新しいものを考えるのである。テーマは、ロータリーエンジンであり、電車の制御回路であった。私はまさに発明家を志していたのである。現在の私の特性は、一つには論理に強いことであり、一つには他人の真似を快しとしないことである。この態度が、開成中学の通学の途上で養われたものであることを、近頃になって思うようになった。

 一年生の英語の時間に、書き取りのテストで、ひどく悪い点をとった。次のテストのとき、私はカードをつくって、歩きながらそれを覚えた、すると、成績は一転して一〇〇点にはねあがった。そのとき、私は初めて勉強の価値を知り、成績をあげることのたやすさをさとった。

 旧制中学は五年制である。私は、往復の一時間半の路上の時間を、学校の勉強と創意とにあてた。これを五年間つづけたのだから、成績がよくなったのも、論理的思考に習熟したのも当然の結果であった。試験の前日を除けば、私は家で勉強した覚えがない。いまはどうか知らないが、当時の開成中学では、数学と英作文とに限って毎日のように宿題をだした。当てられた生徒は黒板で問題をとかなければならない。宿題を家でやったことのない私は、いつもぶっつけ本番で頭をひねったものだ。

 開成に入学したとき、私の順位は百八十何番で、ビリから五番目ぐらいであった。うなぎのぼりということばがあるけれど、私の席次は毎学期まちがいなくのぼって、卒業のときには二番になった。トップは稲田周一君(元侍従長)である。好成績の原因は、勉強の本質と受験の方法を知ることにあった。私の勉強は、依然として一夜漬けであった。

 私の成績がよくなるのを心から喜んでくれたのは、裏方の苦労を引き受けた母だった。

 私には三人の弟がいた。いつとはなく私共は男声四重唱を楽しむようになった。楽譜を習った者は一人もいなかったので、音符の読み方から研究したわけだ。英語の合唱曲集を使った。末の妹は小さくもあったので、合唱からははみだした。

 この頃から、父の緑内障は次第に悪化し、教師生活は難渋なものとなった。そして私は、一九一九年、第一高等学校(現在の東大教養学部)理科乙類に入学した。開成出身でこのクラスにはいったのは、学士院長和達清夫君である。このときの競争率は九倍余であった。稲田君は文科にはいった。

 当時、入学試験は四月、新学年は九月であった。その間の五ヵ月、私は近所の工場に見習工として就職し、入学に要する費用と制服代とをかせいだ。

 父の目が不自由を加えるにつれて、わが家の家計は苦しくなった。私の高校時代は貧乏との戦いであった。むろん奨学金はうけたが、その上に家庭教師にかけずりまわらなければならなかった。私は勉強どころではなく、一家を支える柱としての役割りを負わざるをえなくなった。この状態は大学時代までつづくのであるが、その日々をここに記す気にはなれない。

 例の塾はすでに閉鎖されている。一家はそこに移って、空いた家を借すことにした。建物が大きかったので相当な収入源となった。数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞に輝く小平邦彦博士(東大教授)は、この家に生まれた。

 当時の一高は、いまの東大農学部の敷地にあった。そのために、私の通学距離は、中学時代の三分の二に短縮した。

 その時代に私の慰めとなったのは音楽である。私は、コーラス部と管絃楽部と両方に所属した。その練習日は私の安息日であった。私は万障くりあわせて、練習に参加した。

 日本放送協会が設立され、ラジオ放送というものがはじまったのは、私の大学卒業の年一九二五年(大正一四年)のことである。さっそく東大音楽部に声がかかって、われわれは出演することになった。曲目はベートーベンのオペラ『フィデリオ』であった、と覚えている。私は、その序曲にはオーケストラの一員として、『囚人の合唱』にはコーラスの一員として参加した。夜の愛宕山で、コントラバスやティンパニなどをトラックにつみこんだことが、記憶にのこっている。

 一高の記念祭の日に、T君というバイオリンの名手にベートーベンのロマンツェを弾いてもらって、そのオーケストラ伴奏のタクトを振ったことがある。このときT君は、一杯ひっかけてステージに登った。そのために、一つのフレーズをすっ飛ばしてしまった。その合図をするわけにもゆかずにこまっていたとき、いち早くそれに気づいて譜面を正しく追って演奏してくれたのが一高時代の同級生田宮博君(東大名誉教授)のチェロであった。当時の想い出をたぐりよせるとき、必ずでてくるのが、このエピソードである。

 私はよほどの音楽好きといえるようだ。なけなしの時間をひねりだして楽器を習った。高校時代には、『夕やけ小やけ』にその名をのこす草川信氏にバイオリンを、陸軍戸山学校楽士にトロンボーンを教わった。後者はオーケストラ編成上の選択であるから楽器は買わずにすんだ。大学時代、私は主にフレンチホルンを吹いたが、これは宮内省雅楽部の薗氏に教わったものだ。東大のオーケストラではトランペットやドラムをやったこともあるがこれは誰にも習っていない。

 ピアノを買ったのは日大教授時代で、『物理学計算』の印税を頭金にした。そして、一高時代の同級生鈴木桃太郎君(元防衛大学副学長)とつれだって、笈田光吉氏のレッスンをうけた。彼とはよくバイオリン二重奏をやった。バッハやダンクラの作品を弾いたものだ。

 教授時代、私は機会をつくっては絃楽四重奏をやった。鈴木クワルテットのビオラ奏者が第二バイオリンを受け持ち、私がビオラを受け持って、ハイドンの四重奏曲を次つぎとやってみた時代がある。室内楽は最高級の趣味だ、と私はいまでも思っている。むろん、私にとっての話だが。

 私がチェロを中島方氏に習ったのは戦後のことである。そして一九七九年の暮れから半年ほどは吉野博文氏にオルガンを習った。パイプがついているから「パイプオルガン」といっておこう。私がこれに向かうのは、大体は朝食前だ。時には、家内のオルガンと私のピアノとで合奏することもある。バイオリンを弾くこともある。

 笈田氏はよく、「シュピーレンフロイデ」ということばを使った。演奏の喜びというほどの意味である。私は音楽の喜びは演奏のなかにあると思っている。

 私の高校時代はあわただしく去った。そして私は、東大理学部物理学科を受験することとなった。和達君といっしょにである。この入試は物理学科開設以来はじめてのことであった。その前年、アインシュタインが来日して、物理学界に新風を吹きこんだためであった。

 発明家志望の私は、工学部にはいることを考えていた。それが理学部に転向したのは、父の忠言による。原理を勉強するのがよかろう、ということであった。

 私の大学時代は、高校時代に輪をかけて多忙であった。午後は家庭教師、夜は夜学教師という次第である。音楽はあったけれど、勉強もなくスポーツもなかった。ほとんど毎日のようにある微積分学演習の時間を、いつも途中で抜けださなければならなかった。

 じつをいうと、大学の講義は私にとって、十分に有益とは思えなかった。発明家としての私を育てる性質のものでは全くなかったということだ。それは、私の考えが甘かった、ということでもある。そうであれば、勉強のできない条件の下にあることは、格別こまったことにはならないわけだ。それは、不幸中の幸いというものであったろう。

 関東大震災がおきたのは、私の大学時代である。当時、地震学は物理学科の一講座で講じられていた。大森公式で世界に知られる大森房吉先生は、私たちに、安政地震のような大きな地震は、東京にはおきないだろう、と教えた。そこにあの大地震がおきたのである。二階の壁と柱との間が、数センチも開くのを見ながら、私は先生を信じて、平気な顔をしていた。しかし、巨大な黒煙が天をおおうのを見たとき、これがただごとでない、と思わざるをえなかった。

 たぶんその翌日のことだったと思う。私は大学へいってみた。物理教室は青長屋とよばれた、青壁の教室を一列にならべた平屋である。これは焼け残ったが、法学部、文学部などの赤煉瓦の教室は廃墟になっていた。

 私の出会った二、三の学生は、大学再開の見込みはないだろうといって、首をうなだれた。あてどもなく歩いているうちに、音楽仲間の中司文夫君と、ばったり顔をあわせた。この文学部学生だけは目を輝やかせていた。そして、明日、上野の山に集合しようという。罹災者に救援物資を配給する任務に当たろうという話であった。今日、セツルメント運動というものがあちこちにあるが、これこそが、わが国におけるその草分けである。

 大学からの帰途、私は神田をまわってみた。水道橋の真中に、死体がごろごろしていた悲惨な情景が、いまもまぶたの裏にのこっている。

 上野の山は、焼け出された人でごった返しだ。東大セツルメントと記したのぼりの下で、われわれは、米や缶詰や衣料を受領して、それを配給するわけだ。純真な学生のやることと思ってか、トラブルをおこす人はなかった。

 一週、二週とたつうちに、大波がひくように山の人口はへっていった。誰でもが、この焼けトタン板を立木によせかけた仮りの住いに安住できず、先を争うようにして焼跡へもどっていったのだ。

 上野の山の一仕事がすむと、東大セツルメントは発展的解消をとげ、柳島に、法律相談所と診療所と労働者学校を開設することになる。そして私は夜学の講師を引き受けて、一週に一回、ここに電車で通うことになるのだが、この空白の時期に、私は別の仕事を与えられることになった。

 ある日のこと、私の家に文部省さしまわしの車がきた。車内には、同級生の和達君と藤岡由夫君(元埼玉大学々長)がいる。震災予防調査会の依頼で、東京の焼失区域について火元の調査をすることになったという。

 われわれは、くる日もくる日も焼跡をまわった。もとの家のあとにもどって、うろうろしている人をつかまえて聞きこみをやるわけだ。質問は、出火の時刻と、火の手の方角とである。これを東京の地図にかきこんでゆくわけだ。出火の等時線が描ければ、火元の地点がわかる。火元はどこどこか、を調査するのが目的であった。

 むろん、焼け残った建物や半壊の木造家屋の状態の観察もやった。これは主要目的ではないが、おもしろかった。われわれは横浜までも足をのばして、地震の災害の実態を見てまわることができた。私が見た限り、木造平屋で倒壊した家は一軒もない。コンクリートや煉瓦の壁面の亀裂は必ず四五度の傾斜で走っていた。

 この仕事がすんだ頃、大学は再開され、セツルメントは前記の第二段階の活動にはいった。いわゆる帝都の復興は市長のすぐれた政治力によって、驚異的なテンポで進行したのであった。そして、私のあわただしい日常が、再びもどってきた。

 私の学校生活をかえりみると、小学校卒業が大正三年、中学卒業が大正八年、高校卒業が大正一一年、大学卒業が大正一四年である。小学校は明治に、大学院は昭和にまたがっているが、要するに大正時代は私の学生時代と完全にかさなっている。大正デモクラシーということばがあるけれど、私は大正リベラリズムの方がぴったりすると思っている。

 林町小学校の校長藤岡真一郎先生は、先覚者であった。当時、他に例をみない男女共学制をとった。また、つとに自治思想の重要性に気づき、役員会という名の児童自治会をつくった。役員は選挙で選ばれ、通学路上の諸問題、爪や手拭などの検査を委任される。二番目の弟の久は、初代の役員長となった。自治ということばが耳新しく、大学に自治会のなかった時代のことである。

 開成中学は私学の名門で、優秀な先生をそろえていた。したがってそこには、当然のように自由の空気が流れていた。

 ある英語の試験の時間に、出題者名須川良先生が、酔っ払って教室にはいってきた。そして、問題の解答をペラペラしゃべりだした。監督の先生は、あわてて名須川先生を教室の外に押しだした。この先生は高校から開成に転じた実力者であった。

 東大への私の通学路の途中に、中村清二先生のお宅があった。そのために、私はよく先生とつれだって教室まで歩いた。汗をかくのがいやだから、先へいってくれ、と夏にはいわれたものだ。

 摩擦抵抗の計算は引き算になる、電気抵抗の計算は割り算になる。こういう点に着目して抵抗を扱ってみたいんだが、君はどう思いますか、などとたずねられたことがある。その講義をきく立場にいる学生に向かって、対等の立場がとられたということだ。

 東大生時代の私は、何の勉強もしなかった。いや、できなかった。ただ、卒業まぎわに、電子スピンを思いついた。しかし、学者になるつもりのない私は、深く研究することを考えなかった。

 いまでは、女子大の教師のなかにも、学生に向かって「お前ら」とよぶ人がいる。大正時代の教師に、そのような口をきく人間は、少なくとも私のまわりにはいなかった。

 開成中学で、物理や数学の師となった宮本久太郎先生は、東大で中村先生と同級である。宮本先生は、大学生時代に痔をわずらって歩けなくなり、四つんばいで通学したという逸話がある。真偽のほどを確かめたいと思ってたずねたら、中村先生は笑っておられた。

 物理学科の就職係は長岡半太郎先生であった。私は海軍の技術将校になるように、といわれた。当時、日本海軍の魚雷の性能は世界一であった。これの研究開発が任務ということである。私は軍がいやだったし、いよいよ工学部で直接的な効果をもつ勉強をしたいと考えていたので、これを断わった。それ以来、長岡先生には受けが悪くなった。私は、主として電気工学科の講義をきくのが目的で大学院にはいった。もっと目的をしぼれば、それは螢光灯の発明であった。当時は白熱電灯の全盛時代であったが、私には、やがては高能率の螢光灯が白熱電灯にとってかわる時代がくる、との予想があったのだ。指導教授尾本義一先生は、新しく購入した大型のフォトメーターの利用を考え、私にいろいろな実験をさせた。私は、講義をきいたり、図書室で螢光に関する文献をあさったりした。

 この頃になると、私の家の経済状態はますます悪い。私は住み込み家庭教師となる一方、父の口ききで、例の京北中学の講師になることができた。働きながら勉強という図式はまだつづくのである。私のいま住んでいる家が、小石川から移されたのは、この時期のことであった。

 この中学に、畠山久重先生がいた。先生は、文部省の教員資格検定試験で生物学を教える資格をとった人である。先生は『理学界』という、文検受験者を対象とする雑誌の編集長であった。たぶん、一冊いくらの請負い仕事であったろう。費用を切りつめる必要があったので、原稿集めに苦労していた。目次で執筆陣をながめてみると毎号の九〇%は四人の筆者のものだ。第一は畠山先生である。あとの三人は同一人物のペンネームであり、その覆面の寄稿家は先生の令息久尚氏であった。久尚氏は私よりあとで物理学科に入学する人であって、和達君のあとをついで気象庁長官になっている。

 実質的な執筆者が二人では、編集長もマンネリズムに頭を抱えていたはずだ。畠山先生は、私の顔を見るたびに口説きにかかった。ところが私は、文を書くことが何よりもきらいだった。小学校でも中学校でも、作文を書かされる時間がたびたびあったが、私が実際に作文を提出したことは一回だけしかない。それも、四〇〇字詰め原稿用紙の三分の一は余白であった。それでも私は、内心得意だったことを、いまでもよく覚えている。要するに私は、文を書く能力をほとんどもたなかった人間だ。

 そんなわけで私は、畠山先生の申し出を必死になって断わった。逃げまわった、という方が適切だろう。

 先生は、あるとき私に外国の雑誌を見せた。十分に気をひいた上で、これを材料にして書けばいいんだといって、お目あての個所を示した。この時点で、私のかたくなな心は一気にくずれた。そして、毎号、外国雑誌をネタに原稿を書くようになった。そのネタのすべては、私が最も軽蔑する生物学のカテゴリーのものであった。そのうちに検定試験があって、物理学の問題の解説を書く破目に陥った。こうなると、一から十まで自分の原稿を書かないわけにはいかない。

 結局、こうして、私は文を書く力を身につけていった。ゼロの能力が、ゼロではなくなった、といっていいだろう。私が、能力は発見すべきものではなく、ゼロから育てるもの、という持論を強調するようになった根拠の一つは、まさにこの体験にある。

 私の家庭教師の報酬は月五〇円であった。中学の月給は二〇円であった。そして、原稿料は一枚八〇銭であった。私の家計から見れば、原稿の収入はバカにならないものであった。多いときは三〇枚も書いたからである。

 この中学教師時代に、日本大学の工学部設置の計画がきまって、私はそこに招聘されることを約束されていた。大学院修了が一九二七年、日大教授就任が一九二九年ということになる。

 日大の同僚の大部分は私と同年であった。三〇歳にもならない青年ばかりであった。したがって、話はよく合った。みんなで旅行したこともある。マージャンをしたこともある。スキーやダンスは、この時代に覚えた。酒を飲みにゆくようなことは、誰もしなかった。

 私が、塚原常之助の娘愛子と結婚したのは、いまから五〇年前、一九三〇年のことだ。塚原氏も学校教師であったために、私の父とは共通の話題が多く、話がよくはずんだものである。

 一九三一年、一高時代の恩師和田八重造先生が、私を自由学園によんだ。この地質学者は、教育に抜群の情熱を傾けた。次弟鼎が地質学科に進んだのも、その強い影響によるものである。鼎は満鉄に奉職して地下水の探索に専心していた。そして、出張中に肺炎にかかって、青島に客死した。

 鼎はチェロをたしなんだ。それで、中学時代の私の同級生で上野の音楽学校(現在の東京芸大音楽部)出身のチェリスト沖不可止君のレッスンをうけていた。私の家内は、この沖君の母堂の推薦である。

 鼎は、満鉄に管絃楽団を組織した。そのために、葬式は音楽葬の形をとった。このときの演奏の曲目はベートーベンの第三交響曲『英雄』であった。私がオーケストラでバイオリンを弾いたのは、あとにも先にもこのときばかりである。

 自由学園では、科学グループと名づける六人組が編成された。グループは一室を与えられて、そこで一つのテーマの研究にあたるのである。科学グループの霜柱の研究は有名になって、学士院から研究費がきた。現在、霜柱について教科書などに書かれている事実はここでの発見である。

 自由学園が男子部を開設すると、私はそこに移った。科学のカリキュラムは古自転車の更生ときまった。羽仁氏が対談のなかで語る「自転車」は、このことを指している。

 二番目の弟、久は、南米にあこがれていて、東大農学部実科に入学し、卒業するや直ちにブラジルに渡った。そして、アマゾン上流に入植した集団と生活を共にするのである。

 太平洋戦争が始まると、久は帰国して、軍の特務機関にはいった。小学校時代の恩師羽川和子先生の世話で、その令兄の指導下にはいったわけである。終戦と共にソ連軍の捕虜となって、半年も暗い刑務所にたたきこまれ、ひどい目に会った。

 無事帰国してから、久はブラジルに再渡航した。政府の依頼でインディオの調査をしたときの話はなかなかおもしろい。私の妹の百世は、久の学友岩田章氏と結婚した。

 私には弟が三人いた。一番目が鼎、二番目が久、三番目が厚である私たち兄弟は全部開成出身で、私以外はみんなボートをこいだ。そんなことから、末弟厚は一高ボート部の選手になったが、過激な運動のため肺結核にかかって、惜しい命をなくしてしまった。

 日大時代の物理の相棒は、東大講師兼任の岡島慶三郎君であった。彼はノイローゼ気味になって、ある夏休みに、田舎の寺にこもって絵に没頭するといいだした。彼は小出楢重画伯の門下であった。では付き合ってやる、と私は油絵の道具をそろえた。ところが、彼の気が変わって、私は孤立無援になった。仕方なしに上諏訪の義兄の家に転がりこんで、生まれて初めて絵筆をとった。そして偶然の出会いで、西岡瑞穂画伯の弟子となった。

 私の日大時代は、平凡であり平穏無事であるかに見えた。しかし、教育企業のなかでこき使われた、というのが正しいだろう。そして、爆発のエネルギーが徐々に蓄積されていった。学校運営と財政操作とが、佐野利器工学部長の意向を無視して強行されたのである。

 われわれ同志は教壇上から真相を説明し、スト突入を宣言し、学生の参加をもとめた。一九四〇年のことだから、日支事変のさなかであって、軍の発言権は強大である。兵役の特典剥奪という脅迫によって、われわれはストライキを中止せざるをえなくなった。学生に多数の逮捕者をだし、獄死した人もいるのに、教授が一人も喚問されなかったのは、むしろ不公平であった。のちに日本共産党の教育部長となった矢川徳光氏が首謀者の一人だったのに、である。

 同志十数名と共に辞職した私は前記和田先生の招きで武蔵高校(現在の武蔵大学)に移った。そこに二年ほどいて藤原工大(現在の慶大工学部)に移った。そしてさらに津田塾専門学校(現在の津田塾大学)に移るのである。

 津田塾は英学塾といって英語だけの学校であった。戦争が科学技術を要求するということで、文部省はここに理科の開設を命じた。私はその物理化学科の主任教授となったのである。じつはこれと前後して、恩師竹内潔先生から一高にこいといわれた。私は、自分の影響力の大小を勘案して、津田を選んだのであった。

 藤原工大時代に書いた生活の物理は、湯川、朝永の両ノーベル賞受賞者を育てた仁科芳雄先生の目にとまった。そして、出版統制のための新組織日本出版協会が制定した出版文化賞の第一回をもらうことになった。この縁で、先生のお伴をして長野までいったこともある。

 『生活の物理』は、技能者養成出版社の目にもとまった。そして、陸海軍の航空整備学校の教科書を書かせられることになった。

 私は、水戸、所沢、追浜などの航空整備学校を見てまわった。ある教官が、日本をわが国とよべるのは天皇陛下に限る、といったことが、印象深くのこっている。

 この出版社の世話で、職長の服をきて神戸の川崎造船所に潜入したことがある。特殊潜水艦や、巨大な航空母艦の建造を見て、びっくりしたものだ。この出版社の幹部全員が日共党員だと知ったのは、後日のことである。

 津田に入ってまもない頃のことだ。小学校で同級だった坂本虎夫君が従兄坂本栄一氏を説いて、科学教育の功労者の表彰をやることにした。第一回の受賞者は大分県中津高女で発明の指導に成果をあげた東野マサ先生ときまった。帝国ホテルで催された表彰式は、まことに盛大であった。

 栄一氏は富山房創立者の令息であって、『玄海』執筆のために大槻文彦を住まわせた本格的洋館を鎌倉にもっていた。彼のたぐいなき好意で東野先生の教え子一〇人がここにきて勉強することになった。私は東京からここにかよった。

 戦争が苛烈になると、この形態の勉強は許されなくなり、一同は東大航空研究所にかようことになった。富塚清氏(東大名誉教授)が、女性の科学の力量に感服したのは、この時であった。空襲がひどくなると、鎌倉から東京への通勤は危険だ。一同は、二年余にして旗を巻いて故郷に帰った。

 東野先生も「鎌倉組」も、いま以て健在である。

 鎌倉組が東大に吸収された頃、例の技能者養成出版社が私を駆りだした。機械工の養成が焦眉の急となったためだ。旋盤の使い方とか、ボール盤の使い方とかの掛図の製作をおしつけられて、連日徹夜の騒ぎとなった。そこで働いていた竹久夢二画伯の令息は、私に覚醒剤ヒロポンを教えてくれた。これは効果的な手段であった。当時、軍でも工場でも、ヒロポンは広く使われていた。

 戦争となると、学校教育は二の次になった。学徒動員は、校内に設けた航空研究所の計算作業などでお茶をにごしたが、空襲警報が鳴るたびに森に退避するという落ちつかない時代であった。

 戦況が末期的になるより前、大日本教育会に教学動員部が組織され、私は非常勤の形でそこに動員された。キャップは東大隈部一雄氏で、宗像誠也氏(元東大教授)もいっしょであった。ここで私は小学校教育の実際を自分の目で見ることができた。

 私をとくに歓迎したのは、大船の小坂小学校長坂倉哲太郎先生である。空襲のあいまを縫って、私は二、三の津田の学生を伴なってそこにかよった。六年生に、一年間自転車の授業をしたのである。『自転車の教室』はそれをまとめたものだ。

 ところで、日本の科学は欧米伝来のものであるために、用語は訳語になるが、戦時中まで、これの統一のはかられたことはなかった。戦争がすんで落ちつくと、各学会の協同事業として、用語統一のための委員会が組織された。私は物理学会の委員として、今日用いられている用語をきめる仕事にたずさわった。廻転を回転に、電磁感応を電磁誘導に、寒暖計を温度計に改めたなどがその成果である。

 戦後二年、物理化学科の閉鎖を前にして、私は津田をやめ、著述業に転業した。そうなると、物理が専門だなどといってはいられない。守備範囲は広がった。この過程に大きな影響があったのは、中学理科の参考書を、独力で書かなければならなかったことである。旺文社刊行の『中学生の理科』三巻がこれである。

 私の文筆業のハイライトは、数名の画家と旅館にこもって、五〇日間に小学一年から中学三年までの理科の教科書を独力で書いたことであるかもしれない。

 このとき私は、中央線始発電車の音を聞くまで寝なかった。午前九時となれば、教科書会社の人が連絡にくる。そのような日々を、私は頑張り抜いた。そしてできたのが、中教出版の小学理科教科書『みんなの理科』全六巻と、中学理科教科書『自然のなぞ』全三巻とである。そのあと半年間、微熱がつづいて体重が増え、頭が白くなった。

 新教科書が出揃ったとき、読売新聞が各社の新刊に批評を加えた。『自然のなぞ』は九十何点という抜群の評価をうけた。

 一九六一年、竹内潔先生から声がかかって、私は清泉女子大で教壇に立つこととなった。東大招聘を断わって、こんどもまた断わることはできなかったのだ。この時代に私は学園紛争を経験したわけだ。『大学の原点』(本書シリーズ二〇巻)は、そのときの私にとっての実りである。カトリック系女子大のおとなしい学生が、デモに参加したというだけの理由で逮捕され、負傷するありさまだった。自宅の読書会のメンバーが学生会の会長に選出されたことから、私が大学当局からにらまれて喚問される一幕もあった。『大学の原点』は、紛争の前夜に書かれたものである。

 清泉女子大に就職した当初から、私は女性の児童文学創作の可能性を学生に説いた。三年目になって、これが「メールヒェンの会」の形で実践にはいった。国文科主任教授須藤松雄氏の協力による。かねて私は、『トリスタイン童話集』、『二十一世紀の秘密』などの作品を書いていたが、ここにきて児童文学作品を書かなければならなくなった。短篇は機関誌『メールヒェン』にのせたが、二、三の長編は未発表である。

 現在の私の著作活動の重点は、次第に健康管理の方面に傾斜しつつあるが、それは私が老化に挑戦しようとするためばかりによるのではない。私の分子生物学の勉強が、そのような方向づけをした、とみるのが正しい。

 津田の物理化学科の卒業生は、あとにも先にも同窓生をもたない。そこには七年間ほどの歴史しかないからである。そのような事情から、一九四八年頃に、第一回卒業生中心の勉強会が組織された。そしてそれが、三十余年もつづいて今日に至っている。会合は一週に二回の時代もあったが、近頃は二週に一回平均に催される。

 そこでのテーマは、初期の頃は文学であったが、哲学や社会科学をカバーしていた。それが次第に自然科学にしぼられるようになり、生理学、薬理学、分子生物学と進んできた。そうなれば、お互いの健康のために健康科学の比重が大きくなるのは当然の成り行きであった。

 私のような分野の著作活動には、人一倍の勉強が必要である。その勉強は、この教え子の勉強会の後押しによる、といっても過言ではない。この本にあらわれている私の発言の性格や範囲の広さは、その勉強会の勉強の反映である。

 津田の卒業生が中心の勉強会はもう一つある。それは比較的新しい。そしてまた、全く別の人たちによる勉強会「ユリノキ会」もある。両者とも一〇年以上の歴史をもっている。

 還暦を迎えた一九六一年、私は初心を忘れていることに気づいて愕然とした。発明に全力投球がしてみたくなった。以前から知遇をえていた小原光学社長秋田忠義氏の援助のおかげで、視力検査装置、光学繊維束製造法など、数十件の特許をとることができた。

 秋田氏はハイデルベルクでリッケルトに哲学を学んで、雑誌『改造』の編集長となり、アインシュタインと交渉して、その訪日を実現した人として、重要な存在であった。

 私は一介の市民として生きたいと思っている。一九七二年、東京都が放射三五、三六号線の計画を発表した時点で、地域住民を語らって反対運動をはじめた。この超大型道路は、多くの人から安住の地を奪い、学校の敷地をけずるばかりでなく、軍事目的をはらむものである。われわれは、定期的な会合をもつばかりでなく、美濃部知事との対話集会をもち、行政当局の説明をきく、など精力的に動いた。不幸なことに、一般市民と地主との利害の不一致、行政の圧力などのために、われわれの運動も空しく、現在、建設工事が進行中である。

 私の住む練馬区は、光化学スモッグ事件の原点として知られる。一九七三年、石神井公園の近くの中学校の生徒たちが、重大な被害をうけたのである。このとき被害者の父母が集まりをもった。私の家は、電車を利用して三〇分ほどはなれた所にあるのだが、私はそこにかけつけた。私の科学が役に立つと思ったからにほかならない。

 結局、私は「練馬公害をなくす会」の代表に推されることになってしまった。この会でも、定期的な会合をもち、区民集会への出席を勧誘するために、沿線の駅でビラをくばることまでした。

 これら二つの住民運動は、かなりの盛りあがりをみるところまではきた。しかし、もう一歩の押しがたりない。大学を停年退職した時期にあたった関係もあって、私は住民運動に全力投球することができたのだが、その実りは語るにたりない。

 やがて公害は身近にせまって、私の居住する地域に鉛中毒事件が発生した。患者が続出したのである。ここに「小竹町旭丘公害をなくす会」が結成され、私は世話人の一人となった。この時点で、私はまさか自分が公害病患者だとは思っていない。それが、われわれの計画した集団検診のなかで裏切られたのである。これはまさに、私の市民運動の実りであった。この間の事情を記したのが、『鉛が人間を呑みこむとき』(本書シリーズ一八巻)である。

 いまの私が毎日なにをして暮らしているかといえば、原稿を書いたり、講演をしたり、オルガンをひいたり、というところである。ここに遠慮なしに飛びこんでくるのが電話だ。健康相談の電話だ。最近の著書が主として健康ものであり、奥付けに住所や電話番号を記したのだから、これも無理はない。私の心底には、健康を自主的に管理する運動のリーダーの一人だという意識がある。一九八一年のメガビタミン協会の設立、一九八二年の株式会社メグビーの発足は、この運動の具体的な表現として受け取って頂きたい。

 現時点で、私という一個の人間の存在理由を認める人がいたとするなら、それは、メガビタミン主義の主張、健康自主管理運動の主張の二点に尽きるだろう。このことに私は、十分に満足している。

 なお、この「あとがき―私の生い立ち」の部分は、旧版を多少書きかえている。その加筆は、太平洋を東進するクィーンエリザベス二世号の船室でおこなった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?