科学との出会いをもとめて 第一章 人間
1 夏は想い出を生む季節
夏は想い出を生む季節であるようだ。少なくとも私にとって、ことしの夏はそうだった。
まず、心温まる想い出を語ろう。
七月一五日、私は北海道にむかった。函館発の特急の車中、ノーベル賞受賞者と共同で細胞社会学をやっていたという少壮学者にめぐりあった。仲介者となったのは同行の早大生O嬢であった。私はここで細胞膜表面の模様、細胞の菌毒に対する反応などの知識をうることができ、新生児と成人との生理機能の相違について、DNAレベルおよび細胞レベルの討論をすることができた。要するに私は、長らく抱いていた疑問の解決にむかって確実な一歩をふみだすことになったのである。この行きずりの学者との出会いは、想い出以上のものであった。
われわれの一行は、総勢四二名、年齢幅六〇歳という混合部隊であって、名づけて士幌自由大学という。広大な十勝平野の一点にすぎない存在でありながら、過疎への挑戦で着々と成果をあげつつある士幌町と早大助教授結城先生との合作によるものだ。
この士幌自由大学の場合、心温まる想い出と心の冷える想い出とが交錯している。前者は、町の歓待振りであった。それは老人の一部に、冥土の土産という言葉のもれる程度のものなのだ。後者は大学生連中の思考能力の欠落であった。老人とちがって若者には問題をとらえる力はある。しかし問題を処理する力はない。話せばわかるという名文句もあり、他人も自分と同じように物を考えるものと思いこんでいた甘さを、私は結城先生と共に反省せざるをえなかった。大学が定型的・教科書的な人間をつくっていることを改めて確認して愕然としたのである。
お手盛り学長の私は、宿舎研修所における冒頭のあいさつで「自由大学の理念は、年齢から解放され、身分、職業から解放され、家庭から解放され、一つの釜の飯を食い、共に遊び、共に学ぶところにでもあろうか」という意味のことをしゃべった。これは困難なことではあるが、とつけ加えておいた。それがまさにその通りであって、解放が困難であるどころか、その前提となる解放の概念の理解さえもが困難と知ったとき、ショックは大きかった。これは、心の痛む想い出でもあり、寂しい想い出でもある。
一週間の合宿を終えたとき、町の世話係のまわしたサイン帳に、「知性と教養を捨てよ」と記した画家A氏の一文は、心の冷える想い出となった。私はここに「人間の魅力は年輪と共にあること、理想が手の届くところにあることを教えられた」と書いておいた。多くの老人との接触からえた感想である。
士幌から帰ると、私は沖繩で泳ぎ、そして野尻に遊んだ。
数年前の夏のことである。野尻の地を訪ねた私はある日花園にまぎれこんで、そのあるじに声をかけられた。言葉をかわすうちに親しくなり、その家に宿をとることもある間柄になった。そこは誇張していえば知識人のオアシスだ。すべての人の目にそれは、女主人公の人柄のなせるわざと映る。
友人の別荘におちついた私共は、滞在中の夕食をその老婦人におんぶすることにきめた。そしてそのオアシスで、私はニセ行者を自称する人物にめぐりあうことになる。
戸隠の寺に住むというその行者は、身なりも陽焼け振りも正真正銘の行者を思わせる。彼は、戸隠神社の縁起について、戸隠そばのたれについて語り、みのを求めて雨の銀座を歩いてみたいといい、毛無山の“毛”が、もののけの“け″であることを教えてくれた。
私が電話に立ち、しばらくしてもどると、話はがらりと変わった。その数分間に彼は私の素性を同行者からさぐっている。「僕は先生の後輩ですが、どこでの後輩かわかりますか」ときた。結局、彼は私同様、東大物理学科の出身である。彼にいわせれば、「物理学を二〇年もやってノーベル賞もとれないようなら方向転換すべきですよ」なのだ。物理くずれの私もむろんこれに賛成する。話に花が咲いてわが国物理学界の現状を批判し、素粒子論に及んで、意気があがったところで、彼はいった。「学者の才能の半分は人をだまくらかすことですよ」と。ここにもまた少壮気鋭の学者がいた。
聞いてみると彼は、ミュンヘン大学を通じてフォルクスワーゲン財団から一、〇〇〇万円の桁の研究費をもらっている。研究題目はと問えば彼は〝哲学″だと応じた。「哲学となれは物理学とちがっても何をいってもかまわない」と胸を張る。フォルクスワーゲンの前にはフォード財団をだまくらかして研究費をせしめていたのだそうだ。
「人間だって二〇年ごとに、何をやったか点検すべきだ」と、彼はいう。「何にもやっていなかったら首を切って幽魂碑をたてるか」などという弥次もとんだ。戸隠神社には、維新のどさくさに一七人の首を切って埋め、その上に幽魂碑なるものが立っているという。その故事を彼が話したからだ。
清談は武谷三男氏の三段階論から唯物弁証法に及びレモンパイにまで飛躍する。現代社会はかくの如き浮世ばなれした人物の研究に賭けているのかとも思う。
今夏最後の想い出は、まことに心温まるものであった。
(東京タイムズ 一九七四年九月十七日)
2 生死に等しい切実な欲求
科学者の業績は、牧野富太郎における新種植物の発見のようなものと、ニュートンにおける万有引力の法則の発見のようなものとに大きくわけて考えることができる。
新種植物は、人間の五感をとおして地上に存在する。しかし、万有引力の法則は人間の五感をとおしての存在ではない。それは思惟の世界の存在である。
これら相異なる二種の存在を他人にさきがけて認識することに対して、同じく《発見》ということばが使われる。しかし両者は、その意義も性格も次元を異にする。
ピエール=キュリーは《キュリーポイント》と名づける特別な温度を発見した。鉄の磁性が不連続に変化する温度を発見したのである。
鉄の磁性の大きさの変化は、磁力の大きさを装置にあらわれる変化として、視覚を刺激する存在に変換させることができる。それにもかかわらず、キュリーポイントの本質は、新種植物の存在のごとくに五感的な存在ではない。磁力計の示度と温度計の示度とを結びつけて、いわば反射的にキュリーポイントの存在を理解することは、一般の人に期待すべきことではない。
キュリーポイントを思惟の世界の存在と見ることは強引にすぎるかもしれぬが、それが思惟の産物であることは否定できない。ピエールの特性のなかでは、思惟の世界での発見がひときわ光輝を放っている。
ピエールはまた、ピエゾ電気現象を発見した。水晶片に圧力を加えると、そこに電気が発生する現象を発見した。圧力を加えることは五感にのぼる操作であり、電気の発生は電気計の指針にあらわれる現象である。したがって、ピエゾ電気現象の存在は、思惟をとおすというほどの過程なしに、いわば偶然の機会に発見されることもありうる性質のものである。
しかし、ピエールの場合、それはこのような新種植物の発見の次元で実現した発見ではなかった。
水晶片が熱膨脹によって帯電する現象はつとに知られていた。それを思惟の世界で抽象してみたことが、ピエールの発見の動機であった。体積変化という現象を、熱の吸収や放出によるかわりに、外力を加えることによって実現しても、同一の電気現象をおこすであろうと推測したところに、ピエールの洞察の鋭さがある。
この底光りする洞察力の基礎には幾何学があった。ピエールにおいて、幾何学は体質の一部となっていた。
体積という名の物体の幾何学的属性を電気と結びつけ、その体積の変化の原因を一般化しえたことが、ピエゾ電気現象発見の鍵であった。この過程のなかに、偶然の要素がふくまれていなかったという証拠があるわけではないが、かりにそれがあったとしても、九九パーセントまで、この発見は思惟の世界のできごとであった。
ピエールにおいては、プラスとマイナスと性質の相反する二種の電気が存在するという事実は、ピエゾ電気現象をおこす結晶に非対称性が存在することと結びついた。そしてまた、変形によって電気がおこるものなら、電気をあたえることによって変形が生じるはずだという判断となった。
これらの発見が、まるまる一〇〇パーセントまで思惟の世界のできごとであることは、だれしも肯定しないわけにはいくまい。
これらの発見をめぐる精神活動において、ピエールは全く独自の思惟の世界をもっていた。それは父親ウージェーヌの手引きによってきずきあげられたものと考えるべきであろう。ウージェーヌはよく、少年時代のピエール兄弟を野外にともなって、動植物に対する観察の目をひらいたといわれる。このあたりからピエールの思惟の世界が芽生えたとするならば、ウージェーヌの指導は、現在わが国の幼稚園や小学校などでおこなわれている教育のなかでの生物の観察の次元をはるかにこえたものであったことは想像にかたくない。その内容は、ピエールもしくはその兄ジャックの手記なくしては知るよしもない。
ピエールが自由な思惟の世界を展開して、そのなかでさまざまな現象や法則を発見したのに対し、マリは最初の研究題目をベクレルの放射能にもとめた。これはピエールの研究の動機とははなはだ異質である。
ピエールにおいては、研究とよばれる行為は自然発生的にすべりだす性質のものであって、とくに題目を選択するというような場面は不自然であって、むしろ不必要というべきである。
研究題目が意図的に採択された場合、その研究行為の実践にあたっては、自己をそのなかに投入する方向への積極的な精神活動が要求される。これはすなわち努力に相当する。
このように考えるとき、マリが努力の人として印象づけられた存在であることが、当然のこととして理解されるであろう。努力が成果をもたらし、その成果がさらに努力に彼女を駆りたてるという循環過程が、研究者マリの本質と見てよい。
ピエールにおいては、第三者の目に、努力の人としての印象をあたえにくい。ピエールにおける研究という名の行為は、彼の精神活動の内容のすべてであったといって過言ではない。ピエールにとって、努力は無用の美徳であったのである。
光芒を放つ金属塊がテーブルの上の容器におさまっていて、これこそがラジウムという新物質であるということを示された人は、この発見をきわめて率直にみとめるであろう。この発見の性質は、新種植物の発見の性質とさしてちがうものではない。
この新元素の標本をつくることの要請に対して、ピエールは積極的でなかった。「学問が生死に等しい切実な欲求である」というピエールのことばの実感からすれば、標本をつくるような仕事が、彼を動かす力をもたないことは明らかであろう。標本のごとき存在は思惟の世界においては一顧の価値もないからである。
この標本問題において、マリは夫に同調した。しかし夫妻は結局は、標本をつくることになった。この問題解決の過程におけるマリの役割りは知られてはいないが、マリがピエールの牽引車となったことは想像に難くない。
むろん、現実にラジウムの相当量の標本が用意されれば、そのさまざまな特性の研究が可能になるであろうし、利用の道もひらけるであろう。
この種の洞察においては、おそらくマリの側に一日の長があったことであろう。自由な思惟の世界においては、このような研究や利用が大きくクローズアップされてくる必然性はありえないのである。
鉱石ピッチブレンドのふくむラジウムはきわめて微量である。そのために、この新物質を単離する仕事は、科学者の領域のものというよりむしろ筋肉労働者の領域のものであった。そしてこの重労働の主役をつとめたのは実にマリであった。最低ともいうべき生活条件のもとで、敢然とこの難事業に立ちむかったマリの意地と情熱とは、思惟の世界に閉じこもりたがるピエールを立ちあがらせるのに十分であった。
この間ピエールは、思惟の世界の窓から、その作業の進行を適切に管理したといってよいであろう。ここにキュリー夫妻のみごとな協力の姿勢があった。ラジウム単離という難事業の成功を保証したのは、最高の頭としてピエールを、最高の手足としてマリをえたことであった。
ピエールの命は、なすべき仕事を山ほどのこしたまま、惜しくも不慮の突発事故によって失われた。そのかわりこの偉大なる科学者は、終始その生命の灯を純粋に思惟の世界にともすことができた。
ピエールはマリに目をつけたとき、彼女を学問を生死に等しい切実な欲求とする女性と見てとった。ピエールにとっての自然科学は生死に等しい切実な欲求であったにちがいない。ピエールの目に映るマリもまた然りであった。キュリー夫妻にとっての自然科学は生死の如くに切実であり重大であった。
一つの文学作品がそれに触れる人にあたえる感銘は、ラジウム発見の物語に劣るものではない。ロマン=ロランにとって、文学は生死に等しい切実な欲求であったろう。しかしこの最高の文豪の傑作でさえ、文であって文に終わる。ラジウム発見の物語の裏にラジウムという物質が実在するのとは大きなちがいである。
もしここに一片のラジウムがあったとすると、それに近づくことは放射能障害の危険をおかすことになる。そこにはまさに生死の問題に直結した切実さがある。ラジウムの存在を無視することは、どんな人間にとっても不可能というべきである。ラジウムに対する無知は、ただちに生命に対する脅威となる。
文字通り生死に等しい切実さというものは自然科学の場合には研究者につきまとうばかりでなく、その実りにまでおよんでいる。
精神のなかにはじまって果実にまでおよぶ生死に等しい切実さは一つの魅力でなくて何であろう。しかもその果実はつねに厳然たる実在の姿をおびて人間の生死に迫ってくる。そこには全人類がよってたかってゆすぶっても、びくともしない真実への指向がある。このことの魅力が、科学者を科学の道にまねくのである。
エーブ=キュリーが《キュリー夫人伝》に説いているとおり、ピエールやマリが人となった時代にはコントやスペンサーの実証哲学が幅をきかせ、パスツール、ダーウィン、ベルナールなどの業績によって科学が千金の重みを加えて芸術の上位に立った。生死に等しい切実な欲求に生きようとする両人の目に、科学の道は疑いもなく最高の道と見えた。
《ジャン=クリストフ》がいかに偉大な作品であっても、これだけの切実さは創作主体にはあったであろうが、作品には期待すべくもない。この作品の存在を無視し黙殺しても、生命に危険のおよぶ恐れなど、ありようはずがないからである。このあたりに、科学と芸術とのあいだの重大な相違に気づく。ミケランジェロの彫刻がいかに偉大であっても、一生これを見ないですまして残念にも思わない人はいくらもいる。芸術作品というものは、それに接しないですまして、痛くもかゆくもない性質のものである。ベートーベンの音楽についても同じことがいえる。要するにそこには、科学に匹敵する切実さはないのである。
ピエールとマリとはその科学に対する対し方において大きく隔っていた。しかしその距離は、右の車輪と左の車輪との隔りでしかない。学問を生死に等しい切実な欲求とする点で両者が一致したのは当然である。そしてまたこれは、科学の道を歩む人間の基本的な条件である。科学の成果はすべて、このような欲求をもつ人々の頭と手足とから生みだされてきたのである。
ピエールの死後、マリは名実ともにその後継者になろうと努力した。しかし、ピエールの思惟の世界を再現することはできなかったといってよい。それはあまりにもユニーク、あまりにも高いものであった。それにもかかわらず、学問を生死に等しい切実な欲求とする点に、いささかのゆるぎもなかった。そしてこの努力のなかで、マリは全人間的にピエールの水準に迫った。
マリの切実さは、その成果の切実さとともに次の世代につたえられた。それは人工放射能の発見や平和運動の展開にスムーズにつながっていく。ピエールとマリとが高く力強く掲げた切実な欲求の灯は、かくして輝やきを増していった。
すべての人にとって、生死に等しい切実な欲求に生きることは喜びでなければならぬ。しかしその喜びを学問に求めることは万人の道ではない。ある人はそれを科学に求め、ある人はそれを芸術に求め、ある人はそれを肉体の快楽に求める。しかしその人の活動の成果が人類の生死にかかわるものは芸術の領域では考えられない。それは自然科学でなければ、政治や経済や法律や闘争などであろう。しかしそのなかに純粋さを求めるとするならば、のこるものは自然科学のみである。
ピエールとマリとを頂点とするキュリー家の人々の存在は、一から十まで美しいの一語につきる。それは彼等が終始学問を生死に等しい切実な欲求としてきたことで十分に説明できる。しかしそれがどこにも隙間なく充実しているのは、中心題目が放射能という殺人的な作用をめぐることによる。
ピエールとマリとによって開かれた放射能の世界は原子力をもたらした。それはまた核武装、核戦争という新しい恐怖を生んだ。かりにすべての芸術に目をつぶるとしても、核エネルギーに目をつぶることは絶対に不可能である。
この《生死に等しい切実》こそはキュリー夫妻ののこした遺訓であって、彼等が身をもってそれを示すことができたのは、彼等が科学者であったことによる。そして、それゆえにこそ彼等は讃えられてよいのである。
(ロマン・ロラン研究 一九六五年二月)
3 私の数学勉強史
小学校時代の私は算術がいつも〝乙〟で、中学教師であった父を落胆させたものだった。当時小学校の月謝は二〇銭と決まっていたが、私の林町小学校(今の文京区)は貧民学校とよばれて、それがただだった。そんな学校でもあり、明治のことでもあり、勉強などということを考える子はいなかった。私のクラスで中学校へ進学した者は、私をふくめて二人しかいない。
あわてた父は、友人のお情けをたよって、私を開成中学におしこんだ。一九一四年のことである。
自慢話になって恐縮だが、ビリで入学した私は、四年、五年のころには、数学はどの科目も一〇〇点以外はとらなくなった。むろんそれについては〝美談〟がある。
当時開成中学は駿河台のニコライ堂の下にあった。校舎はおんぼろで、いつも薄暗かった。おかげで私はまもなく近視になった。この中学の慣例として、座席は成績順で、トップが教壇からむかって左の奥のすみに坐り、ビリが最前列の右のすみ、ということである。入学当時、私は最前列にいたから、近視でも黒板の字が読めた。
生まれつきのんきな私も、いつのころからか欲がでた。いちばん点のとりやすいのは英語の書き取りとにらんで、スペルを覚えることに専念した。といっても家では絶対に勉強しない主義は、小学校から一貫している。通学の時間を利用したわけだ。五kmほどの道を歩くのだから時間は十分にある。
これが成功して、教室での席がだんだんうしろにさがり、黒板の字はだんだんかすんできた。とくに数学の黒板がひどかった。私は黒板を見ないことにした。先生が一生懸命説明しながら式をならべるわけだが、私はそれを無視した。そして、もっぱら自分のノートの上で、例題を参考にして、問題を片っぱしから解いていくのだ。毎回その伝でいくうちに、力がついてきた。気がついてみると、黒板より私のほうがずっと先へいっている。当時の教室では、生徒が黒板にならんで問題を解く。私の解法は自己流だから風変わりのはずだ。先生にそういわれたことはあるが、文句をつけられたことはなかった。
私の代数と三角と、そして物理の恩師は宮本久太郎先生であった。東大時代、痔を病んだとき、四つんばいで通学したという噂がキャンパスに流れていた。この先生の名著『代数学精要』を、同級生の大部分はもっていたが、貧乏な私にはそれが買えなかった。あるとき友人にそれを見せてもらったら、序文に「数学はそれ愚者の領か」とあった。私はそれを見て、なるほどと思った。要するに私は、数学を呑んでかかっていたわけだ。
宮本先生の教育をうけて私と同期に卒業した人のうちには、若くして亡くなった数学史家細井淙君もおり、学士院長の物理学者和達清夫君もいる。(東書・中学数学 一九七六年二月)
4 寺田寅彦の随筆『科学者と芸術家』
寺田寅彦は筆者の恩師である。当時すでに寅彦は五〇歳に近く、吉村冬彦のペンネームは筆者たち東大理学部物理学科の学生ばかりでなく広く知られていた。したがって筆者たちはこの高名な科学者に対して、他の教授とはちがった目を向けていた。深奥に情熱をこめていないはずはないのだが、寅彦の講義はだれにも気が抜けて見えた。講義の題目はSchwankungserscheinungen(バラツキ現象)であった。寅彦は大学での講義を好まなかったという意味のことが、宇田道隆氏の書いた伝記にあるが、この見解には思いあたるふしが多い。
寅彦が漱石の木曜会に顔を出すようになったのは一九〇六年二九歳の年である。そしてその翌年、寅彦は随筆『柿の種』をあらわし、さらにその翌年からは藪柑子の名で、雑誌ホトトギスに小品を寄稿しはじめた。一九一八年再婚、翌年胃潰瘍をわずらって入院、その翌年から絵筆をにぎることとなった。このあたりの事情は『自画像』にくわしい。これから二年あとに、寅彦はバイオリンをはじめた。同じ漱石門下の三羽烏にかぞえられている鈴木三重吉や小宮豊隆とくらべて、寅彦はけたちがいに広い好奇心をもっていた。筆者の持論とする″科学者は人間の可能性を信じる人だ″ということばは、寅彦においてまことにぴったりする。
いずれにせよ、筆者が教壇の寅彦に接したのはこの時代であり、『冬彦集』、『藪柑子集』刊行の時期と前後する。その当時、この科学者が科学と芸術との間を大きな振幅でゆれ動いていたことは事実である。もしも寅彦が科学者でなくして芸術家であったなら、この状況は一つの分裂症状のように思われて、自分自身をさいなむ原因ともなったであろう。しかし寅彦の心が無風の日の湖面のようであったことは、『科学者と芸術家』を見ても、『自画像』を読んでもわかる。もっとも、『科学者と芸術家』が書かれたのは一九一六年であって、油絵にこったりバイオリンと取り組んだりするより五、六年まえのことで、東大教授就任の年にあたる。
科学者で芸術の領域に踏みこんだ人として、近代の日本で寅彦ほど有名な存在はないであろう。それはけっして名ばかりではなく本質的にもそうであったと判定できる。『科学者と芸術家』のなかで寅彦は、科学の世界と芸術の世界との共通性にスポットをあてることを試みている。ここには科学者にとっても芸術家にとっても、大げさにいえば、必読の価値ある意見がのべられている。〝科学者の描写は草木山河に関したある事実の一部分であるが、芸術家の描こうするものはもっと複雑な「ある物」の一面であって、草木山河はこれを表わす言葉である。……この「ある物」をしいて言語や文学で表わそうとしても無理なことであろうと思うが、自分はただひそかにこの「ある物」が科学者のいわゆる「事実」と称し「方則」と称するものと相去る事遠からぬものだろうと信じている〟画家はよくquelque choseというフランス語を口にするが、その意味が「ある物」に相当することはいうまでもあるまい。「ある物」は、芸術家であると科学者であるとをとわず、おしなべて探究者にとって最も重要なもののひとつであろう。これを「ある物」とぼんやり表現しなければならないのは、寅彦のことばのとおり、これが言語や文学で表わそうとしても無理だからであると考えないわけにいくまい。
寅彦はここに、科学者と芸術家との対比を試みた。これをあえてした寅彦の本領は、いうまでもなく科学者であって芸術家ではなかった。この興味ある対比は、寅彦が科学者であったからこそ可能であったと筆者には思える。科学者と芸術家との対比を試みる勇気は、日本の芸術家にはないのではないだろうか。
フランス語に堪能な画家が筆者にこういったことがある。フランス画壇の人々は話題が豊富で、哲学でも科学でも議論のまないたにのせる。藤田嗣治はフランス語がよくわからないから、平気な顔をしてフランスの画家とつきあっているのだと。筆者は個人的に藤田画伯を知っている。そして、その高名な人物の話題が絵画芸術の外に出ないことを、画伯の左手首にある腕時計のいれずみにかけて誓うことができる。
幸か不幸か、この暁星中学出身の画家はすでにない。だからこそ筆者も、こんなひどいことばをここに披露する気になれたのである。
『科学者と芸術家』の出だしには、こう書いてある。″芸術家にして科学を理解し愛好する人も、無いではない。また科学者で芸術を鑑賞し享楽する者もずいぶんある。しかし芸術家の中には科学に対して無頓着であるかあるいは場合によっては一種の反感をいだくものさえあるように見える。また多くの科学者の中には芸術に対して冷淡であるか、あるいはむしろ嫌悪の念をいだいているかのように見える人もある。……科学者の天地と芸術家の世界とはそれほど相いれぬものであろうか。これは自分の年来の疑問である〟
ここにあらわれた寅彦の問題意識は芸術家にもあってしかるべきものではないかと筆者は考える。
一般人にとって、芸術は趣味の世界に属するが、科学は趣味の世界に受けいれるには手ごわすぎる。趣味の世界の選手である芸術家が趣味の世界からしめだされがちな科学に対して親近感をもちえないのは当然かもしれぬ。現代はすべてのものが分化の方向へ一目散に走っている。その勢いは寅彦の時代に輪をかけてはげしい。
原子を研究する人は、物理学者、科学者などのよび名より原子物理学者のよび名のほうがふさわしい。すなわちそこには科学者とよばれる人物のイメージがないといえそうだ。彼らは、芸術に対して冷淡であるどころか、生物物理学に対してさえ冷淡であるかもしれぬ。画家が絵さえあれば他に何もいらないと見得を切るようなものだ。この人たちを通じて、「ある物」は存在するにちがいない。しかし、そんなところに共通点を見いだして満足することは、観念の操作にすぎないように見える。
科学を論じる人々の間には、寅彦の随筆を見て、あれが科学だと思われてはこまるという意見が少なくない。しかし分化現象に追いつめられた今日のせせこましさのなかで、大正時代にはスケールが大きいとも思えなかった寅彦の随筆は、一服の清涼剤ともなり、頂門の一針ともなる。それはつまり、科学者や芸術家を、追いつめられたせせこましさから解放する役割りをもっているということだ。おそらくこの筆者の見解は、すべて古きものの再評価ということに原則をあたえることができるであろう。
何という題であったか忘れたが、寅彦の随筆の一つのなかに、何かをつまらないというのは、〝つまること〟を知らない人のことばだという意味のことが書いてあった。寅彦が、科学にも芸術にも〝つまる〟ことを知っていたことはいうまでもあるまい。マルクスは自分の娘たちにあたえた手紙のなかで、興味を広くもつことが幸福への道であることを説いている。むろんその真意は、ゴルフもやれ、マージャンもやれ、ボウリングもやれ、競輪もやれというような、遊びの性格の強い興味をさすものではなかったであろう。
つまらないと思っていたものがつまらなくなり、興味の幅をひろげることができたとき、その画家の作品が向上するものかどうか筆者は知らない。しかし、絵というものが筆先と視覚とだけで向上するものだとするならば、山下清画伯には申しわけないが、画家には頭がいらぬということになる。
筆者の毒舌が気にさわる読者諸君には、寅彦の随筆をおすすめしたい。
(教育美術 一九六七年六月)
5 科学技術教育の面での〝人つくり〟
「人つくり」にまちがいをおこさないためには
人つくりということばが、このごろ耳あたらしくひびくようになりました。いったい、このことばは、どんなふうに受けとっていいものなのでしょうか。
人の親にとって、また人の師にとって、子どもの教育というものは、たえず頭にひっかかっています。この教育というものの本質が人つくりであることを疑う人は、どこにもいないだろうと思います。
では、人つくりとは教育のことであって、それを新鮮なことばにいいかえるために、池田首相がひねりだしたことばにすぎないと考えるべきなのでしょうか。もしも、それでいいというのなら、わたしたちは何も、急に身がまえをしたり、首をかしげたりする必要はないことになります。
じつをいうと、つい先だってまで、わたしはそう思っていました。そして、マス・コミが〈人つくり〉という題目で鳴りものいりのさわぎをするのを、にがにがしく思っていました。何だ、いまさら教育のことを事あたらしくいうまでもないではないか……と。
ところが、ごく最近になって、人つくりというのは、耳あたらしさをねらうというような、そんな底の浅いものではないことに気づきました。
池田首相は、日本経済の発展のために必要な人材をつくろうという独自の見解から、人つくりということばをだしてきたのでした。したがってそこには、学校教育の再検討という要素もふくまれていたのです。
池田内閣に反対の立場をとる人たちは、人つくりとは自民党につごうのいい人をつくるのが目的にちがいないときめつけました。しかし池田首相は、そんなことは絶対にないと、相手にしませんでした。
むろん、どんな為政者でも、自分たちにとってつごうの悪い人間の養成を考えるようなことがあるはずはありません。だから池田首相の人つくりが、自民党にとってつごうのいいものであるのは当然です。
わたしたちとすれば、その人つくりが、自民党につごうのいいものであると同時に、日本人のすべてにつごうのいいものであることを願わなければなりません。いやむしろ、そうであるにちがいないと多くの人は考えて、この人つくりを受けているかのように見えます。
この考え方でおしていって、まちがいをおこさないためには、この人つくりのよびかけに対して、わたしたちが、それぞれ心から納得する線で、目の前にいる子どもたちを相手とする人つくりを考えていけばいいのだと思います。それはつまり、国民のひとりひとりが人つくりに参加すれば、まちがいはおきないということです。
自然人と社会人
人つくり、いや人間つくりという課題について、だれよりも先に、だれよりもじっくり考えた人はジャン=ジャック=ルソーだと思います。この人の著書『告白録』のなかに書かれている夫人テレーズが、ここでは参考になると思います。
テレーズは徹底的なお人よしであったばかりか、夫がいくらよく教えても、字はおぼえないし、時計の見方がのみこめないような人でした。それでいて、心があたたかくて、かしこく、夫が窮地におちいると、すばらしい知恵をあらわすような人でした。
テレーズのような人は、どんな時代にも、どこの国にもいることでしょう。たぶんその存在は、あたりを照らす光となることでしょう。しかし、もしテレーズが会社勤めでもしたとなったら、まわりからばかにされるのが落ちで、いずれは首というしまつになることでしょう。
テレーズのせいかどうか、ルソーは人間について二つの面を見なければならないと主張しました。それは〈自然人〉と〈社会人〉との二つです。ルソーの立場からすれば、テレーズのような人は、自然人としては高く、社会人としては低く評価されることになると思います。
ここまで読まれた皆さんは、人つくりが自然人をつくることをさすのか、社会人をつくることをさすのかという問題にぶつかることと想像します。
池田首相が経済政策に重点をおく人であることを考えれば、そのとなえる人つくりが、日本経済に寄与するような人をつくることを意味し、社会人づくりを意味することは明らかであるように思います。手ばなしでいれば、自然人づくりのほうは、おるすになってしまうことでしょう。
わたしたちが自分の子どもに対する場合も、たいていは、この池田式人つくりの方針をたてるものです。それは、学校でいい点をとってくることを望み、いい学校へ入学させることを望むところに明らかにあらわれていて、否定の余地がありません。
はっきりいえば、池田首相以下日本人の大多数は、学校の成績のいい、社会で役にたつ人をつくろうとはしても、心の偉大な人物をつくろうなどとは思ってみたこともないといって、過言ではないのです。
池田首相の「人つくり」
ルソーは、学校教育が社会人をつくるものであって自然人をつくるものでないことをなげきました。そのなげきは、二〇〇年をへだてた今日、ひときわ大きくなったと考えられるような気がします。
資本主義社会では、人間の価値としてみとめられるものは商品価値でしかないと、マルクス主義者はいいます。
人間をたんなる商品としてみるのが資本主義社会特有の現象なのかどうか、わたしはよく知りませんが、とにかく現在の日本の社会に、その傾向のあることは確かだといえます。
それからまた池田首相の人つくりが、商品価値のある人間をつくることを意味していることも確かのようです。うそだと思う人は、新聞、雑誌の人つくりに関する記事をとくとお読みになれば、わたしの見方に同意してくださるにちがいないと信じます。
結局、いまいわれている人つくりとは、全人的な教育とはちがったものだったのです。よい子をそだてることを意味してはいなかったのです。それはつまり、進学指導に狂奔する先生や、学校の成績に一喜一憂する父兄の頭にある、あのきわめて現実的な人つくりと同じものだったのです。
子どもを純然たる商品にしたてないように
こんなふうに考えると、人つくりについては大問題のあることがわかります。おかあさんとしては、何はともあれ、社会にでて役にたたない子どもをしたてて、のほほんとしているわけにはいきません。そこで、いやおうなしの人つくりの波にまきこまれてしまうのです。
そこで、科学技術教育から見た人つくりに、おかあさんはどのように対処したらいいのでしょうか。
どんな点で教育を論じる場合も同じですが、家でおかあさんがなすべきことは、学校で手のとどきかねるところに指導的な役割りをとるということです。したがって科学技術教育となれば、学校では、その面のどのあたりに不足があるかを発見することが第一です。
そんなことはむりだというおかあさんもいると思いますが、どうしてもできないということなら、何をかいわんやです。人つくりのすべてを学校におまかせする以外に、一般的な方法がありようはずはないのです。
おかあさんはまず、科学技術教育の何であるかについて考えなければなりません。それには、本誌のような雑誌を読むのもよし、たとえばわたしの書いた『現代科学教育論』(本書シリーズ二五巻)のような書物を読むのもよし、学校の授業を参観するのもよしで道はいくらもあると思います。とにかく、おかあさんが科学技術教育にそっぽをむいたままで、子どもさんだけに欲ばった期待をかけるのは、株をもたないのに株の値上がりを待っているようなもので、話になりません。
子どもさんが小さければ、母と子とがいっしょに勉強するという手もあります。それはつまり、理科の本をいっしょに読むとか、実験や観察を子どもさんにさせて、そばについているとかいうことです。技術の土台は科学ですから、科学技術とことばがつながったものに対しての勉強の土台は科学、つまり理科でいいわけです。
その理科が、正しいものを正しいとし、筋道をとおしてものごとを考えることを特徴とする、不偏不党の教科であることは、この面での人つくりにとって、この上なく明かるいものを感じさせるではありませんか。
とにかく、これからの世界が、日一日と科学技術への要求を大きくすることは明らかなのです。ですから、人つくりのかけ声のあるなしによらず、科学技術教育は振興すべきものであったのです。
それにしても、忘れてならないのは、人つくりからみた自然人と社会人のことです。ルソーと同じように、わたしたちもまた、子どもを純然たる商品にしたてないように気をつけたいという願いにもえたいのです。そして社会がその価値をみとめないにしても、わたしたちは、子どもに対して自然人としての人つくりのことも考えていこうではありませんか。
(『母と子』 一九六三年四月)
6 人間、売りものになる部分とならない部分と
人間には、売りものになる部分と、売りものにならない部分とがあるようだ。
自動車の運転手にとって、売りものになる部分は、自動車運転の能力であり、それ以外の部分は売りものにならないとみてよいだろう。歌手にとって、売りものになる部分は、歌をうたっているときの人間であり、売りものにならない部分は、歌わないときの人間である。
どんな人間にとっても、売りものになる部分が実際に売りものになるのは、その部分に対する社会の評価があってのことである。その評価は、自動車の運転手ならば、免許証にあらわれ、雇用主によってみとめられる。歌手ならばギャラや弟子によっておこなわれる。
いずれにしても、人間の売りものにならない部分は、本来その人のものである。
売りものにならない部分を評価するのは、その人自身である。ところが、ある人間の売りものにならない部分は、その人間の人格として他人の目にうつる。その意味で、売りものにならない部分だって、他人の評価の対象にならないとはいいきれない。しかし、ここでいう他人とは社会のことではない。したがって、売りものにならない部分によって経済生活をいとなむことは、一般には不可能である。
職業をもつ人は、売りものになる部分を社会に売って経済生活をいとなむ。このとき、売りものになる部分の活動が、売りものにならない部分を培養するような生活と、そうでない生活とがある。培養するような生活は、その人間をゆたかにし、その人格を高める。売りものになる部分の活動に命のすべてをささげる生活のなかでは、売りものにならない部分がそだつことはなく、細る一方になってしまう。
この人間は、つまるところ一個のロボットにすぎない。機械のロボットには人間の主人公がいるけれど、人間ロボットの主人公はその人間自身である。ところがかなしいことに、その人間は社会の代弁者にすぎない。その人間の生けるしるしは、せいぜい、人間ロボットであることに対しての不平不満ぐらいのものでしかないだろう。
運転手とか、歌手とか、タイピストとか、出納係とか、技能や芸能を売りものになる部分とする人間では、売りものになる部分と売りものにならない部分とのけじめがはっきりしている。ところが、教師とか政治家とか、技能的なものをとくに売りものとしていない人間では、売りものになる部分と売りものにならない部分とのけじめがはっきりしない。教師諸君はこの点を頭においてその職業を認識する必要がある。教師という職業をたっといとする根拠はこのへんにあるからである。
学校教師にとって、売りものになる部分は、教科についての指導力だといえるだろう。そしてまた、売りものにならない部分は、校門のそとにでたときの人間だといえるだろう。教師としての活動が学校のなかだけにあると考える教師にとって、売りものになる部分と売りものにならない部分とのけじめは明らかなようにみえる。ところが、道では児童生徒にであい、家では答案をしらべる。このような条件のもとに、学校をはなれたときの教師という人間の部分が、売りものにならない部分だとはいいきれない。売りものにならない部分がありそうでないのが、教師という人間のすがたである。
退出の時刻がくればマージャンに急ぐ教師、児童生徒をわすれて行動する教師があったとすれば、その人間には明らかに売りものにならない部分があるといえる。しかも、その売りものにならない部分は、売りものになる部分の活動によって培養されているとは思えない。教師のサラリーマン化ということばがあるけれど、それはこのサラリーマン化した教師にぴったりすることばでしかない。
現実はどうあろうと、理想の教師というものは、教室での指導力が十分であるうえに、全人格が人の師表とあおがれるにたりる人物でなければならない。それは、どんな時代がきても変わることのない教師像だといってよいだろう。
理想の教師像をこのようにえがく理由として、ある人は、教師が尊敬の対象になる人格をそなえなければならないことを説くだろう。尊敬をかちえた人格は、教科指導の結果をこえた何ものかを児童生徒にあたえるにちがいない。そのあいまいな何ものかは、児童生徒も父兄もとくに期待をかけていることではないかもしれない。しかし、この現象が存在することを否定することのできる人はいないだろう。学校教師という職業の特殊性はまさにこの点にある。だからこそ、教師のサラリーマン化が、批判のことばであり、なげきのことばとなるのである。
人間に、売りものになる部分と、売りものにならない部分があるという考えかたによって、この問題に新しい光をあてることができたわけである。小・中学校の義務教育が、もっぱら、人間の売りものにならない部分の形成に指向されているとみることができるからである。小学校の理科も中学校の理科も、けっして、理科を売りものにする科学者という人間をつくることを直接の目的としてはいない。このことは、国語でも音楽でも、すべての教科について、ためらうことなくいえる。ふつうの高等学校の教科指導についても、むろんこれと同じことがいえる。
このように考えるとき、学校教師という人間の、売りものにならない部分が問題として浮きあがってくる。児童生徒の、売りものにならない部分を育成する立場におかれている人間では、売りものになる部分よりも、売りものにならない部分のほうが重いからである。
売りものにならない部分の意義をみとめないで、それの培養につとめない人間ロボットは、その売りものになる部分が、どんなに高く評価されようと、全人間としての価値は低い。そのことは、学校教師だけでなく、すべての人間についてもいえることである。しかし、売りものにならない部分をとくにたいせつにしなければならない職業が学校教師であることにまちがいはない。人間には、売りものになる部分と、売りものにならない部分とがある。そして、両方ともが社会人としての人間に要求される。普通教育は、人間の売りものにならない部分をつくることを目的としている。
小・中学校の教育が義務づけられているのは、人間の売りものにならない部分の重要性がみとめられているからのことである。人間の売りものにならない部分は、ほかの人間の売りものにならない部分によってしか対決されない。したがって、小学校から高等学校までの教師は、自己の売りものにならない部分をたいせつにしなければならないことになる。
道徳とは、人間の売りものにならない部分の活動についての規範ではないだろうか。売りものにならない自分を大きくふくらませ、腹の底から深い呼吸をしようではないか。
(大書 一九五九年三月)
7 人間の存在を考える
日本人は冷たい
私の教えたことのある女性が夫君のつごうで最近シドニーへ赴任した。その彼女のよこした手紙に、同胞に対する批判がある。あちらの人の心温まる接し方と比較して、日本人の外人に対する接し方はあまりにも冷たいというのだ。彼女にいわせれば、日本にきている外人は気の毒にみえる。白人の留学生はともかく、東南アジアの諸国の留学生に対する日本人の仕打ちがしばしば問題になるが、それとこれとは同質のものではあるまいか。
教え子が居を構えるにあたって、隣人は親身になって世話をやいてくれる。彼等はどんなお役にもたちたいと、旧知に対するかのようだ。そのうちのひとりB夫人は、ちょうど、ある脳生理学の本で夢について勉強している最中で、その話題をひっさげて訪ねてくる。知的興味も見上げたものだ。
ところで、教え子のほうは英語はゼロに近い。そのゼロを知りつつ隣人は人間として肉薄してくる。教え子は辞書と首っ引きでしどろもどろだ。彼等は知的交流が人間と人間との触れあいを深める有力な手段たりうることを心待ちしているのだろう。
内容の違うことば
人間関係というもっともらしいことばがある。われわれはいかにも人間と人間との関係のような心づもりで、これを日常的に口にする。この同じ〝人間関係〟ということばの内容が、よその国と日本とではちがっているのではないかという気がしてならぬ。相手を生身の人間としてみないかぎり、真の人間関係などありようがない。われわれ日本人には、相手を人間としてみない傾向があるのではなかろうか。
小野田元少尉は肉親の悲痛なよびかけを耳にし、それと知りながらも密林を出なかった。極め手は直属上官の命令以外になかったのである。ここには、肉親との人間関係の弱体があり、軍隊的秩序を最優先させる信条があった。谷口元少佐との人間関係によるのではなく、直属上官の命令解除によって、彼の行動はきまったのだ。その人間関係は三〇年になんなんとする密林生活のなかで忘れられたのではなく、もともと虚構であったということだろう。
これは何も小野田さんだけのことではない。タクシーに乗ったとしよう。運転手はまちがいなく人間なのだが、われわれはそれを運転ロボットとしてみるばかりで、人間としてみることをしないのではあるまいか。むろん、運転手のほうも客を客とみるだけで、人間としてみはしない。運転手は客の指示する地点まで車をもっていけばコトたり、客は料金を払えばコトたりる。そこに、人間としての係わりは何ひとつない。人間関係はにおいもなかったのだ。
キーセン的な見方
われわれは、人間として生きる瞬間をどこかに見い出しているのだろうか。男性が女性に対するとき、ただそれを性の対象とみるのみ、人間として見ないとすれば、それは何たる非人間的関係であろうか。キーセン観光的人間関係はわが国では日常茶飯であっても、韓国では指弾をこうむらざるをえないのだ。福祉政策にせよ公害処理にせよ、相手を人間として見るのではなく格好をつけて片付けようとする。一方、アルコールには人間関係を深める効果があると思ったりもする。この虚構の人間関係に埋没して人間として生きる実体を欠くとすると、これは重大な問題だ。
虚構といって悪ければ、この表面的、形式的な人間関係においては外見が重みをもってくる。内容よりは格好ということで、すべては対他存在の方向に流れてゆく。男性が身なりに異常な気をくばるのも、議員が冠婚葬祭に力こぶをいれるのも、虚構の人間関係をつくろう手段ではなかったのか。真の人間関係のないところでは、連合赤軍のリンチの温床も、大学の内ゲバの温床も、用意されているのだ。
生身でとらえよう
現実のかくの如き不幸がどこからきたのかについて、意見は多様であるにちがいないが、いずれにせよ、それは深く虚栄に根ざしているはずだ。私はここで、幕藩体制の思想的支柱となった朱子学を思いだす。ここには二人の人間が相対するとき、一方が上、一方が下という関係なしには秩序が保たれないという発想がある。人間を人間としてみるよりまえに、まず、目上の存在、目下の存在とみるこの封建的論理が旧軍にあったことは、小野田さんの再現したところであるが、それがたまたま過去の遺物としてルバング島の密林に温存されたとみてはなるまい。この封建的秩序観は、今日の日本の社会に抜きがたく定着しているのではあるまいか。
人間不在の〝人間関係〟は、そこに由来するのではあるまいか。教育勅語の復活も、封建的人間関係への回復以外のものではなく、生身の人間としてお互いをみる真の人間関係への志向に寄与するものとはなりえないだろう。
(東京タイムズ 一九七四年八月七日)
8 装置社会考
非人間的な大学、現代社会を象徴
ティーチングマシンに徹したいと望む教師がいるそうだ。機械装置のように正確な学習指導のできる教師になりたいというほどの意味だろう。教師がそこまで追いこまれたということか、それとも、それが現代の理想ということか、私は知らない。
いわゆるティーチングマシンは正真正銘の機械装置であって、生きた人間ではない。万一それに故障がおきれば、使用者は舌打ちすることもあろうし、バカヤローとののしることもあろう。ティーチングマシンに徹した教師ならば、そのとき感情を動かすようなことはないはずだ。
それでいいか、ということである。
大学ともなれば、教室にはいる教師をつかまえて、「てめえ何しにきた」とほざく学生がいる。これは、招かれざるティーチングマシンに向けた言葉と受け取るべきであろう。この場面において教師は講義装置以外のものとして見られてはいない。この大学生はたぶん、単位取得装置として位置づけられる存在だろう。あけすけにいえば、彼らから見た教師は、講義装置などという気取ったものではなく、単位放出装置あたりのものかもしれぬ。相互にここまで徹底しなければ、両者の歯車が自動的にかみあい、単位の授受がスムーズにはこぶことは期待しがたい。それだからこそ、大学の苦悩は深いのだ。
この非人間的な大学は、端的に現代社会を象徴している。教師も学生も、人間として相接するのではなく、装置として接しているということだ。この社会は人間社会という仮面をかぶる〝装置社会〟にほかならぬ。われわれの住む社会は、血のかよう人間の社会ではなく、すき間風の吹きぬける装置社会だったのだ。
装置社会は全体として一つの巨大装置となっている。わが国が外人の目に株式会社のように見えるというのも、日本の社会の装置化がかなり進んでいるからこそだ。
巨大装置のなかの個々人は部品装置であって、これが相互に歯車でつながっている。そこにあるのは装置関係であって人間関係ではない。部分装置は必要に応じて直ちに交換できなければならぬ関係上、個性のようなものは無用の長物となる。
個々の装置に故障がなく、歯車がスムーズにかみあえば、装置社会は万々歳だ。これを駆動するエネルギーが確保され、ここに投入される原材料が確保される限りにおいてであるが。そしてこの条件は装置社会の運命を暗示しているのであるが。
装置社会はすべての成員を装置化せずにはおかない。医師は医療技術者である半面収入装置となって、薬の山をおしつけ、必要もないのにレントゲン写真をとろうとする。若者は大学に進学するころには、単位取得装置となり暴力装置となる。
装置人間は相手を人間として見る目をもたない。老病者、心身障害者などを人間としては見ていないとなれば、申しわけ程度の対策をとっても、それを福祉政策の充実と公言することができる。乗物に設けられた老人や心身障害者のための優先席に中学生がふんぞりかえって、該当者が目の前にいてもいっこうに動じないのもふしぎはない。装置社会においては、非装置的であることが非難されても、非人間的であることが非難されるいわれはないのだ。
装置社会における人間存在の意義は、装置になること、優秀かつ強力な装置になることにつきる。価値ある人間とは価値ある装置にほかならぬ。教育ママは、わが子を装置社会のなるべく上等な位置にはめこもうと狂奔する。そこで、進学装置化された学校がねらわれるのだ。人間味のかけらをのこす母親は、装置関係と人間関係との板ばさみになることだろう。選挙ともなれば、テレビタレントは起立装置の有力候補として政党から目をつけられる。
人間が装置化されても人間関係に登場する言葉は形骸化し温存される。付き合いが装置のものであることを忘れて人間付き合いのつもりになったりすると失敗する。装置付き合いは表面だけでよいのだ。尊敬も礼儀も形式にすぎぬ。ここに内容がこめたければ金を包めばたりる。
人間社会の徳目はその事業装置社会の徳目となった。そこで徳育が論じられる場合、同じ徳目があげられる。装置社会の運営のためには〝なれあい〟が美徳のはずなのだが、このような形式よりも内容の重い徳目は表面にださないことになっている。装置社会は、いわば恥部をもっているのだ。
民主主義の危機招く
近頃、教師聖職論というのがはやっている。しかし、〝聖職〟が装置の名称として適切でない点からすれば、教師労働装置論のほうが妥当だろう。装置社会における教師は、労働装置として初めて定位されるのではあるまいか。講義装置といい単位放出装置というのも、労働装置以外のものではない。
教育機関をも巻きこむこの寒ざむとした装置社会をもたらしたものは何か。たぶんそれは社会の管理化であろう。管理化が進むにつれて装置化が進み、装置化が進むにつれて管理化が進む。本来ならば装置化拒否を本領とすべき学校に対し、新大学法をおしつけ教頭職を管理装置に組みこもうとするなどは、まさにこの路線上の現象というべきだ。
装置社会に多少なりとも問題があるとき、これを批判する勢力がどこかになければ、その社会は健全なものとはいいがたい。社会発展の契機となるその勢力の萠芽を培養しうる機関は学校をおいてほかにないことを思うとき、学校を装置社会に埋没させるのは犯罪的行為というべきではあるまいか。むろんこの論理の前提には、学校なるものが体制維持の手段ではなく、人類社会発展の手段であるという命題がおかれる。すべての人が装置社会の人間になりきったとき、社会の破滅が目前にせまるまで危機の存在に気づかぬ社会ができあがるだろう。教育について論じる場合には、先取りという使命を考えのうちに入れなければならないのだ。
装置社会から十分な利益をうける人間が、この非人間的社会の維持存続を願う気持ちはよくわかる。そして、そういう人間が絶対の権力をにぎって管理運営装置となっていることは事実だ。この装置が、装置社会への造反を憎み弾圧するのは当然だろう。しかしここには、装置社会を理想社会と見誤る錯覚があったのではないか。装置社会を歴史の必然と見る偏向的論理があったのではないか。
装置社会が強力になると、この錯覚が板にのってくる。そして、人類の英知が発見した〝自由〟〝民主主義〟などを装置社会の属性のごとく錯覚する。自由社会を守る、民主主義を守るなどという言葉が、装置社会を守るという言葉と同義に使われるのはそのあらわれにほかならぬ。装置社会のなかでは、自由、民主主義などの高尚な概念の探究は、実質上は無用となる。
民主主義は左右のどちらからも支持される近代の旗だ。装置社会には一本化した管理体制があるのであって、その部品装置である個々人が管理運営装置と対等だなどといいだすことは秩序破壊の意味をもってくる。そこで例えば、企業の秘密をばらすような行為、いや、装置社会の成員であることを忘れた行為一般が刑事罰の対象にされるのだ。結論として、装置社会の安泰を保障するものは徹底した保守主義でなければならぬことがわかる。保守主義に対する批判は、装置社会に対する批判と同じ意味になるのだ。
ソビエト社会を見れば、装置社会はともかく、管理社会が資本主義体制の独占でないことがわかる。この社会主義国の官僚が管理者として強権をにぎっている事実は周知のとおりだ。ただそれが、人間なのか装置なのかがここでの問題であるが、それについて私は判断の資料をもちあわせていない。
一方、わが国の管理社会は、体制の安定のための、そしてまた能率的生産のための必然からきていよう。この仮定が正しければ、装置社会否定のためには、体制へのゆさぶりや生産第一主義へのゆさぶりが必要ということになる。この種の行動が人間的苦悩を招くのを恐れるなら、装置社会に居直らざるをえない。装置社会への造反を企てる人物は、異分子排除装置からの強圧を免かれないだろう。彼が初志を貫徹しようとすれば、装置社会からほうりだされることによって一個の〝人間〟に回帰する結果となる。ヒッピーはその一つの形態である。
装置社会は人間社会とは別物である。そしてわれわれはいま装置社会に住んでいる。これが人間本来の面目だとは、誰しも思わないだろう。
幸福という言葉をわれわれは忘れていないが、それは人間社会のものであって装置社会のものではない。われわれは、幸福のために、人間の復権のために、何らかの方法で装置社会に挑戦すべきではないのか。そのためにはわれわれの目につく不快な現象の一つ一つが、装置社会の所産であるかどうかを点検してみることが必要だ。それによって恐らく、ここに提唱する装置社会の認識が深まり、同意をいただくことになるだろう。
(東京タイムズ 一九七四年七月十日)
9 かもめに心はあるか
意識と無意識の違い
心とよばれる捕捉しがたいものがある。この変幻自在なものを対象として、心とは何ぞやを問うのは至難のわざたらざるをえまい。いやむしろ、このような問題をたてること自体が、批判を招くだろう。そうかといって、〝心〟を聖域にとじこめ、人間の営為のすべてを心のなせるわざとして怪しまないのも、あまりに神秘主義にすぎる。〝心〟のなかに一歩でもふみこんでみることはできない相談であろうか。
犬と人とのあいだに通じあう心を想定するケースはまれでない。そこには動物に心ありという設定がある。それがはたして妥当であるか、どうか疑問たらざるをえない。それをつきつめれば、心とは何ぞや、を考えないわけにはいかなくなる。規定いかんによって、〝心〟は下等動物のものであることにもなりかねないだろう。われわれ人間にとって、これは小さな問題ではない。
〝心〟の規定を企図するとき、それが文学の論理で達成される可能性はゼロに近い。結局、そこでは科学の論理のみが有効性を発揮する。文学とちがって、科学は自己主張を美徳としない学だ。
科学者にいわせれば、心は全身にあったり心臓にあったりはしない。全身や心臓は、心を反映するものではあっても、心のありかではない。心のありかは大脳をおいてほかにはないのである。
大脳の営為、すなわち大脳過程は、反射過程と非反射過程とに大別される。反射過程といえば、それは無条件反射と条件反射とを総括したものとなる。熱い物体にふれた手が瞬間的にひっこむ過程は無条件反射に属し、うなぎのにおいをかいで唾(だ)液のでる過程は条件反射に属する。
反射的大脳過程の特徴は、無意識のうちに終始する点にある。心は大脳過程であるとはいえ、この無意識なものを除外したいと、私は考える。というのは、例えば、本能一色に塗りつぶされたアメーバの行動を、心のなせるわざと見るべきでないという観点をとりたいからである。本能は無条件反射の別名であるという理由によって、これを心の領域の出来事からはずそうというわけだ。
この論理でいけば、昆虫はむろんのこと、恐らく下等脊椎動物にも心はないことになるだろう。
反射的大脳過程は文字通り反射であって定型的である。刺激―反応系の型がそれぞれきまっている。そういう定型的な過程を〝心〟の領域から省こうというのが、ここでの狙いである。裏返せば、ああでもないこうでもないと迷う余地をもつ大脳過程、すなわち非反射的大脳過程に対して、ことさらに〝心〟の名を与えたいのだ。
昆虫学者はミツバチをつかまえて、それにああでもないこうでもないと迷わせる実験を計画するだろう。しかしそれは、昆虫をたぶらかす計画の結果であって、その行動の定型性を否定するものではない。目的は、昆虫の〝心〟をためすことにあるのではなく、反射の追求にあったのである。
では、犬に心はあるのだろうか。
犬が人を見てしっぽをふったとしよう。その人が何もしないのに、すなわち、何ら刺激を変更したわけでもないのに、しっぽをふるのをやめたとする。ここでは犬の行動の定型性が否定されたことになる。それならそこには心があったと見てよいだろう。ここには選択における迷いがあるからだ。そこには無意識の過程のかわりに意識の過程があったと見なければなるまい。
かねがね私は、人間の反射的な営為を〝自己運動〟とよんできた。本稿の規定によれば、自己運動は心のなせるわざではないことになる。一方われわれは、本能による行動のなかに意識がもちこまれることを知っている。人間の場合、その営為のすみずみにまで〝心〟が浸透しているといえよう。非反射的大脳過程、すなわち心は、反射的大脳過程、すなわち本能的なものの対立物として存在し、その矛盾から人間の営為が生まれると考えたらよいのではあるまいか。
かもめのジョナサンに心を見ることができるかどうかは、ここで初めて、雲をつかむ問題ではなくなった。とつおいつ思案の場面のあるなしが判定のポイントになるだろう。
かもめを鏡に、といってはジョナサンに悪いが、人間の場合、その行動に定型性の傾向のある人は心が貧しいということになるのではあるまいか。そういう人には〝頑固〟という評価がくだされることになっていることを考えると、頑固と心のまずしさとは、案外同じことの両面ではないかという気がしてくる。
(東京タイムズ 一九七四年十二月十八日)
10 ノーベル賞雑感
毎年一二月一〇日、アルフレッド=ノーベルの命日がめぐってくると、世紀の式典がストックホルムで催される。いうまでもなくそれは、二〇世紀第一年にはじまったノーベル賞授賞式だ。
バクー油田の開発振りなどが気にさわることもあって、ソビエトではアルフレッド=ノーベルを悪玉よばわりしているが、彼は科学者技術者にありがちな甘い理想主義者であった。強力な爆薬を発明すればその恐怖のまえに好戦思想はひっこむだろうというような考えの持ち主であった。
ノーベル賞授賞者は彼の遺言にしたがって選定されるわけだが、その思想は文学賞に対する注文に明白な形であらわれている。そこには、「文学において理想を追求する方向をもつ、最もすぐれた著作をした者に……」と記されている。この趣旨からすれば、川端文学は理想主義文学でなければならないことになる。あえて川端文学を授賞の対象に推したストックホルムの文学アカデミーは理想主義なるものをはきちがえてはこまると亡き理想主義者は嘆くだろう。かつて下馬評の高かった三島由紀夫の文学も理想主義とはいいがたい。ソルジェニーツィンの作品がソビエトイデオロギーに離反するものではあっても、ノーベルの注文にはまった文学であることを思うとき、何か奥歯に物のはさまる思いを禁じえなかった。
アルフレッド=ノーベルが文学に賞を与えようとしたのは、若いとき文学青年であったことからきた。小説に見るべきものはないが、詩には全力を傾けたものがある。質はともかくそれは理想主義文学であったのだ。その資質が、恋人の死に会って一生を独身で暮らし、全財産を賞金に投ずるという一本気に通じたと見ることができるだろう。
彼が理想主義者であることはむしろ必然であった。
ノーベルはパリの新聞に秘書の募集広告をのせたことがある。このとき応募しながら結婚をひかえて採用を辞退した女性がいる。このズットネル夫人は後年『武器をおけ』という小説を発表して大きな反響をよんだ。それを知って祝いの手紙を送ったことからノーベルは平和思想を吹きこまれることになる。
一八九二年八月、ベルンに世界平和会議が催されたとき、ズットネル夫人はその有力なメンバーであった。会議後、すでに晩年を迎えたノーベルは、久しぶりに彼女と対面して平和運動について協力をちかいあうことになる。そして、トルコの外交官アリスタルキに白羽の矢をたて、平和運動に大半のエネルギーをさくことになった。ノーベルはこの目的達成の手段として、スイスの新聞を買収する計画をたてている。
結局彼は、平和運動は性急に成果をもとめるべきものではなく、一歩一歩の積み重ねを必要とすることをさとり、賞金の構想にたどりついたのであった。
遺言書にはこう書いてある。「国民のあいだの親善のために、また軍備の廃止や縮小のために、また平和会議の成立や普及のために、最も多く、または最もよく活動した者に与えること」。そしてその平和賞を受ける者は、「ノルウェー国会の選ぶ五名の委員によって推薦されるべきこと」とある。
ノーベルはアリスタルキに引きずりまわされて金と時間とを浪費し、実りのないことを嘆かなければならなかった。五人の議員諸公も、誠実さのないトルコ人にならって、キッシンジャー、佐藤栄作と引き続きタカ派平和主義者(?)を推薦したりなどして、亡き人を嘆かせていることであろう。佐藤氏の著書がゴーストライターの手になることを知ったら、かつての文学青年はどんなことを思うだろうか。
(東京タイムズ 一九七四年十二月十日)
11 難病の患者は棄民だ
絶対君主制社会ならいざ知らず、神ででもないかぎり、絶対者の名に値いする存在はないはずである。だがしかし、現代の日本には絶対者がいる。他でもない、それは医師だ。患者に向かうとき彼等は、タバコをやめろといい、裸になれといい、腹を切るという。死の宣告もする。強引に心臓を移植して人を殺しても罪に問われることがない。これを絶対者といわずして何ぞやといいたい。天下に号令する人物も、現代の絶対者の前にでては、ひとたまりもなく屠所の羊と化するだろう。しかもなお資本主義体制下において、この絶対者の行為は営利行為の側面をもたざるをえないのである。ここにはまことに残酷な状況があるというべきだろう。
絶対者が真に絶対者であるために、少なくとも彼は全知全能でなければなるまい。現代の絶対者が全知全能をよそおう場面がしばしば見られるのは当然である。某大学付属病院の資料によれば、入院後の診断の結果が外来当時のそれと一致するケースは、内科の場合二〇%にすぎないというような事実が一方にある。これが現代の絶対者の全知全能の内容の実体だといったら過言だろうか。
楡林達夫氏によれば、医師が絶対者として君臨する舞台をしつらえたのは天皇制であって、これは日本独特のものだという。大病院の院長回診が〝大名行列〟とよばれる体裁をとるのもわが国にかぎられた風景なのであろう。
個人をはなれて現代に絶対者を求めようとすれば国家権力に思いあたる。国家権力が医師をだきこもうとかかるのはむしろ当然かもしれぬ。公害企業が医師に触手をのばすのもこの路線上の出来事にちがいあるまい。水俣病のような顕著な公害事件は、現代の絶対者の生態を浮き彫りにして見せてくれる。
昭和三〇年代の初め、水俣病が問題になるや、地元熊本大学医学部はこれに飛びついた。研究の対象としてそこには希少価値があったからだ。悲惨な患者を種に、数十名の医師は学位論文をまとめることができた。そして、現代の絶対者としてのパスポート医学博士の称号を手にすると、彼等のほとんど全員は水俣病を忘れてしまったのだ。
公害病の場合、患者の運命はいわば認定の有無にかかっている。そして認定の権限は実質上、絶対者の手中にある。その衝にあたる専門医は、急性有機水銀中毒に特有なハンター・ラッセル症候群という物差しによって認定の責務をはたそうとする。そこで、慢性中毒患者はとかく認定もれとなり、重度心身障害になやむ胎児性水俣病は完全にはみだす結果となった。患者や非医師の申し立ては絶対者の前に一片の塵の重みももちえないのだ。
認定、未認定を問わず、患者は水俣病と共に見捨てられた。重金属排出効果のある薬剤は、初期の研究段階でこそ使われたが、現在はこそくな対症療法あるのみ、医師の指示のないままに患者は依然として魚を多食しつつ症状の悪化を観念している。この不快な情況は光化学スモッグ患者の場合と違わない。
絶対者として居直る習性をもたぬ尊敬すべき医師の存在をわれわれは知っている。その人たちの内部告発による洗脳のないかぎり、大衆と医師との係りあいは貧しからざるをえず、難病の患者は医療上の棄民とならざるをえないのだ。
鉄壁の構えを誇る絶対者の王国に、内部告発の実現を思うのは、木によって魚を求めるのたぐいの愚であるかもしれぬ。だとすれば棄民は棄民として生を終えることを観念せざるをえないだろう。基本的人権が憲法によって保障されているのにである。
(東京タイムズ 一九七三年十二月十一日)
12 アニマル王国脱皮を
東南アジア諸国における学生を中心とする現地人の、わが国のエコノミック・アニマルに対する告発を、われわれは厳粛に受けとめなければならない。田中首相の訪問の際に起こったジャカルタ事件に対して、外務省当局は相互理解を深めてこのような不祥な出来事を根絶したいとの見解を述べたが、そのような無反省な考え方は首相を頂点とする高姿勢に通じるものとして、諸外国から不評を蒙るにちがいない。日本人のエコノミック・アニマル性の根の深さを自己批判することなくしては、われわれの国際社会に生きる道はないのである。そしてその根源は日本の生活意識にあると私は信じている。
豊かな生活という言葉がある。ここに想起されるものは衣食住の高水準以外の何物でもない。一方、西欧の〝生活〟の概念はこれより広範なものであって、生命や人生をも包括する。そこでの豊かな生活は、衣食住の高水準よりむしろ、充実した人生、活力に満ちた生命に重きがおかれる。そのことは、英語のライフが、生活、生命、人生、一生などの日本語群と対応する事実を思えば納得されるはずだ。
衣食住の高水準のためには十分なモノがなければならず、それをあがなうためにはカネがなければならない。そこで、生活とカネとの不可分な結び付きが成立し、消費は美徳という資本の論理が見事に定着する。豊かな生活を手にいれるためにはエコノミック・アニマルならざるをえず、経済成長を指向せざるをえないのだ。これが日本特有の偏向であることに思いを致さないかぎり、国際社会における日本の立場の改善はありえないのではなかろうか。日本人のエコノミック・アニマル性の原点が生活意識にあるからこそ、われわれにとって自己批判が容易でないことを、まず知る必要がある。われわれはいま〝生活〝の概念の変革を迫られているのだ。
わが国は昨年来紙不足になやんでいる。それは活字文化を危機に追い込みつつある。パルプ原木はのどから手がでるほどほしい。インドネシアで日本企業が、砂漠化を招くまでに密林を伐採しているのはそのせいかと思えば、あにはからんやその原木は外国に積み出されている。いわゆる祖国よりもカネが優先するのを見ている現地人が、日本人のエコノミック・アニマル性に注目するのは当然だろう。
エコノミック・アニマルの王国ではカネが絶対の価値をもつ。研究費を一文もださず、そのために頭脳が流出することなど問題ではない。頭脳の流出はカネの流出ではないから痛くも痒くもない。そんなものを損失とみる計算などありようがないのだ。
この王国ではカネをにぎる者が天下をにぎる。権力の維持はカネづるの維持によってはかられる。経済援助も経済協力もカネヅルのパイプの培養があってはじめて意義をもってくる。ジャカルタの暴動がスハルト政権批判の側面をもっていた事実は、エコノミック・アニマルに毒された連中をも告発する空気がみなぎっていることを物語るものだ。
われわれ日本人がエコノミック・アニマルの体質から脱皮することは、東南アジアのみならず全世界の民衆の要望であろう。これに応える道は恐らく教育あるのみ。原点にまでさかのぼる労を省いてジャカルタ事件の根絶はありえないと覚悟すべきではあるまいか。
(東京タイムズ 一九七四年二月十日)
13 人間月へゆく
悪魔との結託
月を美の象徴とする心情は、文学の世界にはあるのだが、深く人間の奥底に根ざしたもののように思われる。ギリシアの哲学者たちは、宇宙の美の象徴として、太陽と月との円満無欠を提唱していた。月を《美》と切りはなされた自然物と見るのは科学者の視点であろう。しかし、その視点が確立されたのは、人間が土足でその月をふみにじるのよりはるかに古いことだった。そして、その先達は、あのガリレオ=ガリレイである。
ガリレオはじぶんで望遠鏡をつくると、それをベネチアに入港する船にむけ、中天にのぼる月にむけた。船はともかく、月のアバタ面は円満無欠であるべき天体にケチをつけたものとして、ベネチア市の要人たちを憤激させたものだ。結局、ガリレオは悪魔と結託した人間として非難された。
真実は強いものである。月のアバタ面は今や常識となり、月の《美》はその欠点を超越したところにその立場を確立したといえるだろう。しかし子どもたちは、今や月を《美》の象徴と見るよりも、旅行先と見るところまできている。月の美も、悪魔との結託も、現代の子どもの感覚では月よりも遠いのだ。ガリレオの望遠鏡を子どもがのぞいたかどうかは知る由もないが、もしそういうことがあったなら、子どもは単純にその事実に対して驚きを示したことであろう。その単純な感じ方は、王様の裸を見抜く子どものものでもあり、ガリレオのものでもあり、科学のものでもあるのだと私は思う。宇宙の美、悪魔との結託というような、いわば神秘的な発想は、子どものものでもなく、科学のものでもないからこそ、子どもも科学も、月を身近な自然物と考えはじめたということであろう。
人間が月面をふんだという事実は少なくとも科学技術史上、特筆大書されなくてはなるまい。それにしても、おしなべて技術というものは、目的設定について問われなくてはならない代物だ。月着陸についてもまた、それが問われなくてはならない。
月はもっとも近い天体であるという意味もあって、科学は昔からさまざまな問題をここにかかえていた。月は地球の分身であるかどうか。太平洋は月がとびだしたもとの穴であるかどうか、月のアバタは隕石によるのか噴火によるのかなど、知りたいことは山ほどあるのだ。この手がかりをつかむために、石をひろってきたり、地震計をすえつけてみたりしたわけであった。
アポロ計画
考えてみると、こんなことは科学の興味にすぎず、わかってみたところで現実に大した意義はないという見方もないではない。アメリカ黒人たちが主張するとおり、それよりだいじなことが棚にあげられていたのである。日本の国家予算一年分に匹敵するアポロ計画の遂行に、どんな目的があるのかは、つきとめられなければならないだろう。これこそが、子どもとちがう、大人でなければもつことのできない問題なのだ。
世界は、月世界一番乗りについて米ソの間に競争があったという印象をもっている。このような発想は、科学上の興味とは関係がないのだ。そこには国家の威信がかかっていよう。とすれば、アポロ計画の目的の一つはアメリカの国家的威信の高揚であったと考えなければならなくなる。アポロ計画の大成功のもたらしたものは、アメリカ合衆国の威信の誇示であり、NASA関連産業の利潤であったろう。この独占資本の利潤がまた、アポロ計画の目的の一つでなかったはずはないだろう。宇宙飛行士三名の犠牲があったとしても、この二大目的は完全に達成されたのだ。国家の威信と資本とのための巨額のドルが、アメリカ納税者のふところを痛めたことで各方面から文句のでたことは、理由のないことではないだろう。ジョンソン前大統領でさえ、アポロ計画に対しては消極的になりつつあったという。月着陸船が転覆しても、NASA関連産業がウケに入ることと、税金の消費とだけはつねに保証されていることを、大人は心得ていなくてはならないだろう。あのアポロ計画が、科学上の純粋な興味をみたすだけの目的で実行に移されると考えるのは、子どもの考え方であって、大人の考え方ではない。
コンピューターの勝負
米ソの宇宙計画における開きはコンピューターにあったといわれている。発進してから月のまわりを公転する軌道にのるまで、宇宙船のコースは地上のコンピューターまかせであった。途中で、機械船の切りはなし作業やドッキングなどがありはしたが、これも人間の操縦能力によったのではなく、コンピューターの指示によったのだ。月衛星船になった月着陸船の操縦もコンピューターの指示によったのであり、帰りのコースも地上のコンピューターの責任によって選択されたのだから、宇宙飛行士がじぶんの意志でやった行動といえば、月面を歩くこと、小石をひろうこと、国旗をたてること、地震計や反射鏡をすえつけることなどのほかには、食事、睡眠、排便、テレビカメラ操作ぐらいのものでしかなかった。
月旅行は人類の偉業にまちがいないとしても、それが人間をコンピューターに組みこむことによってなしとげられたことを思うとき、人間の主体性はどこへいったのかとさびしくなってくる。アポロ計画はコンピューターの能力のあかしであって、宇宙飛行をした人間の能力のあかしではなかったということだ。チンパンジーでも、月面上を歩いて石をひろうぐらいのことはできないとはいえないだろう。
人間がなにか非人間的なものの一部になってでなければ生きられない状態を象徴するのがアポロ計画であったといってもおかしくないような気さえしてくる。月旅行を手ばなしで讃美する子どもに対して、大人は大人らしく、考えの深いところを示そうではないか。この戒めは、月旅行だけではなく、いわゆる科学技術のすべての成果について適用されてよいだろう。
ガリレオの月についての観察は、当時の思想からすれば望遠鏡をつうじての悪魔との結託であった。月旅行が、コンピューターをつうじての悪魔との結託だとすれば、悪魔は今や最も非人間的な姿で登場したといわなければなるまい。
(読書指導のしおり 一九六九年 二一号)