ロサンゼルス生活45日目
ロサンゼルス生活45日目である。どうも体調が悪い。胃の辺りが変な感じがしている。昨日食べた豚肉がよくなかったのかもしれない。この日も終日自宅の一日であった。
この日は青空文庫で小説をよく読んだ。芥川龍之介・太宰治・高村光太郎などである。芥川や太宰については10代の頃によく読んだように記憶している。特に太宰については高校の頃にかなり読んだのではないだろうか。
太宰治という作家を好きだと言うと、そのことを批判する人が稀にいる。青臭いだの、若気の至りだの、若者にありがちなセンチメンタリズムだ、などといった、そういった類の批判であるように思われる。確かに作品の内容としてはそういった批判をされても仕方のないような事柄が書かれていることも多いかもしれない。また彼の人生それ自体を眺めてみてもそうかもしれない。
しかし私はそういった批判をする人は、実は本当には読めていないのではないかと思っている。物語や文章の表層をなぞっているだけなのかもしれないと。私が太宰を好きな理由のひとつは言語化の能力である。この作家は人が普遍的に心の奥で感じているようなことを、掬い上げて言葉に置き換えるのがとてもうまいと私は思っている。小説を読んでいると光る文章や言葉が時に出てくるのである。ああまた、と私は思う。太宰が私の心の奥にあるものを言葉に置き換えてくれた、ありがとうございます、と。
偉そうに書いてしまったが、あくまでも私の個人的な意見である。私は太宰の専門家でもなんでもない。作品だってすべて読んでいるわけでもない。正直、ファンと言っていいかどうかもあやしいような人間である。だが私は太宰についてそう考えている。そしてまた文学の奥深さというものを教えてもらった作家のうちの一人だと思っている。
高村光太郎については読んだことがなかった。昨日は『智恵子の半生』という作品を読んだ。有名な『智恵子抄』という作品は、前半が詩・後半が文章、という構成で成り立っているのだが、『智恵子の半生』は、その後半の部分のみを抜粋した作品である。
高村光太郎と智恵子の関係はとても有名である。高村光太郎も智恵子も共に美術家。美術が二人を結びつける。智恵子は生活の面でも芸術の面でも光太郎のことを支える。そして光太郎もまた智恵子のことをワンアンドオンリーな存在として大切にし続けた。
『智恵子の半生』は光太郎の視点から智恵子の人生について書かれた作品である。同じような趣旨の作品として、城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』がある。相手がいないことには成立し得なかった人生。その相手について語る作品。私はこういった類の作品に弱い。