流散 樺太引揚げの足跡
荒涼とした谷間に小さな集落。廃線になった鉄道の駅舎跡がランドマークになっていた。
戦後78年が経った昨年の夏、私は祖父が樺太から引き揚げた後に育った地である北海道陸別町小利別地区に足を運んだ。
寒々とした廃墟が軒を連ね、田畑もなく腰ほどの背丈の草が茂り、地区全体が草木に覆われていた。
1950年頃には1000人近くの住人が住んでいたとされる同地区。今は数軒の一戸建と数世帯が暮らす集合住宅を残すのみだ。
陸別と言えば日本で最も寒い町として有名だ。私は札幌出身だが同じ北海道でもこの最低気温マイナス30度になる土地は異世界だと確信する。
そんな異世界に突然無一文で放り出されたらどうだろう。
実際に第2次世界大戦後ソ連侵攻で樺太から引き揚げた人々の多くが、この地に身寄りのない無縁故者として移り住んだ歴史が存在する。
日露戦争から40年近く日本領だった樺太には、生活地盤を国内から完全に移した人が多かった。
そのために引き揚げ時に誰一人として国内に親類や縁者がいなかった人も少なくない。
国内にあてもなく頼る親類縁者のいない島民は「無縁故者」と呼ばれ、1945年8月20日のソ連軍の侵攻で引き揚げた際には函館や留萌、小樽といった道内沿岸都市に上陸している。
その後全国各地に散らばり、地方を中心に移住した。
1.引き揚げを知る人物
私の祖父もこの樺太引き揚げ無縁故者だ。
私が小学2年生の時に亡くなった祖父の母に当たるババ(曾祖母)が、戦前曾祖父と駆け落ちして新潟から樺太に移り住んだ。
曾祖父母の場合は親類に見限られ国内には頼るべき親戚がいなかったという。
1945年の終戦でソ連軍が樺太に侵攻した。ババは当時1歳だった祖父と6歳の姉を連れ、住んでいた樺太真岡から引揚船に揺られ留萌へと海路引き揚げた。それから陸路汽車に乗って北海道陸別町に移り住んだ。
ここまでが祖父から聞かされてきた私の知る引き揚げの話。でも「自分のルーツはもしかすると歴史的に重要なのかもしれない」と思う。
引き揚げとその前後で一体何が起きていたのか気になり、いても立ってもいられなくなった。
まずは身近にその答えを知っている人がいるだろう。家族からもっと詳細に当時の様子を聞き出そうとした。
しかし、ババは生前決して戦争体験や自分の境遇について口にしなかった。肝心の祖父は引き揚げ当時1歳だった。
詳しい記憶はない、身の回りの人間のほとんどが、当時何が起きていたのか知らないのが実情だった。
答えを知る人物を探そうとした。しかし動き出した大学3年時には既に遅かった。
樺太引揚者によって結成され、これまで樺太に関連したシンポジウムなどを開催し続けてきた全国樺太連盟め既に解散していたのだ。
そんな折、祖母から耳寄りな情報を聞いた。
「お父さん(祖父)には姉がいるよ」。
初耳だった。それまで曾祖母と祖父以外身近で当時を知る人はいないと思い込んでいた。すぐにでも会いに行きたいと思った。
「マミー(祖母)。ごめん、その人に会えたりする?」。考えるより先に口と体が動いていた。
2.歴史の当事者との再会
大叔母は夫婦で北海道帯広市の郊外に住んでいた。大学3年の夏に祖母を間に挟んだ電話越しの相談の末、夏休みに足を運ぶことになった。
「ピンポーン」とチャイムを推すと中から大叔母が出てきた。「どうぞ上がって」という言葉に甘えて中に入る。
北国特有の二重のガラスフードのベランダ。南向きのリビングには暖かな陽の光が差し込んでいた。鳥が集まっているベランダの外を眺めていた。ガラスに注がれた麦茶に口をつける。
対面して最初に思ったのは、全身が筋萎縮症で不自由になりつつある祖父と比べ、スマートフォンを自由自在に使いこなす大叔母の元気な姿だった。
その姿はどこか90歳まで畑仕事をして、ひ孫である私のわがままを聞いてくれたババ(曾祖母)の姿を思い起こさせた。
大叔母は顔や仕草、雰囲気。そのすべてがババにそっくりだった。そしてどこか懐かしさを感じた。
大叔母はおもむろに「母さんの葬式の時に一度会った事があるよ。覚えてる?」と切り出してきた。
全然覚えていない。その時はババが亡くなった悲しみで泣きすぎて発熱して葬式の記憶すらないからだ。
大叔母はよく覚えていた。生まれた時のこと、保育園の時にあったこと。全て記憶がないのが情けないとも思った。
3.幻の樺太での日々
最初に引き揚げ前の樺太での生活を尋ねた。すると想定外に直ぐに答えが返ってきた。
「白砂糖でできたお菓子を食べれた」。「貧乏ではなかったよ」。
大叔母の話す記憶は戦時中であるはずだ。砂糖なんて高価で食べられなかったのではないか?と頭に疑問符が付いた。
「ワンピースみたいなキレイな制服を着て幼稚園に通った」。
「ヨーロッパみたいな渡り廊下があった。」。
「外遊びでね。冬になったら大人たちが水をまいてね、そこでよくスケートをした」。樺太の話をする大叔母は目を輝かせていて、どこか楽しそうに話していたのが印象的だった。
後から分かったのが当時の樺太は製紙業が盛んで、本土よりも経済的に裕福だった事実だった。
大叔母によれば、樺太では曾祖父も製紙業に携わっていたのだという。
4.あんまり覚えてない
話が深まってきたと思い、いよいよ引き揚げ時のことを聞いた。
しかし、何故か大叔母は「あんまり覚えていない」と繰り返す。含み笑いをしていた。
引き揚げ前のことは楽しそうに話すが、引き揚げ時の出来事についてはなかなか口を開いてくれない。
気分を悪くさせる質問を何度も聞くのは良くないと思い、話題を北海道に引き揚げたあとの話に切り替えた。
どんな暮らしをしていたのか?祖父から聞いていた苦労話や貧乏話の真相を聞いてみたい思っていたのだ。
「障子に新聞を貼ってたよ。ババが何枚も何枚も貼り付けてた」。
ババは新聞紙を何枚も張って家中を温かくしていたという。その新聞紙もどうやら集落に住む隣の家から貰った古新聞だったと大叔母は語った。
陸別町は北海道で最も寒い土地柄。そんな場所で新聞紙を断熱材代わりにしていたというのだから驚いた。
そこからはババの親戚の「〜さん」は今どこに住んでいるとか。当時の祖父がどんな振る舞いをしていたとか。
小さい頃から知っている我が家の宿老達の裏の顔が見えてきて、どこか面白かった。
大叔母が突然「そういえばタンカセンに乗ったよ」と話を切り出した。タンカセン?何の話だろうかと思っていたが。よくよく耳を傾けると「タンカー船」と言っていた。
タンカー船に乗った。つまり引き揚げ時に乗った貨物船の記憶が何気なく言葉になって出てきたのだ。
5.怖い思いをした
岸壁から板を伝って船内に乗り込み、「網みたいので降ろされて怖かった」と当時の断片的な記憶を少しずつ話してくれた。
船から貨物を積み降ろす際のクレーンに取り付けた網で、引き揚げ船から降ろされる情景は、映像の世紀かジブリアニメでしか見たことのないものだ。
近いのは沖縄の大東島でフェリーから降りる時の光景だろうか?
いずれにしても荷物用だから岸壁に到着するまではいつ破れるか分からない。当時6歳の少女が恐怖に怯える情景は容易に想像がついてしまう。
生々しい引き揚げ時の映像が頭にふわっと浮かんだ。
小さな貨物船にぎゅうぎゅうに押し込んで座らされ、恐らくいつソ連の攻撃を受けるのかも分からない中、じっと北海道に着くまでの時間を過ごしていたのだろう。
それは戦争を知らない私からするととてつもなく恐ろしいことだと思った。
そしてまた同じ様にウクライナの戦地から命がけで逃げ延びる人たちがいるということにやり切れない気持ちになった。
6.「ソ連兵に蹴られた」
「子供がソ連兵に蹴られた」。衝撃的な証言を最後に聞いた。
その子どもというのは曾祖母の子どもであり、祖父のもう一人の姉を指していた。
ソ連兵が自分の家族に、それも非力な4~5歳の子ども相手に引き揚げ時に暴行を加えたという。
信じられなかった。そして祖父も同じ様な話をしていただけに、事実関係を確かめる必要がある。
武器を持たない高齢者や子ども、非軍事関係者である女性に対する暴力、強盗や殺人事件が終戦後に侵攻してきたソ連兵によって引き起こされたのは教科書で知っていた。
だが、実際に被害が身近にあったのは初耳だった。「露助」という言葉を祖父が良く使って怒りを露わにするのには、身近な背景があったようだ。
ロシア人が悪いという訳ではない。ただ、どの時代どの場所でも引き起こされてきた戦争犯罪がなくなるのにはどうすればいいのだろうか。
国際条約を取り決めても意味がないと今回のウクライナ侵攻でまざまざと見せつけられた。やはり一人一人の倫理意識が全てであり、極論は戦争の勃発を未然に防ぐことが重要だ。
7.三船遭難(殉難)事件について
昔、祖父から「隣の引き揚げ船がソ連の潜水艦の魚雷を受けて沈んだ」と聞いた。大叔母に事実か確認すると祖父の事実誤認であることが分かった。
これもまた後で知ったのだが、祖父の言う話は「三船遭難事件」という実際に別の引揚船で起きた襲撃事件を指していた。
1945年8月22日、北海道小樽港に向かう三隻の引揚船が修理で寄港しようとした留萌港の沖合で、国籍不明の潜水艦による攻撃を受けて沈んだ。
引揚船は潜水艦から発射された魚雷と備え付けの機関銃や砲撃による攻撃を受けた。
船体が真っ二つに割れ(泰東丸、第二新興丸、小笠原丸)の乗客乗員合わせて1500人以上の死者・行方不明者を出した。
発生当時は国籍不明であった潜水艦も、戦後ウラジオストック港を根拠地とするソ連太平洋艦隊所属の潜水艦によるものであったことが、ロシア側資料で発覚している。
しかしロシア政府は現在もこの事件に関与したことを公式に認めていない。
祖父はこの事件の話を聞いて同じ様に樺太から引き揚げて留萌港で降りた自分の記憶とごちゃまぜにしていたのだろうか。
しかし、沈んだ船が祖父たちの引揚船になっていた可能性を考えると背筋が凍りつきそうだ。
8.実際に見た移住先
引揚後に祖父たちが移り住んだ「陸別町小利別」に大叔母の話を聞いて実際に行きたくなった。
そこで祖父たちがどの様に生き、なぜ今自分がこの世にいる理由を探ることができるからだ。
大叔母の住む帯広から約100キロ。音更町に住む叔父さんに頼み込んで、一緒に付き添ってもらった。
現地に到着すると果たしてどこが祖父の住んでいた場所かわからなかった。
荒れ放題の草に夏とは思えないほど涼しい風が短パンTシャツの肌をさする。
札幌に住んでいるせいか。祖父がここに住んでいたという事実に全く実感が伴わない。
要するに生活感が皆無なのだ。水道も電柱もガスも見渡す限りはない。
廃屋には繋がっていないようだった。小学校も数十年前に廃校になっていた。祖父が通ったと言っていたのを思い出した。
ここで祖父は教師から貧困家庭であったために、高校進学を諦めるよう説得されたという。今の時代からは想像がつかない。
説得といっても殴る蹴るの暴行も日常茶飯事。成績が良くとも富裕家庭の子どもが絶対評価で優遇されていたというから驚いた。
草に埋もれ誰もいない校舎からその様な景色を思い浮かべることなどできない。同様に日本の教育の負の歴史も埋もれて始めている。
祖父の父に当たる曾祖父は引き揚げ後、この地で林業に従事していた。
陸別は寒さに強い植物しか育てることのできない環境である。水田などは当然なく、周りは原生林と針葉樹林に囲まれていた。
林業が盛んで、切った木材を石北線で北見方面にビートと共に運んでいたそうだ。
当然林業だけでは樺太の製紙業で砂糖を口にしていた様な生活を送れるはずもない。
「芋しか食べることが出来なかった」と祖父だけではなくババ(曾祖母)も昔の貧乏な生活を振り返ることがあったが、本当にそうだったようだ。
戦後は日本全国で食糧不足があり、生活基盤を持たない引揚民に対して政府も生活支援の手を広げる余裕が無かった。
「樺太と北海道で生活に格差があった」。
実際に見たことで大叔母が話していた言葉の重みが分かった。同時に今の自分がお腹一杯白米を口にできるのがどれだけ幸せなのかが分かった。
9.思ったこと感じたこと
今回話を聞き、足を運んでみて、実際に祖父世代の苦労を身をもって知ることが出来たのは良い経験となった。
本当に祖父たちの足跡をたどろうと思えば、引き揚げる前に住んでいた樺太真岡の街に足を運ばなければならないとも同時に思っている。
祖父たちが留萌港から陸別まで移動する際、利用したのは汽車か馬車だったと聞いている。
歴史を客観的に知るためにも廃線となった陸別町と北見を結ぶ鉄路を遡り、昭和38年まで未舗装だったという現在の国道の様子や記録、他の引き揚げ移住した人の声も聴く必要が在る。
今回は限られた時間で祖父たちの姿を記録として残す必要が在ると思いこうして主観的な記事を書いた。
引き揚げの歴史を知る世代が少しずついなくなっていき、声が薄れていく中で、多くの人が知り次の世代へと記録を残すことには強い意義がある。
拙筆で情報に誤り等もあるかもしれない。しかし、読んでみて実際に樺太から引き揚げてきた人々の姿を知るきっかけになればと思う。