能「呂后」私作復曲台本
※詞章は「観世流謡曲内百番」により、「謡曲評釈」第2を参考としました。アイ狂言については、「鷺流狂言伝書」をもとに若干手を加えました。曲節に関しては、前掲諸作に準じました
呂后
観世弥次郎長俊 作
シテ 漢文帝
唐冠、鉢巻、袷狩衣、半切、腰帯、着付-厚板、持物-唐団扇
ツレ 呂后
面-深井、鬘、鬘帯、唐織(壺折)、色大口、腰帯、着付-摺箔 肩に小袖を掛ける
同 韓信の怨霊
面-怪士、黒頭、鉢巻、唐冠、法被(なしでも)、半切、腰帯、着付-厚板、持物-剣
同 彭越の怨霊
前に同じ ただし持ち物は矛の類にしても可
同 戚夫人の怨霊
面-般若、鬘、鬘帯、着付-鱗箔(モギドウ)、縫箔(腰巻)、腰帯、持物-打杖
(鬘は黒頭にしても可。その場合は法被・半切で着付を厚板、もしくはモギドウにするのも良い)
ワキ 大臣
洞烏帽子、袷狩衣、白大口、腰帯、着付-厚板、持物-扇
ワキツレ 廷臣二人
ワキに同じ ただし狩衣は赤
アイ狂言 下官
唐頭巾、側次、下袴、腰帯、着付-厚板、持物-扇
同 肉塊
面-武悪、鬼頭巾、カルサン 厚板を被く
作り物 小宮、一畳台(角に剣を挟む)、大屋形船
太鼓あり
場所 唐土
季節 不定
始め後見が小宮(ツレ呂后が入っている)に引き回しを掛けてワキ座に、続いて一畳台(角に剣を挟んでおく)を大小前へ置く。〈名乗り笛〉でワキ登場、続いて下官(アイ狂言)登場して後方に座る。ワキ常座で名乗り。
ワキ そもそもこれは漢の文帝に仕へ奉る臣下なり。さてもこの君と申すは、漢の高祖の第二の御子にて御座候が、兄孝恵の帝崩御ののち御位につかせ給ひて候。またこゝに父高祖第一の后、御名を呂后と申し候が、この間もってのほかの御病気にて御座候。さる間医師数を尽くし、医療さまざまにて御座候へども、さらにそのしるしもなく候。今日も皆々参内申し、御容態をも伺ひ申さばやと存じ候。いかに誰かある。
下官 (進み出て膝つき)御前に候。
ワキ 汝、宿直の番を仕り候へ。
下官 かしこまって候。(もとの座に戻る。ワキは小宮の横、地謡寄りに座る)
ここで小宮の引き回しが下ろされ、呂后が現われる。葛桶に寄り掛かり、肩に小袖を掛けている。
ワキ(不合・弱)
「それ明君の威徳には、四海安全に民栄へ、思ふことなき御代ながら、げにや浮世の習ひとて、かくたぐひなき翠髪美麗の、花のかたちも今ははや、うつろふ色の増鏡、
地謡(下歌、拍合・弱)
「曇りがちにて打ち向ふ、影をも未だいとひつゝ、
(上歌、同前)
「いさゝめの、仮なる世ぞと思へども、仮なる世ぞと思へども、さらに驚く夢の間を、なほ待遠に春風の、まだき梢を何とたゞ、夕べ夕べと誘ひきて、花にはつらき風ならん、花にはつらき風ならん。
この謡の終わりに肉塊(アイ狂言)が厚板を被いて登場し、すぐに舞台に入る。下官、立って肉塊を見やる。
下官 これはいかなこと、不思議な者が参った。おのれ逃すことではないぞ、やることではないぞ。
下官、扇を振り上げ、肉塊を追って舞台を一巡する。(肉塊は転がるような振りをしても良い)最後に肉塊が橋掛かりに来ると、下官は扇を剣に見立てて斬るしぐさをする。肉塊は被衣を後ろへ投げ捨てる。
下官 これは何者ぞ。
肉塊 汝が突いたところが目となり、切ったところが口となったほどに、謂れを語って聞かせう。これは韓信・彭越が亡魂にて、呂后に恨みをいはんために出た。その仔細は、項羽・高祖の戦、天下に隠れなきことなり。項羽の勢は三十万騎、楚国の方より攻め上り、すでに高祖も討たれ給はんとせし時、この両人の者、鎬を削り鍔を割り、防ぎ戦ひ切り崩し、それのみならず、烏江の野辺の戦も心に及び難きを、この両人命を捨て、たちまち項羽が首を掻き落とし、高祖に奉りし時、高祖両人の者に御手を合はされしこと、呂后もしろしめされずや。かやうに大功の者を、呂后の讒言により、やみやみと生け捕り、縄に掛かり斬られしこと、恨みの中の恨みなり。是非ともこのたびは、呂后の命を取らいでは叶ふまじくと思ひ来りたり。すなはち戚夫人も只今来り給ふ間、必ず取らいでは叶ふまいぞ、叶ふまいぞ。(退場。下官は切戸より退場)
ワキ これは不思議なる事どもにて候ほどに、この由を主上へ奏し奉らばやと存じ候。
〈真ノ来序〉でシテ、ワキツレ二人登場。シテは一畳台で葛桶に掛け、ワキツレはワキの横、地謡寄りに座る。
シテ いかに誰かある。
ワキ (進み出てシテに向き手をつき)御前に候。
シテ 只今肉塊といふ化生の者来り、后に障礙をなすとは誠にてあるか。
ワキ (座を変え、語り)さん候、にはかに天地鳴動して、一つの肉塊躍り廻る。目も口もなし、切りたゝけば、切りたるところ口となって、呂后を罵っていはく、『我はこれ韓信・彭越が亡魂なり。さても奢れる秦の始皇を討ち平らげ、咸陽宮に攻め入り、漢の天下となすことも、皆これ韓信・彭越が忠節なり。しかのみならず、項羽、五十万騎の軍兵を引き具し、西のかた楚国より、鴻溝西まで打って上らせ給ひ、すでに高祖も危なかりしを、韓信・彭越が一命を軽んじ戦して、烏江の河のほとりにて、項羽が首を刎ね落とし、高祖に捧げ申しゝ時、この両人の忠臣を、一丈に壇をつき、三度礼し給ひしを、呂后はしろし召されずや。かく大忠の者どもを、呂后の讒言深きにより、雲夢沢にて鷹狩と称し、たばかりおめおめと召し取られ、都へ引きのぼされ、恥を漢家にさらし、長楽宮にて斬られしこと、ひとへに呂后の口故なり』と、大音声に呼ばゝりぬ。(シテへ向き)なんぼう恐ろしき事どもにて御座候。
シテ これは不思議なることにて候かな。(ワキもとの座に戻る) (呂后へ向き)いかに呂后、たとへ魔縁の障礙ありとも、王位にしくことよもあらじ。只々御心を強くもち、なほ良薬を用ゐ給へ。
呂后 (不合・弱)
「げに恐ろしや目の前に、さまざま見えし化生の姿、今は命の限りぞと、思ひ乱るゝ露の身の、置きどころなき心かな。
シテ「さらでだに弱きに弱き青柳の、
呂后「いと苦しさも身一つの、
シテ「思ひの色は、
呂后「それぞとも、
地謡(上歌、拍合・弱)
「いはんかたなき身の行方、いはんかたなき身の行方、あまりになれば何と我が、心の奥は知られなん。よしやなしつる我が咎の、因果のめぐる小車の、やるかたなや身の苦しみ、見るに涙もとゞまらず。(二人シオる)
シテ正面に直る。以下しばらく一同着座のまま。
(クセ、同前)
「げにや人目のみ、しげき深山の青つゞら、苦しき世をも、思ひわびぬる、身はいつまでの、果てしはかなみかくばかり、浮名に残らんは、げにつゝましき心かな。
シテ「春来れば、柳の糸も解けにけり、
地謡「結ぼゝれたる我が心をば、思ひ知るらん夕暮れの、月もうつろふ宮の内、心も澄める折からや、いとゞあはれの、なほ身にしめる景色なり。
シテ かくて宮中ものさびて、心を澄ます折節に、
(不合・強)
「不思議や青天かき曇り、雷はたちまち震動して、大雨しきりに降り来り、身の毛もよだつ折節に、
地謡「大ひなる雲、南殿の、庭上にこそ顕れたれ。
この謡の間に大屋形船の作り物(ツレ怨霊三人入っている)に引き回し(黒系統のが良い)をかけて橋掛かりへ出す。
地謡(ノル・強)
「不思議や雲の内よりも、不思議や雲の内よりも、あたりを払ふ大魚の上に、大船現れ船中を見るに、各々怨霊現れたり。
謡の終わりで船の引き回しが下ろされ、韓信・彭越・戚夫人が現れる。(引き回しは船から外したあと、いったん横いっぱいに広げてから下ろすと良い。この間に韓・彭が胴の間から左右に出る。戚夫人は胴の間で葛桶に腰掛けている。引き回しが下ろされると三人並んでいる)
戚夫人(不合・強)
「我は知らずや戚夫人とて、帝の寵愛浅からず、花と争ふ粧ひを、三毒の風に落花となす、それのみならず趙王まで、殺し給へばその仇を、報ぜんために来りたり。
韓・彭(同前)
「これは高祖のつはものに、韓信・彭越とて大忠の者、呂后の讒言に身を失ひし、恨み申しに現れたり。
地謡(ノル・強)
「とりどり恨みを申し上げ、とりどり恨みを申し上げ、たちまち呂后の命を取らんと、各々呼ばゝるその声は、天地も響くばかりなり。(三人、舞台をきっと睨む)
シテ(同前)
「文帝これを見るよりも、(橋掛かりを睨む)
地謡「文帝これを見るよりも、天地の間何物か、王位を犯さんと夕潮の、御剣を抜き持ち、呂后を囲み(シテは一畳台に挟んだ剣を取り、台から下りて小宮横に座る)、待ちかけ給へば、各々雲より下り立ちて、呂后を取らんと進む中にも、(ツレ三人船より下りる)、恨みは数々胸にも戚夫人、せきあへぬこの身の思ひかな。(韓・彭は大小前あたりに立つ。戚夫人は舞台中ほどへ出て呂后を睨む。後見が船を引く)
(ツレ三人舞働)
前と同じ場所で舞い留め、次の謡に合わせて斬組。
韓・彭「韓信・彭越、打ち物を振り上げ、
地謡「韓信・彭越、打ち物を振り上げ、玉体に掛かれば、主上は剣を取り直し給ひ、かの怨霊と戦ひ給へば(シテは立って進み、韓・彭と斬り合わせる)、よき隙なりと戚夫人、呂后の御手を取って、行かんとするを(戚夫人は小宮に進んで呂后の肩にかけた小袖に手をかける)、文帝走り寄り押し分け給ひ(シテは戚夫人を押し隔てる)、剣を振り上げ刺し通し刺し通し、投げ捨て給ひ(シテは戚夫人を刺して押し伏せる。戚夫人は退場)、残れる霊鬼を追っ詰め斬り立て(再び韓・彭と斬り合わせる)隙間をあらせず戦ひ給へば、王位に恐れ、虚空をさして上がりけるが、(韓・彭は幕へ退場。シテは常座へ進み、幕の方を見る)今よりのちは来るまじと、呼ばゝる声は雲中に聞こえ、呼ばゝる声は雲中に聞こえ、五更の一点も明けにけり。
シテ、留拍子を踏む。一同退場。
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